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日蓮大聖人・池田大作

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創価中学・高等学校第二十一回栄光祭 21世紀の舞台へ、学びに学ベ

1988.7.17 教育指針 創価学園(2)(池田大作全集第57巻)

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5  師ソクラテスの理想を後世に
 プラトンは、また膨大な著作活動によって、師ソクラテスの正義を証明し、その思想の偉大さを後世にとどめ残していった。”プラトンは書きながら死んだ”ともいわれる。晩年の大作『法律』十二巻は、最後の日まで書き続けられ、未完のまま、絶筆となっている。この書もまた、正しき社会のあり方を探究したものである。
 プラトンの胸中からは、師の面影と、師を殺した社会の腐敗への怒りが消えることはなかった。そのせいでもあろうか、彼の多数の「対話編」には、つねにソクラテスが登場し、縦横に活躍している。現代のわれわれは、このプラトンの著作があるからこそ、はじめてソクラテスの思想と生き方を知ることができるわけである。
 ところでアカデメイアの学員(学生と研究生の総称)の人数は何人ぐらいであったか。正確な記録はないようだが、プラトンの時代の人数を四十二人とあげた研究もある。これは聴講した全員ではなく、おもな弟子の数と考えられるが、いずれにしても”少数精鋭主義”であったことはたしからしい。
 教える者と学ぶ者が、身近にふれあい、全人格をぶつけて磨きあいながら、ともに学問に励んでいった。そうした「人間をつくる」切磋琢磨の情景が浮かんでくる。時代は異なっても、この「人間教育」の行動ほど尊いものはないし、その理想に徹しゆく教師という仕事は、まさに「聖職」であると私は思う。
 学生は十五歳から十八歳で入学したという。皆さんと同じ若い世代である。
 あのアリストテレスがアカデメイアに入学したのも十七歳の時といわれる。この時、プラトンは六十歳――。
 アリストテレスは、プラトンが八十歳で亡くなるまでの二十年間、三十七歳まで、このアカデメイアにとどまり、研究生活を続けている。もっとも大切な青春の二十年を師のもとで研究ひとすじに生きぬいたのである。
 彼はプラトンから「本読み係」とか「頭脳」などと呼ばれていた。くる日もくる日も、寸暇を惜しみ、本を読んで読みきった。徹底して思索に思索をかさねた。そして若き日の盤石な基礎の上に、一生をとおして学問の大系を築き、師プラトンとアカデメイアの名を不朽のものにしていったのである。
6  読書に挑戦し思索を深めよ
 諸君も今こそ読書に挑戦すべき”時”である。中途半端であっては、後悔するのは自分である。私も図書の贈呈をはじめ、学園の読書の環境づくりに全力で尽くしていく決心である。(拍手)
 アカデメイアの人材輩出の歴史は、紀元前三八七年の創立から、紀元後五二九年の閉鎖まで、じつに九百年以上にわたって沿々と続いていく。後継の陣列がとぎれなく続いた、その輝かしい歩みは「黄金の連鎖」(=黄金の鎖が、とぎれなくつながっていること)と呼ばれ、たたえられている。(アカメデイアについては、廣川洋一『プラトンの学園アカデメイア』岩波書店を参照)
 わが創価学園もまた、「千年」をひとつの単位とし、人類のはるかな未来を見つめて創立したものである。この精神は創価大学も同様である。
 学園は創立二十一周年。その意味で、諸君は、まさに縁深き「草創の人」である。私にとってももっとも大切な人々である。どうか、限りなく続くであろう後輩のために、「学園草創」の誇りも高く、この人生を尊き「先駆の人」として生き、活躍していっていただきたい。(拍手)
 世界の、あらゆる分野で、学園生らしく、自分らしく、立派な「道」を切りひらき、人材の「黄金の連鎖」を見事に、つくっていってほしい。そうした諸君の凛々しい「成長」と「行動」を念願し、また確信しつつ、最後に「お父さん、お母さんに、くれぐれもよろしくお伝えください」と申し上げ、本日の祝福のスピーチとさせていただく。

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