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日蓮大聖人・池田大作

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関西創価小学・中学・高等学校合同第二回… 使命の人に生命の勲章は輝く

1989.1.31 教育指針 創価学園(2)(池田大作全集第57巻)

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2  ”民衆とともに”
 また学長は次のようにも語っておられた。
 「クイーン・メアリー・カレッジは、百二年前、当時、貧民地域とされたロンドン東部に、『ピープルズ・パレス(民衆の宮殿)』として設立された。それが私どもの誇りである」と。
 権威や一部の特権階級のための大学ではない。民衆のための大学である。そこが、同カレッジの誇りであり、今に生きる創立の精神である。
 私の教育への信念もまたここにある。そのために創価大学、創価学園を創立したのである。
 また会談のさい、同校の歴史をつづった本(『FROM PALACE TO COLLEGE(宮殿から大学へ)』1987年刊)を贈ってくださった。その本には、クイーン・メアリー・カレッジの設立にさいし、教育にかけた一人の人間と、その心を継いで立ち上がった人々のドラマが描かれていた。
 その一人の先駆者の名は、バーバー・ボーモント。彼は、画家、実業家、軍人でもあり、多方面で活躍していた。彼には敵も多かったし、新聞等でも批判の的とされることもよくあった。しかし、財をたくわえたボーモントは、地域の人々のために、ある機関を設立する。それが、後年、「ピープルズ・パレス」へと発展していくのである。
 その機関は、近所の人々が集い、思想や道徳の向上を図ったり、仕事の合間に有意義な余暇を楽しめるような施設の設立のためにつくられたものであった。ところが、設立直後の1841年、ボーモントは亡くなってしまう。彼の死後も、その遺産で機関は存続するが、1879年、ついに閉鎖されてしまう。
 その時、ボーモントの理想を実現すべく立ち上がった人々がいた。いつの時代にも、偉大な理想を受け継ぎ、実現に走る人がいるものだ。
 私も、私の理想をかならずや諸君が受け継いでくれるにちがいないと確信しているがゆえに、いかなる苦難、迫害も恐れない。
 ボーモントの遺産管理委員会の委員長に就任したエドマンド・H・カリーなどが、貧しい人々のために教育を普及しようとして、図書館、また余暇や社交の施設などの設立に奔走する。
 はじめは小さかったその運動も、やがて広く人々の支持を得、「ピープルズ・パレス」設立への足がかりとなっていく。そして、ボーモントの死後46年で「ピープルズ・パレス」が開設される(1887年)。これが、クイーン・メアリー・カレッジの淵源となったのである。
 また、この運動を、いわば陰で支えた一冊の本があった。それは、「民衆の官殿」の設立に先立つ五年前に発表されたベストセラーで、若い二人の男女を主人公とした物語である。(ウォルター・ベザント『ALL SORTS AND CONDITIONS OF MEN<あらゆる種類あらゆる身分の人間たち>』1882年刊)
 二人は、いずれも、裕福な環境に育った。しかし、そうした生活に背をむけ、ロンドンの労働者街に住む、下層の人々のために献身することを決意する。
 そして彼らは、この貧しい街に、音楽の広場、美術ギャラリー、読書の部屋などの機能をもった”文化の施設”の建設を構想する。日ごろ、教育を受ける機会のない人々の啓発をめざすその施設を、二人は「パレス・オブ・ディライト(歓喜の官殿)」と名づけた――。
 ”民衆のためのパレスをつくろう”―― このみずみずしい情熱の叫びが、同時代を生きる人々の胸に共感を呼び、触発をあたえた。そして「民衆の官殿」建設への世論を高めていく力となったのである。
 先日、創価大学のある卒業生から手紙が届いた。その中で彼はノーベル賞設立のさいのエピソードにふれていた。
 1896年12月10日、ノーベルは逝去する。数週間後、ノーベル賞設置を述べた彼の遺書が公開された。しかし、その内容は人々を憤慨させ、世間にセンセーションを巻き起こした。
 何人かの親族は、遺書が法的に無効だと主張した。遺書を資本主義の妄想だと非難した有名な学者もいた。ある人は「ノーベルはスウェーデン人のために賞を作らなかったから愛国心がない」と批判した。遺書の目的に反対する権力者の動きもあったという。
3  新たな時代切りひらくのは青年
 いうまでもなく、現在、ノーベル賞は世界で最高峰の国際賞である。また、その目的も人類全体の文化向上を願った崇高なものであった。しかし、構想の発表当時は、このように反対の嵐に直面した。どんなに正しい行動であっても、はじめはかならず無認識の抵抗と圧迫にあう。これが歴史の常である。
 しかし、激しい反対にもかかわらず、やがて、ノーベルのアシスタントの青年たちの手により、一九〇〇年になってノーベル財団が設立された。
 新しい時代を切りひらくのは、青年である。青年の純粋な情熱である。目の利害にとらわれがちな大人たちではない。
 ゆえに私も青年に期待し、新しい”民衆の時代”のために、”新しい学園””新しい大学”を創立した。そして今や世界の各地に、また日本の各界に、卒業生が、はつらつと活躍する時代となった。手紙を送ってくれた彼も、その一人である。
 手紙には、こうした歴史をとおして、”先生の平和への理想と行動も、かならずや、時とともに、その価値が証明され、輝きを増していくと思います。また、それを信じて力を尽くします”と書かれていた。その真心が私はうれしかった。
 学園は知性と文化の庭であり、教養と人格を深める場所である。その意味で、本日の集いでの音楽演奏は、まことに意義があるし、私は感銘した。
 なかでも小学校の「アンジェリック・ブラスバンド」による「アパラチアン序曲」は、その名のとおり、雄大なアパラチア山脈をほうふつさせるような立派な演奏であった。
 同ブラスバンドは大阪府の吹奏楽コンクールで四年連続「金賞」の栄誉に輝いている。その評価も、もつともであると納得できた。
 また中学・高校の「オーケストラ・クラブ」による「シンフォニー・フォー・バンド(吹奏楽のための交響曲)」(ジェイガー作曲)も、難曲中の難曲といわれているにもかかわらず、見事な演奏であった。
 昨年末、同クラブ(中学校)はコンクール(こども音楽コンクール西日本優秀校発表音楽会)ではじめて「優秀賞」を得たと聞いている。私はきょうの二つの演奏のテープを、これから訪れるヨーロッパの大学関係者や各界の人に贈らせていただくつもりである。(拍手)
 最後に私は「自身の胸中に”生命の勲章”を」と強調しておきたい。
 創価学園や創価大学には、パン・ヨーロッパ主義の提唱者クーデンホーフ・カレルギー伯や、モスクワ大学の故ホフロフ総長など、世界の多くの方々が訪間されている。
 その方々が、かつて「すばらしい学校です。かならず、この中から将来、ノーベル賞をとるような人物が出ることでしょう」と語っておられた。
 私も、そうした逸材の輩出を心から期待したい。そして、私は何より諸君に、自分らしく、自身の信念と正義の道を貫き、使命の人生を誇り高く生きぬいてもらいたい。その人の胸にこそ、永遠に色あせない”生命の勲章”が輝くからだ。
 ノーベル賞をはじめ、社会には幾多の有名な賞や勲章がある。その価値は価値として、ある意味で、社会の賞は他人が決めるものである。その人の真価どおりとはかぎらない。これに対し、真実の「人生の勲章」は、すべて自分の生き方で決まる。ゆえに諸君は、だれが認めようと、認めまいと、一時の評価等に絶対に左右されることなく、堂々と「わが道」を行っていただきたい。
 そして学園の卒業生らしく、一人残らず、自分にしか勝ち取れない”わが人生のノーベル賞” ”わが青春の不滅の勲章”をつかみとっていただきたい。これが私の最大の念願であることを申し上げ、本日の話としたい。

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