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日蓮大聖人・池田大作

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創価中学・高等学校第23回栄光祭 「一人立つ」ときに強き勇者に

1990.7.17 教育指針 創価学園(2)(池田大作全集第57巻)

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1  きょうは、歴史に残る、第二十三回栄光祭おめでとう。
 諸君は、私の宝である。諸君は、私の意志を継いでくれる一人一人である。諸君は、世界に雄飛し、私の切りひらいた道を完成しゆく一人一人である。
 そのことを思うと、私は最高の幸福者である。そして、何の心配もないし、何の憂いもない。私の人生の幸福は、王者のごとくである。諸君のますますの成長と健康をお祈りしたい。また、ご家族の皆さま、教職員の方々に、私は心から感謝と祝福を申し上げます。(拍手)
 きょう七月十七日は、私の出獄の記念日である。その意義もこめ、本日はまず、アーマンド・ハマー博士の自伝にもとづき、博士のお父さんの話を少ししたい。
 じつは、ハマー博士は、もっとも多感な青春時代に、お父さんを裁判にかけられ、投獄されるという、つらく苦しい歴史をきざんでいる。それは、医師であるお父さんが、殺人罪で告訴されたことである。くわしい事情は略すが、患者さんを思ってのお父さんの善意の行動が、曲解された。そしてまた、社会運動に関心をもっていたお父さんをおとしいれようとする反対勢力の動きもあった。
 ハマー青年は、父の潔白を信じ、懸命に訴えた。だが、父を守るべきはずの弁護士が、これまた悪徳弁護士で、少しも役にたたない。そればかりか、勝てるはずの裁判をかえって不利に進めたのである。また、悪意のマスコミにも興味本位に書かれた。裁判を戦う者にとって、これらは致命傷ともいえる。
2  諸君の力で”正義の道”の証明を
 本来は正しき人のため、権力をもたぬ立場の人のために戦うのが弁護士等の職業である。しかし現実は、かならずしも、そうなってはいない。その矛盾した社会を変革するために諸君がいる。
 今や学園出身者の中からは、多くの弁護士も誕生しており、私はうれしい。その成長と活躍を心から期待している。(拍手)
 結局、ハマー博士のお父さんは、裁判に負け、有罪の判決を受ける。
 「愛する親が、被告席に座っていたり、囚人服を着せられた姿を平然と正視できる人はきわめて少ないだろう」(アーマンド・ハマー『ドクター・ハマー』広瀬隆訳、ダイヤモンド社)と、ハマー博士は振り返っている。
 ハマー博士の人生にあって、まさに「悲しくて絶望に満ちた時期であった」(同前)。しかし、当時まだ医学生だったハマー青年は、歯をくいしばって勉強を続けた。
 ”今は何もできない。しかし今に見よ! ともかく力をつけよう、学びに学ぼう。そしていつか、父の正義と真実を証明するのだ。仇を討つのだ”  
 ――私には、そうしたハマー青年の心情が痛いほど伝わってくる。
 私の恩師戸田先生も、そうであられたからである。先生は、権力によって獄死させられた牧口先生の正義を証明するために、一人立たれた。そして私は、戸田先生の正義を証明するために一人立った――。
 やがて、大学を卒業すると、ハマー青年はアメリカから、父の祖国ロシアヘ渡る。当時、チフスがはびこっていたこの地で、学んだ医療を役立てよう、そしてまた、刑務所の独房に捕らわれの身となったお父さんに、懐かしい祖国の革命後の様子を伝え、励まそう――そうした気持ちがあった。
 一流の人物は、逆境をバネとして大きく力をつけていく。”もうだめだ”と結論するのは、その人の心の弱さの証明でしかない。
 ハマー青年は、父の投獄というもっとも悲しい悔しい体験をバネとして、自身の舞台を、大きく世界に開いた。「アメリカとソ連の懸け橋」としての行動を、雄々しく開始したのである。
 後に、ハマー青年は、ソ連で事業を成功させ、出獄したお父さん、お母さんをアメリカからモスクワに招いて、親孝行をしている。そして、何よりも、世界を舞台にしためざましい活躍の姿をとおして、父に着せられた汚名をそそいでいったのである。また事実、ハマー博士は有罪判決をくつがえす裁判を起こし、一九四三年に、父の無罪判決を勝ち取っている。(寺谷弘壬『ドクター・ハマーが動いた!』KKベストセラーズ、参照)
 まことに味わい深い、すばらしい人生のドラマといってよい。博士の経歴のうえから、諸君の何らかの参考になればと思い、紹介させていただいた。
 「世界を制覇せんとするものは、汝自身の悲哀を制覇せよ」との言がある。私の好きな言葉の一つである。
 多感な青春時代、諸君にも大なり小なり、つらいこと、苦しいことがあるかもしれない。しかし、そこで負けてはならない。強く、また強く耐えながら、学びに学び、力を磨き、人生の勝利者に育っていけばよいのである。私は諸君の活躍を、いつも見守っている。また一生涯、見守っていく。(拍手)
 次に、これも「捕らわれの身」に関連するが、真実の勇者、真の戦士とはだれか、いかなる人物かということにふれておきたい。
 ――大海の深き淵は見えない。青空の遠き奥も見えない。
 大いなる勇気も、浅き世間の目には、見えない。それどころか、しばしば、臆病にさえ見える場合がある。
3  真の戦士を描く戯曲「カレーの市民」
 今春、卒業式で、彫刻家ロダンのお話をした。彼の傑作の一つに「カレーの市民」がある。これは十四世紀の史実に題材をとった作品である。
 カレーとは、フランス北端の港町。ドーバー海峡をはさんで、イギリスとむかいあっている。
 物語は、イギリスとフランスとの「百年戦争」(1337年〜1453年)中のことである。
 一三四七年。カレーは、イギリス軍に包囲されていた。もう、一年間も、こんな状態が続いている。カレーに助けをだすべきフランス王フィリップ六世にも、見すてられてしまった。
 その時、市民はどう生きぬいたか――。この極限の状況のなか、今なおヨーロッパ中の人々に語りつがれる人間のドラマが、カレー市に生まれたのである。
 その魂の劇を描いたのは、ドイツの劇作家ゲオルク・カイザー(1878年〜1945年)。反ナチスの作家としても有名な彼の戯曲「カレーの市民」は、世界中の人々に感銘をあたえた。
 日本でも上演され、またよく読まれた。原作は少々、むずかしい面もあるので、本日は、青春時代の記憶もまじえながら、あらすじのみお話しさせていただきたい。(主に以下の資料を参照)。ゲオルク・カイザー「カレー市民」久保栄訳、『世界戯曲全集17』〈世界戯曲全集刊行会〉所収。片山良展「カイザー『カレーの市民』」、『現代ドイツ戯曲論集』〈クヴェレ会〉所収)
 その日の朝、カレーの市民たちのもとに、イギリス王エドワード三世からの使者が、苛酷な和平条件を携えて来た。「町を破壊されたくなかったら、一つの条件をのめ」というのである。負け戦のカレー市としては黙って耳をかたむける以外にない。
 負けることはみじめである。悲惨である。人生もまた断じて勝たねばならない。
 その条件とは――。使者は言う。
 「明日の朝までに、六人の代表の市民を英国王のもとにさしだすのだ。その六人は、帽子をつけてはならぬ。靴もはいてはならぬ。裸足で、哀れな罪人の衣を着、首に縄をかけて来い。そして国王の前に命をさしだすのだ。そうすれば、町は破壊から救われよう」
 屈辱的な要求であった。人間を愚弄する傲慢の言であった。戦争の場合でなくとも、優位な立場をカサに、人を見くだし、抑えつけ、利用しようと、いばる人間は、いつの世にもいる。そうした権威・権力に断じて負けてはならない。
 市民たちは怒った。とうてい、こんな申し出を聞くことはできない。「武器をとろう!」。声があがった。しかし玉砕は一〇〇パーセント確実である。女性も、子どもも、老人も全員が、犠牲になるであろう。町も港も破壊されよう。
 それでも、「皆、ともに死のうではないか――」。という声が優勢であった。フランス軍の隊長デュゲクランが、そうした人々を、あおった。
 「戦おう!」隊長の声は勇ましかった。人々は興奮状態にあった。
 「華々しく突進して死ねばよいのだ!」。そのほうが、潔いし、この長い苦しみからものがれられる――。隊長の剣の上に、一人また一人と、誓いのため手を置いていった。この若者も、あの老人も――。しかし、一人だけ、手を置くことを拒んだ者があった。それまで静かに議論を聞いていたサンピエールだった。彼は言った。
 「私は反対だ。われわれは、何よりも大切な、この港を守らねばならない。あとから続く人々のためにも――」
 「この港は、われわれ市民が営々たる労働でつくったものである。市民が自分の腕で重い石を運び、背を曲げ、ぜいぜい息をきらして、働いた結晶である。こうして、湾は深く掘りさげられた。立派な、防波堤が築かれた。あらゆる国の船が、安心して停泊し、航海できる港ができたのだ」
 「六人の市民を犠牲にすることは、もとより断腸の思いである。しかし、カレーの港は、わが命よりも貴いと思わねばならない。なぜなら、この港は、世界の万民に幸福をもたらすからである」――。
4  人類のための”幸福の港”に
 この学園も、ひとつの、人類のための”幸福の港”である。大切なこの宝の港を、断じて守りぬかねばならない。悪に蹂躙されてはならない。権威に利用されてもならない。人類のため、正義のために――。
 その”港を守りぬける”真実の勇者はいったい、だれなのか。ここに問題がある。建設するのも人間、破壊するのも人間。一切は人間で、人物で決まるからだ。」
 無謀な戦闘をいさめるサンピユールの言に、人々は、「何という臆病者だ!」「卑怯ではないか!」と口々にののしった。
 しかし、じゅんじゅんと説くサンピエールの冷静な声に、しだいに賛同の意見が増えていった。
 「それでは――」。一人の市民が発言した。「だれがイギリス国王の前に行くのか!」
 みずから死ぬ者はだれなのか――。この問いかけに、場内は一瞬にして、水を打ったように静かになった。だれもが顔をこわばらせた。そして……。
 「では、私が行こう!」。立ち上がったのは、サンピエールだった。本当に偉い人物は、いざという時にこそ泰然自若としているものである。人々の間に異様な感動が走った。もう彼のことを、臆病者などという人間はいない。いるはずがなかった。
 私は思う。人々をけしかけて、無謀な玉砕へと赴かせるような人間が”勇者”なのか。みずからの命を捨てて、人々を守り、祖国を守る者が”勇者”なのか。
 大勢の人に命令し、できあがった組織を使って、何かをやらせることはかんたんである。また華々しいし、力があるように見える。また、それが必要な場合もあるかもしれない。しかし、それは真の「勇気」ではない。
 一人立ったサンピユールのもとに、もう一人の市民が、静かに寄りそった。「二人目」であった。魂は魂を揺さぶる。「よし、おれも!」、三人目も立った。四人目、五人目と続いた。あと一人である。人々をけしかけた、あの隊長は名乗り出ない――。
 「よし、私が!」。二人の兄弟ジャックとピエールが同時に声をあげた。六人でよいところが、七人になってしまったのである。予想外の出来事であった。どうするか。「では、くじ引きで一人を除こう!」。場所を変えて、抽選することになった。
 それは恐ろしい光景であった。はじめ七人は、命を捨てる覚悟だった。ところが、ここで命が助かる新しいチャンスが出てきたのである。妻の顔、子どもの顔が浮かんでくる。母が、恋人が、「どうか、あの人がくじに当たりますように!」と泣きくずれる。
 勇者の心の宇宙にも、暴風雨が吹き荒れた。自分の「勇気」はもう、申し出ることで立派に証明した。助かってもいいのではないか? 人間の心理は微妙である。次々と不安と苦悩の黒雲がわきおこってきた。
 布をかけた皿に七人が一人ずつ手を入れる。青い玉なら死。命をかけた、くじである。一人目、青い玉だった。二人目、また青い玉だった。三人日、四人目、五人日、皆、青い玉だった。「どうなっているんだ!」。耐えきれず、一人が布をあけた。
 なんと七つとも全部青い玉だった。驚く人々にサンピエールは言った。
 「私がそうしたのだ! なぜか? はじめわれわれは命を捨てる覚悟だった。しかし、皆に迷いが起こってしまった。決心がゆるんだ。これでは命を捨てての大業を成し遂げることはできない!」
 だれが選ばれても、選ばれなくとも、皆の心に恨みと悔いのシミを残してしまう、と考えたのである。皆の、目に見えない「一念のゆるみ」を、彼は見のがさなかった。彼ひとりは、いささかも心が揺れていなかったからである。
 結局、彼の提案で、明朝、広場に、もっとも遅れて着いた者が、犠牲をのがれることになった。
 翌朝――大勢の市民が広場に集まっていた。だれが最初にくるか? 皆、サンピエールが一番と疑わなかった。ところが――。
 三人の勇士が相前後して着いた。人々は彼らに罪人の衣を着せ、裸足にし、首に縄をつけた。
 「サンピエールは、いったいどうしたのか?」「次にきっと来るよ」。しかし四番目も別の人であった。皆の瞳に動揺の色が濃くなった。五番目、そしてついに六番目!
 それでもサンピユールは来ない。これでは、この六人が犠牲になるのか――。
 「われわれはだまされた! 彼ははじめから来ないつもりだったのだ。今ごろ、われわれのバカ正直を笑っているだろう!」。六人のうちの一人が叫んだ。
5  心は水遠の王者として
 市民のすべてが怒った。「彼はわれわれ皆を裏切った!」。殺気だった人々が、彼の家に押しかけようとした。その時――。
 黒い布をかけた一つの柩が、しずしずと広場に運ばれてきた。そばにはサンピエールの老父が立っていた。老父は言った。
 「これはサンピエールです。息子は、こう言いました。”私は先に行くから、六人の人よ、あとに続いてくれ”。そう言い残して死にました」
 サンピユールは、ひとたび立った勇士たちを、だれひとり迷わしてはならないと思ったのであろう。だれが最初とか、だれが最後とかではなく、みずから立った”選ばれた勇士”の誇りを皆にまっとうさせたかった。そのためには、自分が、真っ先に、手本を示す以外になかったのである。
 ここに真正の「勇者」がいた――。六人の魂は奥底から震えた。そして大盤石の決意で、皆が見守るなか、町の外へと、歩みはじめた。もう何の迷いもなかった。晴ればれとしていた。姿は罪人でも、心は皇帝であった。王者であった。
 たとえ世の非難を一身に受け、牢につながれる身となろうとも、心は永遠の王者である――これが恩師に仕えて以来、貫いてきた私の不変の生き方である。ゆえに私は何ものも恐れない。
 いかなる批判と偏見、中傷と誤解が渦まこうとも、また同志すら、私の心がわからない場合があろうとも、「真実」はかならず後世に証明されると信じているからである。また諸君がかならずや証明してくれると信じているからである。(拍手)
 この出来事は、いち早く、イギリス王のもとに伝わっていた。六人の前に、王の使者が走ってきた。「まだ遅れてはおりません!」。六人は使者にそう言った。責められるかと思ったのである。ところが使者は「国王の特別のはからいで『だれの命も絶ってはならない』との命令である― カレーの町は救われた!」と告げた。
 やがて王が町に入ってきた。そしてサンピユールの柩の前に、王みずからひざを折り、その前にぬかずいたのである。敵味方を超えて、人間としての本物の戦士に敬意を表するために。こうして、一個の美しき高貴なる魂によって、カレーの町も、港も、市民も救われたのである。
 人生は戦いである。人は皆、戦士である。戦人として生きねばならない。それが生命の掟である。戦いを避けることは、それ自体、敗北である。
 しかし、戦いがつねに、華々しいものとはかぎらない。むしろ地味な、孤独な「自分との戦い」が、その九九パーセントを占める。それが現実である。
 ある場合は、人まえで格好よく旗を振ることも大事であろう。しかし、それ以上に、他の人を守るために、あらゆる犠牲を「忍耐」して、一人、前へ進む人のほうが偉大である。真の勇者は、時に、格好悪く、地味そのものなのである。
 また大勢、仲間がいる時は、だれでも勇気が出てくる。「戦い」を口にすることも容易である。
 しかし、真の「責任」をもった人間かどうかは、一人になった時の行動で決まる。
 私のモットーは、一つは「波浪は障害に遇うごとに、その頑固の度を増す」である。そして、もう一つは「一人立てる時に強き者は、真正の勇者なり」である。これは十六歳からの私の信念となっている。
 先日、関西で「ノブレス・オブリージュ」(指導者に高貴なる義務あり)のお話をした(=五月五日、創価教育同窓の集い)。その後、こうした哲学と指導者論が国際化時代には不可欠であるとの言論も、多く見られるようになった。
 それはそれとして、この「カレーの市民」は、フランス人の勇者が、イギリス王の心をも動かした歴史であり、ドイツ人の劇作家によって戯曲化されたものである。
6  今は「勉強」と「鍛え」の時代
 「個人」が、あらゆる艱難を超えて、高貴なる信念に生きぬいていく――。そこにヨーロッパの最良の伝統がある。私が、この話をする理由も、何より諸君が、個人として偉大であれ、崇高であれ、高貴であれと望むからだ。
 卑しい人間にだけはなってほしくない。浅はかな人生を生きてほしくはない。他人はどうあれ、自分は自分の信念として、偉大な自分自身の人生を創っていっていただきたい。
 集団主義の熱狂と、無責任。権威へのよりかかり。無定見に「あおる」人間に、だまされ、のせられやすい風土が日本にはある。
 そうした精神土壌とは、まったく異なる新しい人材を私は育てたい。世界的な人物を、「本物の人間」を、この学園で育てたいのである。とくに若い間は、派手な活躍にあこがれがちである。それも決して悪いことではない。成長のバネになる場合もある。また時に、広い舞台で、思いきり、あばれることも大事であろう。
 しかし、諸君の本格的な活躍の舞台は、二十一世紀である。その時に、先輩の築いた”幸福の港”を守り、責任をもって勝利していくために、今は満々たる闘志を秘めながら、じっと忍耐する勇気、勉強しぬく勇気と根性を貫いていただきたい。
 その「勇気」ある人は、いざ、みずからの”武器”をもって戦うべき時には、先陣をきる英雄ともなるにちがいない。巨匠ロダンの手で見事に魂を得た「カレーの市民」の像は、今もカレー市庁舎の前に厳然とあり、市民を見守っている。
 諸君には、これから長い長い人生がある。きょうの私のスピーチが、そのすばらしい勝利のために、何らかの糧になれば幸いである。本日は本当におめでとう。すばらしい演技もありがとう。

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