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日蓮大聖人・池田大作

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創価学園1 中学校・高等学校[昭和57年度]

教育指針 創価学園(1)(池田大作全集第56巻)

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1  創価中学・高等学校 第十五回入学式(メッセージ)〈昭和57年4月8日〉
 勉学への努力を惜しまぬ人に
 晴れやかな創価中学・高等学校の入学式、まことにおめでとう。希望と期待に胸ふくらませる新入学の諸君に、私は万感の思いをこめて「入学、おめでとう」と、心よりお祝い申し上げます。
 とくに本年は、創価学園にとって、男女共学制という、新たな人間教育への第一歩を踏み出す有意義な、そして輝かしい出発であります。いうならば、諸君はその誉れある第一期生である。学園の新たな伝統の創出は、諸君の双肩にかかっているといってもよい。私は、諸君のたくましい成長を心より楽しみにしております。また、全力で見守ってまいります。どうか健康第一に、きょうよりの学園生活をはつらつと乱舞していっていただきたい。
 そのためにも、勉学への努力を惜しまぬ人であってほしい。ある哲学者は「絵の上達を願うものは、まず一本の線を美しく描くことを学ばねばならぬ。一人前の大工になるには、幾年もただ板を削ることだけを習わねばならぬ」といっている。つまり、基本を十二分に学んだものだけに、大成への前進が開始されるというのです。
 山の頂上を征服するためには、山道を一歩一歩登らなければなりません。実りある人生を勝ち取るためにも、この学園時代に、勉学という基本をしっかり学びとっていただきたいのです。とともに、麗しい友情の絆を育んでいってほしい。諸君は一人一人が、二十一世紀の社会を担って立つ大切な使命をもった学園生です。
 「学園寮歌」(現校歌)の五番に、私は、
  「平和をめざすは 何んのため
   輝く友の道拓く
   未来に羽ばたけ 君と僕」
 と加えさせていただいた。どうか男子は男子の特性、女子は女子の特性を発揮しながら、互いに切磋琢磨し、麗しい友情の輪を広げ、実りある学園生活へ出発するよう心より願い、私の祝福のメッセージとします。
2  関西創価中学・高等学校 第十期生入学記念懇談会〈昭和57年4月12日〉
 足は大地に、目は希望の未来に
 きょうから関西校は、まさしく理想的な男女共学のスタートを切ったわけであります。とくに新入生諸君に対して、心から祝福申し上げます。おめでとうございました。
 さきほどの入学式におけるルネ・ユイグ先生の講演の最後の言葉に、私は非常に感銘を受けました。
 それは「足は大地につけて」「目は希望の未来に向かって」という言葉です。まことに、人間としての英知をもった指導者が育っていくための重要な要件であると思っております。
 というのは、今、皆さん方は、勉強をしなければならない。勉強が一切である。夢に惑わされ、夢をどこまで追っても、それは幻覚にすぎない。生活、現実というものは、あくまでも大地に足をつけていなければならない。多くの青少年が目的もなく、無気力になって大地に足をつけないところに、世界的に教育の荒廃が爾漫してしまった原因がある。
 その意味において、世界第一の関西校にあっては、諸君は、この二年ないし六年間を、つらくてもたゆまずに、大地に足をがっちりつけながら、一歩一歩、努力をお願いしたいと思います。次に、校訓のことについて申し上げます。校訓というものは、どこの学校にもあるわけですが、あまり守られていないようです。しかし本校は、そうであってはならない。教育革命の先端をいく学園であると、私は思っておりますし、そうでなければ、世界の教育革命への波ができなくなってしまう。その砦であると、私は確信しております。
 本校の校訓は、要約するならば、次のようになります。
 一、自分自身で責任をもって行動する。暴力を絶対に否定する。この一言¨を根本に新しき伝統を築いてほしい。
 一、確信、信念、目的をもって、諸君は使命ある人間として、勉強し成長し、何らかの分野で、日本、世界に貢献できる指導者に育ってもらいたい。
 今、世界共通の問題として、教育の荒廃による青少年の非行化が、驚くべき勢いで蔓延している。その原因は何か。
 一つは、指導者階層が与えるべき自信、確信をなくしてしまった。また、それを信頼できなくなってしまったところにあると思います。二番目には、自分自身の身近によりどころがなくなってしまったことです。皆さん方にはよりどころがあります。信念をもっています。
 もう一つは、何のために勉強するのか、何のために人生を生きていくのか、という一点を失ってしまったことです。ですから、これからますます悪い時代に入ると思われてなりません。それを超克しながら、よき時代を、よき社会を、よき人生を、よき民衆をつくっていく波は、諸君しかありません。
 諸君のなかには、他の有名校等に行ける人も多くいた、と思います。それだけの力ある諸君が、この男女共学のスタートに、本校に入って伝統を築きながら、新しい潮流をつくってくださることは、まことに尊く、私は敬意を表しておりますし、陰ながら校長先生はじめ、教員の方々とも連携をとりながら、諸君をしっかり守っていく決意であります。
 なお、男女共学になって、どうしても異性が気になることもあるかもしれない。しかし、あくまでも男子は、ヨーロッパでいわれるジェントルマン、もしくはナイトの精神で歩んでいただきたいと思います。女性は、女性らしい本質で成長していただきたい。ただ学問という点においては、すべて平等です。男女の別はありません。
 学校は、学問と人格形成、そして自分自身が社会に向かっていく力をつける道場であるし、鍛錬の場であります。その根本目的を忘れないようにお願いします。
 諸君の、これからの三年ないし六年間が、すばらしい、世界の有名大学以上の成果をあげていく教育革命の黎明、夜明けであることを期待して、私の祝辞といたします。
3  創価中学・高等学校 第一回寮生・下宿生懇談会〈昭和57年11月28日〉
 悔いなき青春の日々を
 諸君の元気な姿を見て、本当にうれしい。私は、創立者として、諸君が大きく成長しゆくことを、日夜、祈っています。多忙でもあり、諸君とは、なかなか会う機会も少ない。だが獅子は、わが子を千尋の谷へ落とし、その力を見るという。どうか、会う機会は少なくとも栄えある目的をもち、使命ある学園生として、立派に成長していただきたい。それを心から願いつつ見守っています。
 今朝、ドイツの友人より、手紙が届き、そこには「賢明に時を過ごそう」という次の詩が書かれてあった。
  思索の時をもとう   それは力の源泉
  遊びの時をもとう   それは生涯、青年であるための秘訣
  読書の時をもとう   それは英知の泉
  唱題の時をもとう   それはこの世で最大の力
  愛し愛される時をもとう それは仏が与え給うた特権
  友好の時をもとう   それは幸せへの道
  笑う時をもとう    それは魂の音楽
  与えるべき時をもとう 利己的になるには、あまりにも短い一日
  働く時をもとう    それは成功の代価
4  彼も、第二次世界大戦のさまざまな苦難を乗り越えてきた。今では、立派な大学の教官として舞鞣なとり、仏法を根本としながら、平和、文化、教育に活躍しておられるようです。
 「生きる」ことの尊さ、偉大さをうたったこの詩には、諸君も多くの共感を覚えるものがあるにちがいない。
 「ナイトの精神」についての質問がありました。それは、現代的にいえば、人間の勇者、正義の人、信念の人ということです。これから、学園にも女子生徒が多くなる。ゆえに男子生徒として、襟度をもち、あたたかく守りながら、多くの後輩から慕われる「模範の存在」となっていただきたい。そして、理想の学園を築いていただきたいのです。
 「勉学」なくして、「苦労」なくして、偉大なる人生はない。四十代、五十代の基礎となる今の時代こそ、大いなる努力と研鑽の鍛えの青春であっていただきたい。
5  創価中学・高等学校 第二回寮生・下宿生懇談会〈昭和58年1月16日〉
 未来社会の指導者に
 なぜ、この小平の地に学園をつくったかということについて、簡単に申し上げたい。初代会長の牧口常三郎先生、二代会長の戸田城聖先生も教育者であられた。私は戸田先生に朝晩、毎日、日曜も欠かさず薫陶をうけながら、死にもの狂いで勉強した。牧口先生も、戸田先生も「もっとも重要な課題は教育である」といっておられた。私もいつの日か、後世のための後継者をつくるには、社会の中に、教育の場をつくらなければならないと思っていた。そこで私は、第二代会長に就任する直前の、昭和三十五年四月の中ごろ、この小平の地に来たのです。
 戸田先生から、教育の一つの条件として、環境のよいところが大事だとうかがっていた。武蔵野は、清らかな玉川上水が流れ、都民に飲料水を供給している重要な地です。緑があり、富士山が見え、都心からもあまり遠くない。このような条件にかなう地として、この小平に決まったのです。ともかく、縁があり、建学の精神に呼応してきた皆さんに対して、最大の敬意を表したい。この学園は、皆さんが、できるかぎり立派な、偉大な社会のリーダーに成長していただきたい、との悲願でつくったものであることを忘れないでいただきたい。
 また、親孝行の人であってほしい。諸君の年代でできる親孝行とは、親に心配をかけないということだと思う。その心配をかけない一つは、体を丈夫にして病気をしないことです。
 また、落第をしないことである。ともかく常識的、良識的なことが大切なのです。親に心配をかけないようなよい子どもをもった親というものは、これ以上の幸せはないと感ずるものです。
 最近は、小学生のなかにも、中学生、高校生のなかにも自殺という恐るべき傾向があります。尊い自分の命を、自分で奪うことは、どんな理由があっても、絶対にあってはならない。それは、人間としての敗北の人生だからです。仏法上も、法器である生命をこわすことは戒められています。ゆえに、どんなにつらく、いやなことがあっても、生きて生きて生きぬいてほしい。それが正しい人間の道であることを、心の奥に刻んでおいていただきたい。
 学園生はよく成長していることを、先生方からも聞いて安心しています。しかし、それだけで満足してはいけない。もう一歩深く考えるならば、創価学園は二十一世紀の立派なリーダーをつくることが眼目です。そこに目的を置かなければならない。
 キリスト教は、世界の宗教となっている。これだけ世界に広がった理由はさまざまあるが、根本は別として、このキリスト教の信奉者のなかから、世界的に活躍した人物が数多く出たこと、そして、これらの人々がキリスト教を繰り返し宣揚したことも、大きな要因の一つとされています。諸君のなかからも、社会に貢献しゆく数多くの偉大な人が出なければならない。そして、この学園を見事に宣揚していっていただきたいのです。
 このような意味において、今は、勉学が苦手であったとしても、努力して、何としても、中学、高校を卒業して、さらに高い目標に向かってもらいたい。一面からみれば、現代社会は一つの学歴社会であり、また、急速に進歩しているがゆえに、「学問をしていこう」と努力しない人はどんどん取り残されていってしまいます。そのようになれば、自分も損だし将来も困ることになります。ともかく中学、高校時代は、勉強が目的です。この目的は見事に達成してもらいたいのです。
 女子生徒に対しては「ナイトの精神」で接してもらいたい。ふざけ半分で接してはいけない。全員が人格者です。一流の世界では、そこにいる人々が互いに信頼し、尊敬しあうものです。互いに尊敬し、信頼しあうという姿勢をもちながら、学園生活を送っていただきたい。
 諸君は、たとえ社会の環境がどのようであろうとも、自分の決めた信条を貫き通してほしい。だれが何といおうとも、後輩に立派な道だけは残していくんだ、との決心をもち続けていただきたい。
6  創価中学・高等学校 第十三期生卒業記念撮影会〈昭和58年2月17日〉
 一歩一歩堅実な人生、生活を
 人生は、一歩一歩忍耐強く、確実に歩んでいく以外、最後の勝利、最後の総仕上げはない。
 マラソンの選手とか、ゴルフの選手とか、水泳の選手とか、スポーツ関係で、国内的あるいは世界的に非常に華々しく活躍している人もいますが、その人たちの活躍はやはり、一歩一歩の訓練の積み重ねの結果であると思います。
 また、いわゆる著名人とか、晴れやかに幸せそうに振る舞っている人々であっても、いろいろな角度から見た場合、たんに幸運だったとは決していえないと思います。表面は幸運そうに見えても、裏側に大変な苦労が多いものです。
 一時は幸運をつかんだように思える場合でも、はたして、その幸運がそのまま人生、一生を通してのものかどうか、これもむずかしい問題であります。そのように分析してみると、自分らしく一歩一歩と歩みきった人、堅実な生活をした人、生活は大変であっても、心だけはつねに王者のごとく、伸び伸びと、余裕をもち、豊かな人生を生きる人こそが、偉大な人間である、と私は思うのです。
7  関西創価中学・高等学校 寮生・下宿生懇談会〈昭和58年3月12日〉
 建学の精神を伝統に
 諸君の年代は、心身ともに形成される重要な時期です。このときに勉学に挑戦せずに、いわゆる社会の悪い風潮に染まってしまうと、社会に出てからその厳しさに勝てずに、社会から見放されてしまう。そのような運命をたどってはいけません。
 わが創価学園は、先輩たちが立派な伝統を築いてくれました。気の毒なほど自分を律しながら、後輩のために努力してくれました。そのために、学園の生徒は、どこへ行っても信用されます。学園を、社会の人は模範の学園として見守ってくれています。その伝統は「建学の精神」です。この学園に来たからには、そのような先輩のことも思いながら、その伝統を守っていってほしいのです。諸君は、学園生らしく先生方を尊敬し、社会に迎合することなく、この二年間また六年間を本当に学問に打ち込んで、真剣勝負の鍛錬をお願いしたい。どうか、この学園生活のあいだに、悪い根を張ったり、悪い芽が出ないように、お互いに、その一点だけは筋を通していただきたいのです。あとは自分の責任で、自分らしく伸び伸びと進んでいただきたいと思っております。
 男女の数もだいたい同じになりつつあります。皆、自分らしく自分のことをしっかりとやりなさい。さすがに学園生は立派で優秀なレディーだ、ジェントルマンだ、あの人がいると本当に安心だ、といわれるような英知と包容力のある人になってもらいたい。光った存在になってください。
8  関西創価中学・高等学校 第八回卒業式(メッセージ)〈昭和58年3月14日〉
 誠実にして勇気の人に
 ご卒業、おめでとうございます。関西創価中学・高校も、ここに第八期生を送り出すにいたりました。
 きょうまで皆さんを育ててくださったご両親、また校長先生はじめ諸先生方に、厚く御礼申し上げます。本当に、ご苦労さまでした。
 関西創価学園は、昨年から男女共学となりました。この場には、男子の諸君もおられます。今春巣立つのは、女子の皆さんでありますが、ここで男女に共通する視点から、ひとことごあいさつを申し述べたいと思います。
 インドの詩人タゴールの言葉に「うわべのみの自由の名によって、自由を粉砕することは、まったく容易である」というのがあります。
 青春時代は、等しく自由でありたいと願うときであり、それはごく自然な感情であるといえましよう。しかし、そこで大切なことは、真の自由とは何か、そのために人は何をなすべきか、ということであります。昨今、十代の青少年による非行、暴力、犯罪が社会をにぎわし、まことに残念な、悲しむべき事件が相次いでおります。それには、さまざまな要因がありましょうが、私はそこに、タゴールのいうような、うわべの自由を追い求めるあまりに、真の自由を破壊している姿を見る思いがしてなりません。
 ルソーは名著『エミール』のなかで、十代の思春期は人生における第二の誕生であるとして、そのようすをこのように描いております。
 「気分の変化、たびたびの興奮、たえまない精神の動揺が子どもをほとんど手におえなくする。まえには素直に従っていた人の声も子どもには聞こえなくなる。それは熱病にかかったライオンのようなものだ。子どもは指導者をみとめず、指導されることを欲しなくなる」(今野一雄訳、岩波文庫)激しい不安といらだちが、思春期にはつきもののようであります。それはさながら、第二の誕生にともなう陣痛のうめきであると私は思います。
 この「熱病にかかったライオンのような」感情の起伏は、しばしば現実を徹底して嫌悪するかたちで現れます。父母を顧みず、大人の世界を敵視し、礼儀をうとんじ、およそ社会生活を営むうえで不可欠な、もろもろの規則や常識を軽んずる結果となります。またときには、異性への熱烈なあこがれとなって噴出します。そのあげくに、破滅的な人生をたどることも、めずらしくありません。
 しかし、思春期に特有の感情の起伏は、プラスの方向に転化されたとき、偉大なる創造的エネルギーとなります。そのためにも、私は皆さんに「これは、と思う人には、全魂をもってあたれ」と申し上げておきたい。読書を通して出会う文豪でもよい、学校の先生でもよい、あるいは実社会で接する先輩でもよい。ともかく、それらの対象に、全魂をこめてぶつかり、打ち込んでいくことこそ、若さと青春の特権であるからであります。
 そのような、人間と人間との全人格的なふれあいと格闘のなかから、本当の自分というものが発見できる。人生の旅路にあっては、他人に本当に打ち込める人であって、初めて、真実の自己を確立できるのであります。そうしたチャンスを一度ももったことのない青春は、まことに不幸な青春だというべきであります。
 十代後半からは、いよいよ第二の人生が始まります。それとともに、思春期特有の心の嵐が襲ってくる。現実のすべてをなげうって、衝動のままに身をまかせたくなることもありましょう。理想と現実とのあまりの落差に、生きる意欲を失うことがあるかもしれない。
 しかし、そこで負けてはならない。そのようなときにこそ、断固として自身に挑戦しゆく一人一人であっていただきたい。よき先輩、よき友人の励ましに謙虚に耳をかたむけて、自分の心と徹底して戦いぬいていただきたい。このとき、思春期の苦悩は、自身の創造的な人生を築く、かけがえのない糧となりゆくことでしょう。
 心優しくして、何ものをも恐れぬ人。誠実にして、勇気の人。礼儀正しくして、邪悪には敢然と立ち向かう人。どうか、お一人お一人が、このダイナミックな悔いなき人生を送っていかれますよう、心から念願してやみません。
 卒業の皆さま方のご健康をお祈りし、晴れやかな前途に栄光あれ、幸多かれと申し上げ、私のお祝いの言葉とさせていただきます。
9  関西創価中学・高等学校 第八回卒業記念謝恩会〈昭和58年3月14日〉
 強く聡明に自身の成長を
 教育について、もっとも理想的で、多くの指導者を出したのはイギリスです。そのイギリスの著名校のほとんどは私立です。それは、私立学校は、創立の精神に基づいて思う存分に、創立者、教育者と生徒が一体になっていくことができるからです。
 しかし、今日の社会には、理想的な私立の学校をつくろうとか、教育をしようという流れがなくなってしまいました。そうなると、たしかに一部の才能は伸びるが、全体人間として調和のとれた教育はむずかしく、知識偏重の人間が多くなってきます。それが今日、教育が全面的に行き詰まってしまった理由です。
 そのような教育界にあって、創価学園は、後輩のためにも、本当に大切で重要な金字塔であると確信しております。
 社会に一歩出ると、数々の厳しいことがあります。そのことをよく認識しておかないと、大変な目にあってしまいます。そのためにも、自分を強くし、また厳しい社会を聡明に悠々と見極めながら、自分自身の成長と幸福の大成の山に、一歩一歩、登っていただきたいと思います。
 卒業生の皆さんは、どうか母校である学園を心から愛し、大切に守っていただきたいのです。皆さんが、これから十年、二十年と、順調に成長することを毎日祈っております。これからはいろいろなことがあると思うが、負けてはいけません。どんなことがあっても、負けてはいけない。自分で生きることです。
 また、親に心配をかけてはいけません。親の苦しみというものを、痛いほど自分で感じられるようになったときに、その人は立派な人間になれるのです。それを感じられないような人は、人間として何の資格もありません。親の痛みを自分自身で感じられる人が、人間として偉大な人なのです。
10  創価中学・高等学校 第十三回卒業式(メッセージ)〈昭和58年3月16日〉
 魂のこもった悔いない青春を
 開校記念のこの佳き日に、わが学園を巣立ちゆく諸君、そしてご両親に、心からお祝いを申し上げます。
 諸君のほとんどは、これから高校、そして大学へと進学してまいります。その新たな学舎に、新たな決意で臨もうとする諸君にとって、平凡ながらもっとも大切だと思うことを、私は申し上げておきたい。
 その一つは、「ともかく自分を大切にする」ということであります。「自分」という一個の生命は、他のだれともかえられない尊い存在であります。自分を大切に、とはだれしも思うことでありますが、それと裏腹に、結果として自分を粗末にしている例があまりに多い。
 ドイツのある作家は「魂のこもつた青春は、決してそうたやすく滅んでしまうものではない」(ハンス・カロッサ『指導と信徒』高橋義孝訳、『現代世界文学全集28』所収、新潮社)と述べております。鍛えのない、わがまま放題の青春はもろく、はかない。諸君はどうか、いかなる場合にも自分を誇りに思い、一瞬一瞬に充実感を覚えるような、「魂のこもった」悔いない青春を生きぬいていっていただきたい。
 次に、「ともかく親を大切に」ということであります。自分の尊さがわかれば、それだけ親の恩も深く感じられるはずであります。「子をもって知る親の苦労」、あるいは「親孝行したいときには親はなし」というのも、若いうちは、なかなか親のありがたさがわからないがゆえでありましょう。
 では、親を大切にするとはどういうことか。端的にいえば、余計な心配、苦労をかけないということだと思う。それがまた、諸君が大人へと自立する責任の証にもなる。どうか諸君は、いつ、いかなるときにも、親の痛みをわが痛みとしていける思慮深い生き方をしていただきたい。
 次に、「友を大切にする」ということであります。これは、自分を大切にすることと相反するようでありますが、決してそうではない。ギリシャの哲学者であるゼノンは「朋友とは自分以外の自己をいう」という言葉を残しました。これは、友人もまた、自分と同じく大切にすべきであるという意味であります。よき友をもつことは、どれほど自分自身の歴史に思い出深い金のページを残しゆくものであるかわからない。
 最後に「『学は光』であるという一点を忘れてはならない」と申し上げたい。受験制度への反動からか、このところ、ともすれば学ぶ意欲、姿勢がおろそかにされる傾向が見られますが、私は残念でならない。学ぶことは、永遠に自分の権利であることを決して忘れてはならない。ゲーテは、こういつております。
  「三千年の歴史から
   学ぶことを知らぬものは
   知ることもなく、やみの中にいよ、
   その日その日を生きるとも」(『ゲーテ格言集』高橋健二訳編、新潮文庫)
 学ぶ姿勢なき人生とは、目的観もなく、波の間に間に、その日暮らしを続ける、木の葉のようにはかないものであります。むしろ諸君の人生は、どんなに風雨が襲いかかろうともびくともせぬ、大樹のごとき、根を張った生き方であっていただきたいと申し上げ、私のメッセージといたします。

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