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日蓮大聖人・池田大作

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創価中学・高等学校第二十一回栄光祭 21世紀の舞台へ、学びに学ベ

1988.7.17 教育指針 創価学園(2)(池田大作全集第57巻)

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1  諸君は今回、栄光祭のテーマを「炎のごとく走れ 今こそ」と掲げた。未来に生きゆく鳳雛たちの若き心意気を表す、すばらしいテーマと思う。今、はつらつと繰り広げられた演技も、諸君の青春そのままに、まばゆいばかりの英知と躍動の光をたたえていた。
 しかも、きょうは、はるばる海外からも、二十数力国の友人が来賓として出席されている。これほど国際性に富んだ学園祭は、他にないであろう。
 掲げている理想、国際性、そして学びの姿勢、どれをとっても、日本一、世界一といわれる、わが学園の伝統をつくっていただきたい。(拍手)
 未来の指導者になりゆくために、諸君は、今は黙々と勉学に励み、心身を鍛えている。それは、たとえば一部の人気スターのように、華やかな脚光をあびる青春ではない。世間の注目を集め、喝采を博することもないかもしれない。
 しかし、人知れぬところで、ひたすら自身を磨き、学びに徹した人こそ、かならずや勝利の人生を開き、たしかなる歴史を残しゆくものだ。
 ただ名声と人気のみを追う青春は、虚像にすぎない。そこからは、すばらしき人生と人間をつくりあげることはできない。どうか諸君は、地味であっても着実に、日々「進歩」と「向上」の意義ある学園時代であっていただきたい。
2  少年時代の誓い果たしたペリクレス
 ところで、かつてエーゲ海のほとりに、絢爛たるギリシャの古代文明が花開いた。そのことは諸君も、歴史の授業で学んだにちがいない。オリンピックのルーツ(起源)も、この古代ギリシャにある。
 その中心となった都市アテネが、もっとも繁栄したのは、今から約二千五百年前の”ペリクレスの時代”である。つまり、当時の指導者ペリクレス(紀元前495年―前429年)のもと、アテネは、民主政治の完成期を迎え、建築、彫刻、文学、哲学等の文化も頂点をきわめる。ペリクレスこそ、アテネの「黄金期」を築いた最大の功労者といってよい。
 そのペリクレスが、美しき文化の都としてアテネを建設していこうと誓ったのは、いつのことであったか。一説によれば、十五歳のころに彼の誓いの出発点があったという。十五歳といえば、ちょうど、諸君と同じ年代である。
 ペリクレスの少年時代、ギリシャには、東方の大国ペルシャが、繰り返し侵入してきた。その戦乱の渦中、アテネは、ペルシャ軍に焼きはらわれ、痛々しい荒廃の姿となった。諸君と同じ年代に、故郷を無残に破壊されたペリクレス。胸中は、いかに悔しく、悲しい思いであったか――。
 しかし、ペリクレス少年はくじけなかった。焼け野原に一人立ち、彼は心中深く決意する――今に見よ、この焼け跡に、いつの日か世界中が仰ぎ見るようなすばらしい都を建設してみせる、と。
 そしてペリクレス少年は、このみずから定めた大いなる理想にむかい、まさに”炎のごとく”情熱を燃やし、学びに学んでいくのである。
 私の少年時代も、戦争の真っただ中にあった。四人の兄は、すべて出征し、老いたる父母の悲しみは、今も私の心に深く残っている。それに空襲と疎開。最悪の環境であり、しかも、私は肺病に苦しんでいた。
 私は、「戦争」を憎んだ。戦争をもたらす「野蛮」と「誤った思想」への怒りを、多感な心にきざみつけた。そして生涯を、「平和」のためにささげようと決心した。そうした思いをかためたのが、ちょうど十五、六歳のころであったと記憶している。
 中国との友好のために働きたいと決意したのは、さらにさかのぼる。小学校五年の時、兄の一人が出征先の中国から帰ってきた。その兄から私は、中国での日本軍の悪辣あくらつな行為を聞いた。その時、将来、かならずや私も、日本と中国の友好に役立ちたいと、心に決めたのである。
 幸いにも、国交正常化は、戦後二十七年にして果たされ、両国の友好の「金の橋」は、年々、その意義と輝きを増している。これまで、日中友好のためにわずかでも貢献できたとすれば、私にとって、これ以上の喜びはない。(拍手)
3  限りなき「人材黄金の千年」を
 ペリクレスには、哲学者アナクサゴラスという師がいた。この師によって、ペリクレスは、徹底して薫陶を受け、鍛えられた。とくに、彼は、だれびとにも負けないほどの弁論の力を磨いたという。
 全魂の情熱をこめて教えようとする師、生命の炎を燃やして学ぼうとする弟子。いつの時代にあっても、教育は、この師と弟子の、真摯にして、全力を尽くした錬磨によってこそ、成し遂げられていく。
 ところで、師アナクサゴラスが、弟子ペリクレスにきざみこむように教えたなかに、”いかなることがあろうとも、決して動揺してはならない、たじろいではならない”という一点があった。
 ペリクレス少年が教えこまれたこの一点は、人間の根本を形づくるものであった。こうして彼は、みずからの人格の確固たる「芯」を鍛えていったのである。(ペリクレスの少年時代については、鶴見祐輔『新英雄待望論』太平洋出版社を参照)
 後年になるが、ペリクレスには、次のようなエピソードがある。ある日、ペリクレスは、公会場で、急ぎの事務の仕事に集中していた。その時、一人のならず者から一日中、悪口を言いたてられた。しかし、彼は”私には成すべき仕事がある”と、見むきもしないで、黙々と仕事を続けた。そして、仕事を終え、夕方には家路についたが、その男はあい変わらずペリクレスにつきまとい、道々悪罵し続けた。
 だが、ペリクレスは、相手にもせずに、悠然と歩いていく。彼がわが家に着いた時、日も暮れ暗くなっていた。そこで、使いの者にあかりをもたせ、その男が無事帰宅できるよう送らせたという。(『プルターク英雄伝』鶴見祐輔訳、潮文庫を参照)
 つまリペリクレスには、人の悪口しか言えないような卑しい人間など、はじめから眼中になかった。ゆえにいちいち反論も、言いわけもしない。ただあわれに思うだけのことであった。
 しかし、ペリクレスは、いざという時には、獅子のごとき雄弁家として、民衆に自分の信条を堂々と、また誠実に訴え、そして行動した。このことは、わが学園の校訓の第四項「自分の信条を堂々と述べ、正義のためには勇気をもって実行する」にも通じる。ともあれ、学園生の諸君は、今は、しっかり勉学に励み、こうした毅然たる、骨の太い人格の一人一人に成長してほしい。
 当然、ペリクレスに対しても、さまざまな評価はある。だが、青春の炎のままに、一生を走りぬき、みずからの誓いどおりにアテネの都を築きあげたことは間違いない。この学園生の中から、やがてペリクレスをはるかにしのぐ雄弁家も、陸続と出てくるにちがいない。すでに、その萌芽の時代に入ったといってよい。
 どうか、諸君は学園魂を炎と燃やし、あらゆる舞台に躍りでて、新たなる二十一世紀の「平和」と「文化」の都を建設していただきたい。私には、その、学園生の活躍の黄金時代が目に浮かぶようである。
4  ギリシャの学園アカデメイア
 さて、古代ギリシャの大哲学者プラトン(紀元前427―前347年)の名は、諸君もよくご存じと思う。彼の多くの業績のなかで、ひときわ高く評価されているものの一つは、学園「アカデメイア」の創立である。アカデメイアは紀元前三八七年ごろ、アテネの北西の郊外につくられた。その名は、英雄アカデモスが領有していたとの伝説のある公園に、学園がつくられたことに由来するようだ。
 アカデメイア創立の時、プラトンは四十歳であった。ちなみに私がこの創価学園を創立したのも、昭和四十三年(1968年)、ちょうど同じ四十歳の時である。プラトンは以後、八十歳で亡くなるまでの四十年間、このアカデメイアで「教育」とみずからの「著述」に全力をそそぎ続けた。
 彼が、この学園を創立した理由は何か。じつは、そこには師ソクラテスに対する弟子としての深き誓いがこめられていた。すなわちソクラテスは、まったく無実の罪で死刑に処された。プラトンは師を不当に逮捕し殺した当時の指導者と社会に対し、すさまじい怒りを発した。その無念の思いは彼の生涯の原点となり、また横暴な権威と権力への糾弾の念は、彼の全著作のすみずみにまで強く脈打っている。
 プラトンは決意した。”ソクラテスのごとく正しき善き人を迫害する社会は、大きくゆがんでいる””この誤れる政治と社会を断固、革命し変革せねばならない”。そのためには、正しい意味での「哲学」によって、正しき人間と正しき社会をつくる以外にない――と。
 そして彼は、その誓いのままにアカデメイアを創立し、多くの人材を育成していった。このようにアカデメイア誕生の淵源には、生死を超えた崇高な「師弟の精神」と、「社会変革への理想」が、厳としてあった。
 プラトンの最後の著作『法律』には、「その仕事(=教育)こそ、すべての人が生涯を通じ、力のかぎり、やらなくてはならないもの」(森進一訳、『プラトン全集13』所収、岩波書店)とある。彼は自身の後半生をかけて、この「人間教育」の実践に取り組んでいった。私もまたつねづね、人生の総仕上げの事業は「教育」にあると思っている。
5  師ソクラテスの理想を後世に
 プラトンは、また膨大な著作活動によって、師ソクラテスの正義を証明し、その思想の偉大さを後世にとどめ残していった。”プラトンは書きながら死んだ”ともいわれる。晩年の大作『法律』十二巻は、最後の日まで書き続けられ、未完のまま、絶筆となっている。この書もまた、正しき社会のあり方を探究したものである。
 プラトンの胸中からは、師の面影と、師を殺した社会の腐敗への怒りが消えることはなかった。そのせいでもあろうか、彼の多数の「対話編」には、つねにソクラテスが登場し、縦横に活躍している。現代のわれわれは、このプラトンの著作があるからこそ、はじめてソクラテスの思想と生き方を知ることができるわけである。
 ところでアカデメイアの学員(学生と研究生の総称)の人数は何人ぐらいであったか。正確な記録はないようだが、プラトンの時代の人数を四十二人とあげた研究もある。これは聴講した全員ではなく、おもな弟子の数と考えられるが、いずれにしても”少数精鋭主義”であったことはたしからしい。
 教える者と学ぶ者が、身近にふれあい、全人格をぶつけて磨きあいながら、ともに学問に励んでいった。そうした「人間をつくる」切磋琢磨の情景が浮かんでくる。時代は異なっても、この「人間教育」の行動ほど尊いものはないし、その理想に徹しゆく教師という仕事は、まさに「聖職」であると私は思う。
 学生は十五歳から十八歳で入学したという。皆さんと同じ若い世代である。
 あのアリストテレスがアカデメイアに入学したのも十七歳の時といわれる。この時、プラトンは六十歳――。
 アリストテレスは、プラトンが八十歳で亡くなるまでの二十年間、三十七歳まで、このアカデメイアにとどまり、研究生活を続けている。もっとも大切な青春の二十年を師のもとで研究ひとすじに生きぬいたのである。
 彼はプラトンから「本読み係」とか「頭脳」などと呼ばれていた。くる日もくる日も、寸暇を惜しみ、本を読んで読みきった。徹底して思索に思索をかさねた。そして若き日の盤石な基礎の上に、一生をとおして学問の大系を築き、師プラトンとアカデメイアの名を不朽のものにしていったのである。
6  読書に挑戦し思索を深めよ
 諸君も今こそ読書に挑戦すべき”時”である。中途半端であっては、後悔するのは自分である。私も図書の贈呈をはじめ、学園の読書の環境づくりに全力で尽くしていく決心である。(拍手)
 アカデメイアの人材輩出の歴史は、紀元前三八七年の創立から、紀元後五二九年の閉鎖まで、じつに九百年以上にわたって沿々と続いていく。後継の陣列がとぎれなく続いた、その輝かしい歩みは「黄金の連鎖」(=黄金の鎖が、とぎれなくつながっていること)と呼ばれ、たたえられている。(アカメデイアについては、廣川洋一『プラトンの学園アカデメイア』岩波書店を参照)
 わが創価学園もまた、「千年」をひとつの単位とし、人類のはるかな未来を見つめて創立したものである。この精神は創価大学も同様である。
 学園は創立二十一周年。その意味で、諸君は、まさに縁深き「草創の人」である。私にとってももっとも大切な人々である。どうか、限りなく続くであろう後輩のために、「学園草創」の誇りも高く、この人生を尊き「先駆の人」として生き、活躍していっていただきたい。(拍手)
 世界の、あらゆる分野で、学園生らしく、自分らしく、立派な「道」を切りひらき、人材の「黄金の連鎖」を見事に、つくっていってほしい。そうした諸君の凛々しい「成長」と「行動」を念願し、また確信しつつ、最後に「お父さん、お母さんに、くれぐれもよろしくお伝えください」と申し上げ、本日の祝福のスピーチとさせていただく。

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