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日蓮大聖人・池田大作

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創価学園1 中学校・高等学校[昭和48年度]

教育指針 創価学園(1)(池田大作全集第56巻)

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2  健康こそ人生勝利の第一条件
 第一は「丈夫に育て」ということであります。今、皆さんは、丈夫でピチピチとしております。
 それを持続し、発展させていけばよいのでありますが、これは、じつは大変な難事業であります。諸君をケガや病気にするために襲いかかろうとする悪魔が、毎日、二十四時間中、一瞬も休まずにねらっているのだということを、決して忘れないようにしてください。
 わきから見ておりますと、まず目をやられる。近眼です。猛烈に勉強する人の宿命みたいなものでありますが、つねに姿勢に気をつけ、極力、近眼にならないように気をつけていってください。目をやられると、気分が安定しにくくなってしまうといわれております。一生の大損である。
 次に歯をやられる。虫歯です。虫歯になったのを放っておけば、胃腸までやられてしまう。万一、虫歯の気配がしてきたら、すぐ治療してしまうことです。「なに、これくらい」と、若さにまかせて放っておけば、三十歳を過ぎてから、苦しまなければなりません。
 次は背骨です。いわゆる猫背であります。背丈の小さい人はなりにくいのですが、大きい人はなりがちである。最近の皆さんは、もうお父さんより大きくなっています。背の高い人は、十分気をつけてください。猫背になると、腹から力が抜けて、腰の「決まり」が悪くなり、内臓まで弱くなってしまう。また、首の後ろのほうへ血がたまって抜けにくくなり、勉強の能率が下がってしまうからです。猫背の予防にはスポーツが一番である。運動し、鍛錬して頑丈な体をつくっていただきたい。
 日ごろの節制にも十分注意をはらい、育ち盛りの今、万が一にもケガや大病などを決してしないで過ごしていただきたい。健康は一生のあいだ、何ものにも優先すべきものであります。いったん体力を失うと、その日から人生は灰色になり、どんなに才能が豊かであろうとも、何もできなくなってしまう。今後、いずれ社会へ出たとき、家庭も維持できないし、社会を担って立つこともできません。「健康こそが人生勝利の第一条件だ」と心得てください。
3  精神を鍛えよう
 第二に「精神を鍛える」ということであります。元来、入学の目的はここにあります。学校というところは、知育と体育と徳育の三つを通じて、鍛えられた精神をつくる道場なのであります。わかりにくいでしょうから、たとえを一つだしましょう。
 鉄というものは、素材のままで放っておけば、かならず錆びてボロボロと崩れ落ちて、ただの土みたいになってしまうものであります。だが、熱しては打ち、折り返しては打って鍛えぬけば、立派な名刀に仕上がります。また、鉄はかならず水には沈むものであります。素材のままなら、かならず沈んでしまう。しかし、鍛えて鉄鋼板にして組み立てて溶接すれば、いかなる嵐の大海へ乗りだしても、決して沈まぬ安全な船にもなるのであります。また、鉄は素材を鍛えて形をつくって塗料をぬれば、どんな大火にもびくともしない金庫にもなるのであります。
 人間もまた、これに似ております。教育をうけずに放っておけば、鉄の素材が錆び崩れて土になってしまうように、ただ悪知恵ばかりのキツネのような存在になってしまったりします。学問や知育を通じて人間を磨けば、名刀のような一切の困難を乗りきっていける人物になれるのであります。
 また、人生は荒波の一生だから、鉄が水に沈むように、人はややもすると批判ばかりして社会のなかへ沈み落ちて、敗残の身となってしまうのであります。しかし、体育、団体訓練などを通じて、身体と精神を鍛えぬけば、安全な大船のような自分になれるわけであります。また、同じように、徳育を通じて精神を鍛えれば、頑丈な金庫のように、内に宝を秘め収めて、大火にあっても、その宝を安全に守りとおすのです。人間として、いかなる逆境に出合おうとも、己の宝、つまりあらゆる徳性、人間性を安全に守りとおせる賢人になるのであります。人からも親しまれ、信頼されるリーダーともなるのであります。
 ですから、学校というところは、ただ知識、学識を増やすためのところではなくて、先生や学友との出会いを通じて、精神を鍛え、人間をつくるところであるということを忘れないでください。もしも、この学園での三年間、あるいは六年間を、大学進学のためだけの段階であると考え、予備校みたいに見立ててしまったら、大変なまちがいだし、貴重な青春をまったく見失い、一生涯、思い出しては後悔して暮らすことになるでありましょう。したがって、これからは「さあ、自分自身の人間づくりだぞ、精神の鍛錬だぞ」「両親にも喜んでもらえる自分になるぞ」と固く決心していっていただきたいのであります。
 親や先生の恩というものは、空気や水や太陽の恩恵みたいなもので、ありすぎて、慣れすぎて気づかぬものですが、振り返ってみれば、これくらいありがたいものはまたとないと私は信じます。それに報いる唯一の方法は、迷わず自分の精神を鍛えぬくことであります。頑張ることであります。
 一部の学生のように、空虚な自由を大事にして、遊んでばかりいるような風潮に染まるべきではありません。髪ばかリカッコよく伸ばして気取ってみても、肝心の自分自身の精神が鍛えられていなければ、その心の中は、悲哀と空虚に満ち、悶々と悩んでいるにちがいない。それに対して、鍛えた精神は青空のようになります。たくましくて明るくなります。そして、その青空のなかで太陽のように知恵が輝いていくのであります。どうか、皆さんは一人残らず、たくましい学園生に育っていただきたい。
4  温かく賢明な友情連帯を
 第三に、少々むずかしい言葉でありますが「人間連帯」ということであります。
 人間というものは一生のあいだ、かならず何らかのかたちで集団生活を続けていくものであります。普通の中学や高校でありますと、だいたいは近い地域の人たちばかりが集まっております。ところが、本校においては、北は北海道から南ははるか沖縄まで、全国各地の人が入学してきていますから、まるで日本の縮図のようなものであります。北の人は粘り強いし、大都会の人は切れるし、日舎の人は人柄がいいし、南の人は明るいガンバリやであります。すべての日本人の長所も欠点も、自分さえその気になれば、皆みることができ、参考になる。また、学び取ることができるのであります。得がたい友達を得られることが、大きな特徴の一つであることも、見逃してはならない。真の友は、求めたからといって得られるものでは、決してありません。何か知らない宿命のバック、深い縁のようなものがあって、そのなかで友情の連帯ができてくるようなものであります。しかし、相手に友情を要求するよりも、自分のほうが、どの人に対してもあたたかく賢い友情を示すことだ――ということであります。
 友情はあたたかいのは当たり前ですが、同時に賢いものでなければならない、と私は思う。でないと、悪友になって、脱線仲間になってしまうからであります。ただ寄りかかりあう関係だけになってしまう場合が多い。本当の人間の連帯というものは、竹林の竹みたいなものだ、と私は考えるのであります。竹は一本一本が毅然として立っている。独立して風格を示しあっております。しかし、土を掘って根を見ると、ちゃんとつながっております。だから、どんな大地震でも、竹林は決して崩れないといわれている。
 きょう、入学した皆さん全員が、こういう友情の連帯で次々としっかりつながれば、そして社会へ出ていけば、大地震みたいに激動してやまない社会環境のなかでも、すばらしい強靭な人間連帯、友情連帯ができて、いろいろな驚くべき成果が表れるにちがいない、と私は信じるのであります。
5  素質を伸ばそう
 第四は「素質を伸ばそう」ということであります。人には、それぞれ「向き」というものがある。「何々に向いている」という、その「向き」であります。それが素質というもので、この素質をつかみだして伸ばしていくところに、無限の可能性があると思います。おそらく皆さんは、どの人にも「この科目は得意だ」「この科目は不得意だ」というのがありましょう。また、科目ごとに、どうしても好き嫌いの差を意識していることもあるでしょう。そこに素質というものが、一つのかたちをとって芽生えております。
 しかし、ただ自分がそう思っているだけではたりません。岡目八日といって他人が見たほうがよく見える場合があるわけであります。そして、それは何よりも諸君の先生が一番よく見て、親身になってくださるのであります。ですから、先生を心から信頼して、先生の意見には心から耳をかたむけたほうが賢明である、と私は思うのであります。また、それに加えて、友達が忠告してくれることがあったならば、口先で反撃してしまわないで、あるいは、すぐに感情的にならないで、よくよくかみしめてみる必要もあるということも忘れないでください。
 そういう気持ちの、心の広い人、幅の広い人は、いつか大成する人でありましょう。気持ちが狭くて受け入れの少ない人は、小才子で終わってしまう場合が多い。精神を鍛えるということは、こういうところにもあるということも忘れてはならない。本当に学ぶとは、心構えの学びが根底であるということを、しっかり覚えておいてください。
 福沢諭吉は有名な『学問のすゝめ』のなかで「実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとに由て出来るものなり」(岩波文庫)といっております。古い明治の言葉でありますが、これは、私も真理であると思います。心構えを学び、学問を学び、すくすくと若竹のように、まっすぐに素質を伸ばしていってください。
6  愛知の精神でいこう
 最後に、第五は「愛知の精神でいこう」、すなわち「知を愛する精神でいこう」ということであります。ある学者はこういっております。
 「学問は社会のためにするものとも、自分の楽しみのためにするものとも、自由に考えることができました。大哲学者スピノザなどは、その実例に当たります。彼は職業としてはレンズの球磨きを選び、自分の知的満足を求めるために哲学を勉強し、非常に大きな財産を人類のために残しています」「自分の楽しみを持たない学問は、どこかで行き止まりになってしまいます」(戒能通孝『いかに生き、いかに学ぶか』講談社)と。
 学問における自分の楽しみというものは、忍耐強い努力のなかから味わうわけで、なかなか大変なことでもありますが、知ることを愛する、その気持ちさえあれば、かならず楽しみはわくものであると申し上げておきたい。成績の良し悪しをこえて、まず、この楽しみをつかみ取ろう、こう決意していただきたいのであります。
 小学校で習った勉強は、これは本当をいえば、基礎知識にすぎないのであります。山登りに備えて、トレーニングに励んだ段階である。そして中学、高校から、初めて、いよいよ学問らしい学問が始まるのであります。つまり、自然科学、人文科学、哲学という巨峰に対して、いよいよ「山登り」が始まったわけなのであります。
 これは、生涯かけての「大登山」でありまして、男子の本懐であります。ひととおりの線までは、自然科学の分野では三十代で到達し、人文科学の分野では五十代で達する、などといわれておりますが、要は、四十代を超えてから役に立つように、学問を身につけた人が成功なのであります。どうか、そういうつもりで勉強にいそしんでください。
 学問というものは、なかなか峻厳なものであり、文字と道理をとおして、全人類、全自然、全宇宙と対話をしていく仕事でもあります。短気を起こしてしまえば、学問にならなくなってしまう。根気が学問をもたらすものであります。こういう「知を愛する」の精神を基として、この学園の生活を通じて、諸君の人間としての一人立ちへの鍛錬が始まるということであります。皆さん、どうか本日より、自分の立派な栄光の歴史を書きつづっていってください。
 以上、五項目を申し上げまして、栄えある入学への祝辞とさせていただきます。本当におめでとうございました。
7  創価女子中学・高等学校 第一回入学式〈昭和48年4月11日〉
 「健康・良識・希望」の門出に
 開校ならびに第一回の入学式、まことにおめでとうございます。
 創価女子中学・高等学校は、きょうから、なにもかも新しい装いで出発するわけであります。山懐にいだかれたすがすがしい校舎、それにもましてすがすがしい新入生の皆さん、斬新な教育理念に燃えておられる先生方――私は、この学園の洋々たる前途を心から祝福するものであります。皆さんの希望に満ちた門出を、私も創立に参加した者として見守りたいと思い、東京からやってまいりました。私は創立計画の当初から、この学園には限りない愛情をそそいでまいりました。また今後も当然、助力を惜しまぬ決意であります。
 第一期生となった生徒の皆さん、この学園の教師となられた先生方、「現代におけるもっともはつらつたる学園」「人間陶冶のもっとも理想的な学園」「学び得た知識が人生の知恵として生きる学園」――そのような学園を、ともどもに創りあげたいと思いますけれども、いかがでございましょうか。ご父母の皆さま方も、よろしくお願い申し上げます。
 ただいま門出したこの学園は、感光板のように、まったくの白紙であります。本日から、この感光板に皆さんはさまざまな影を落とし、学園の映像ができあがっていくことでありましょう。見事な映像にするか凡俗な映像にするか、醜悪な映像にするか――それはすべて皆さんの一挙手一投足にかかっているのであります。それを思いますとき、この記念すべき日に、平常、私が考えておりましたことを、五つの提案として、本日の門出へのはなむけとさせていただきたいと思います。
8  日常行動が伝統を生む
 第一は「伝統」ということであります。今、申しましたように、この学園は白紙から出発したところであります。私は、この愛すべき学園に、よき伝統が樹立することを切に願うものでありますが、伝統というものは生まれるべきものであって、意識してつくることのできないものであります。
 いくら理想を高く掲げても、それだけで見事な伝統ができるものではありません。理想を秘めた皆さんの日常の行動のうえに見事な伝統が生まれ、花咲き、次の世代へと伝えられていくわけであります。この伝統を生む最初の人が、第一期生である皆さん方であります。この学園らしい、新しい、はつらつたる伝統を生んでいただきたいということを切に、私はお願いしたいのであります。
9  平和な学園を建設
 第二に「平和」ということであります。いささか大きな問題とお考えになるかもしれませんが、この学園が、まず徹底的に平和の学園であってほしい、ということが私のお願いであります。
 さきほどの中学生代表、また高校生の代表の話をうけたまわって、非常に立派な決意と、また思想をもっておられることに私は驚きました。安心もしました。
 今もって地球上の最大の問題は、平和の危機であります。なにゅえ平和がおびやかされているのかといえば、危機の本質を見極めようとしないからであります。すなわち、その本質は人間自身にあるということであります。いくら社会的な原因を追及しても、民族問題や国際経済の不均衡だ等々といってみても、その人類社会を治めるのは人である。つまり、人の心の波動が、さまざまな善悪の社会現象を生んでいくのであります。
 ここに思いをいたすとき、やがては皆さんもこの学園から巣立ち、一人の女性として、立派な社会人として、社会に影響を与えていくことになるでありましょう。そこで私が、今から皆さんに望むことは、「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない」という信条を培っていただきたいということであります。
 することなすことに、この心をもち、実践していったならば、まれにみる麗しい平和な学園が実現するでありましょう。それを、私は信じたい、願いたい。地球は大きく、この学園は、その地球から見るならば、ケシつぶほどのものであるかもしれない。しかし、未来の平和への道を考えるとき、皆さんのこれからの実践は、やがて地球を覆うにたる力をもつはずである、と私は確信したい。
 なにゆえなら、原理は一つであるからであります。皆さんのささやかな実践が、そのまま人類の平和への軌道に通じないわけはないからであります。かくて、平和の真の戦士の卵が、この学園から陸続と育っていっていただきたい。これこそ女性の生涯を崇高にする唯一の信条であることを、私は信じて疑わないのであります。
10  躾は生活リズム
 第三に「躾」ということであります。今さら、このような問題をもちだしますと、何かに束縛されて、窮屈なように思うかもしれません。「躾なんて古くさい、今は自由の時代ではないか」と反発するかもしれませんが、生活が闊達に、円滑に、楽しく回転するためには、そこに一つのリズムがあります。このリズムを体得することを、私は躾と申し上げたいのであります。
 躾という言葉は、元来、ご承知のように和裁の言葉で、美しく縫い上げるための予備工作として、重ねた布が動かないように、あらかじめ仮に躾糸で縫うことであります。本番の人生は、取り返しのきかぬものである。そのために、若いうちからしつけられるということが、生活のリズムを体得するために必要なのであります。
 躾は、理屈で理解させて、のみこませるというのではなく、まず、その行動を実行することからしぜんに慣れて、頭ではなく、体自体で体得していく教育法の一種とも申せましょう。たとえば、交通道徳ひとつ守るにしても、交通規則をいくら暗記しても、どうにもならない。交通の躾を体で実際に反復することによって、初めて交通のリズムというべき交通道徳を体得するにいたるのであります。
 道を歩くにも、このとおりでありますから、人生全般についても、じつに多くの躾を必要とすることは明らかなのであります。それにもかかわらず、これをたんなる束縛であるとしたり、押しつけであるなどと考える風潮が、社会の通念になってきてしまっているようですが、これは有効な一つの教育方法を軽視するものだと、私は残念に思っております。
 皆さんは、私が未来をかけた誇りある女性であります。若き女性を陶冶する学園の生徒として、日常、反復して訓練されるであろうさまざまな躾を嫌わないことを、私は望みます。どうか、皆さんの身に、よい躾糸がかかりますように、そして本番の人生の縫い上げが立派で、見事でありますことを心より願うものであります。
11  教養を身につけよう
 第四には「教養」ということであります。若い皆さんは、好奇心が強い。したがって、知識欲も旺盛である。これは、尊重すべきことでありますが、現代は、いつのまにか恐るべき情報化社会となってしまいました。次から次へと、新しい情報のもたらす知識を追いかけているだけでは、それだけで息が切れて、何の知識も身につかないという、わびしい結果になりやすい。
 教養というものは、身についた知識でなければ、その人格を輝かせていくことはできません。現代は、このような教養を積むことには、まことに不都合な時代となりました。早い話が本屋に行ってみれば連日、新刊書籍の山である。選ぶだけですでに迷ってしまう。
 そこで、私が申し上げたいのは、とくに中学生の皆さんは、すべてにわたる科目を、まず、「こなしていく」努力が必要でありましょう。やがて高学年に進むにつれて、そのなかから、自分の身に合った知識を求めるようにしたらどうかと思います。そして、得た知識を今度は深く追究していっていただきたいと思うのであります。
 学問の道では、身に合ったものを深く追究するとき、はじめて教養となり、知識を生活の知恵と化することができるのではないか。そしてまた、他の多くの知識をも理解する応用力をもつにいたるでありましょう。
 私は、皆さんが好奇心のままに、現代のはんらんする情報に、いたずらに流されることがないように、たとえ小さなことでもよいから深く心がけて、真に教養ある奥ゆかしい女性として巣立っていかれますことを望んでやみません。
12  青春の活力を確信して
 第五には、皆さんが当面している「青春」ということであります。だれでも、青春時代というものは、長い人生のなかでもっとも華やかで、楽しい時代だと思いがちでありますが、実際はそれほど楽天的になれるものでもなければ、無条件に楽しいというものでもないことを、私はよく知っております。
 むしろ、無限の可能性を前にして、非常に不安定で落ち着きがなく、鋭敏な神経がつねに働いているといったほうが、実情に近いかもしれない、否、実情であろうと思います。未来にかけた夢が大きければ大きいほど、心労も大きいのが青春であるといってよいと思います。そして、この青春時代をいかに送るかによって、後の人生が決定されるという重要さを秘めています。
 ここで、私の申し上げたいことは、若い皆さんは傷つきやすく、弱いように見えますが、決してそんなものではないということであります。だれでも、どんな困難をも乗り越えていける活力、生命力が身にそなわっているということに、自信をもっていただきたいのであります。
 感情の振幅の激しさから、ときには絶望に陥ることもあるかもしれない。しかし、皆さんの生命の底には、それをはねとばして克服するだけの力がちゃんとそなわっているということを知っていただきたい。負けてはいけない。これが青春というものの本体である、と私は叫びたい。それは壮年・老年時代にはないところのもので、青春の特権というものが、そこにあるということを忘れないでいただきたい。人が老いていくと青春時代を懐かしむというのは、まさにこの青春の活力というものを懐古しているということを知っていただきたい。決して苦悩や困難を避けるようなことをしてはなりません。堂々とそれに挑戦して、立派に克服する皆さんであることを、私は心から期待してやみません。
 ともかく、青春は無限の歓喜とともに、またかならず心労がある、悩みがある。これは表裏一体であることを忘れてはならない。それを知って戦っていくところに、輝かしい青春時代がある。また、青春時代を送っていくことができる。さっそうたる創価女子中学・高等学校の第一期生の皆さん、どうか本日を「健康」と「良識」と「希望」という、生涯にわたり輝ける生命の財宝を築く第一歩の門出としていってください。心から皆さんの栄光をお祈り申し上げます。
13  創価女子中学・高等学校 第一回希望祭〈昭和48年9月14日〉
 先駆きる誇りと使命を胸に
 第一回希望祭に真心こもるご招待をいただき、心から御礼申し上げます。最初にご繁多のところわざわざご来校くださり、希望祭をご覧いただきました来賓の方々に、一同に代わりまして心から御礼申し上げます。ありがとうございました。
 創立以来、まだ間もない創価女子中学・高等学校でありますが、見事な第一回の希望祭を拝見し、創立者としまして、これ以上の喜びはありません。大変疲れただろうと、非常に心配していましたけれども、このように元気はつらつと演技を見せてくださって、頼もしいかぎりであります。この希望祭は大変な伝統をつくったと確信したい。というのは、将来、何千、何万と、良識と健康と希望に満ちた、平和と英知の女性が陸続と続くであろう。その第一歩として、道なきところに立派な道をつくってくださった。それは、三百数十名の皆さん方にとっても、十年さき、二十年さきに偉大な人間教育として残る意義ある思い出と変わるであろう、このように私は賛嘆したい。
 どうか、後輩のために先駆をきって道を拓いているという、その誇りと使命と喜びを胸に秘めて、日本一、否、世界一の学園に、そしてまた学園生となり、平和の女性として巣立っていただきたいことを心からお願い申し上げ、私のあいさつとし、またお礼とさせていただきます。
14  創価高等学校 第四回卒業式(メッセージ)〈昭和49年3月16日〉
 心の財産豊かな人に
 開校記念日でもある本日、この学園を巣立ちゆく二百八十七人の皆さん、三年あるいは六年間の研鑽が立派に実って晴れのご卒業、本当におめでとう。人格涵養、勉学、体育、その他、多彩な努力が見事に成果を上げたことに対し、諸君にも、ご両親にも、心からお祝い申し上げるしだいであります。
 さらに諸君の卒業につきましては、先生方はもちろんのこと、本校の先輩や、後輩である全学園生もまた、同じ心をもって祝福してくれていることを、決して忘れないでください。
 また入学からこの卒業までのあいだ、大勢の生徒さん方を精魂こめて慈しみ、教え、責任感にあふれて導いてこられた先生方に対しましては、ご父母の皆さまとともに、心からありがとうございましたと深く感謝申し上げるものであります。どうかこの斬新なる教育がますます発展し、本校がその限りない未来性を輝かしてまいりますよう、心からお祈り申し上げるしだいであります。
 諸君は創価中学の第一期生でありましたから、とくに私としても、一人一人よく知っておりますし、いろいろな行事を通じてさまざまな思い出をもっております。これは諸君と同じ思い出を共有しているわけでありまして、お互いに人間としての貴重な財産ではなかろうかと思うしだいであります。願わくは、諸君は本校を巣立ってからもますます人間として建設に励み、心の財産豊かな人に育ってください。
 進学するにせよ、就職するにせよ、諸君はきょうから新しい人生を踏み出していくわけであります。どうあろうと、過去は過去、未来は未来、このけじめはハッキリつけなければなりません。むしろ諸君の生涯は、これから始まるのだといってよい。人間としての真価が問われるのは、これから二十年がかりの長いあいだだと思う。一人残らず革命児の面目がそこにあることを自覚していこうではありませんか。
 進学希望といっても、今年できる人も来年になる人もいるでしょう。そこで私は申し上げておきたい。進学がかなっても、喜びにおばれたり慢心を起こしたりはすべきでない、と。そして、来年になる人は、一度ぐらいの苦難でみずから立てた志をぐらつかせるな、と。大人の事業にも受験にも通ずることでありますが、人というものは勝ったときに負ける原因をつくる例もあるし、負けたときに勝つ原因をつくる例もある。しっかり者であるかないかは、そうしてふるいにかけられていくのであります。いずれにせよ、堂々とたくましくまいりましょう。
 以上の心得を申し上げたうえで、遥かアメリカの天地から全員の成功をお祈りいたします。
 大学へ入ったならば、人文科学であれ、自然科学であれ、どうか、それらの諸学の基礎をしっかり会得してください。彼の哲人デカルトは常識とボン・サンス(良識)とを厳格に立て分けて、ボン・サンスをこのうえなく大切にいたしました。なぜならば、ボン・サンスのほうこそ一切の常識の母体だからであります。同様に諸学の成果は、その基礎より生まれいずるものであるがゆえに、基礎を会得せよと、申し上げるのであります。英知の原点と文明の基礎を悟った人は、賢者に育つでありましょう。
 卒業生諸君、どうか健やかに、そして心たくましく、仲良く存分に各自の運命を切り拓いていってください。人間として光り輝いていってください。諸君が光れば母校も光り、それにつれて諸君もまた、この母校の思い出を、ますますよきものとしていだくでありましょう。
 諸君の福運をシンポライズ(象徴)するかのように、そこ武蔵野の木々もまた新芽をふくらませておりましょう。それを心に描きつつ、諸君の幸多かれと祈りまして、お祝いといたします。(アメリカ・ニューオーリンズより)

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