Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

(三)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
2  それぞれの教室で、給食をともにして、しばし休憩したあとは、いよいよサッカーの試合である。
 グラウンドのまわりには、全校生徒がつめかけた。生徒はふたてに分かれて、両方のチームを公平に応援することになっている。色とりどりの旗やのぼりが、そよ風にはためいてにぎやかだ。
 パブリック・スクールの選手たちが、赤と白の横じまのユニホームに身を包んで登場した。歓声と拍手が、青空にこだまする。きのう降った雨は、さいわい夜のうちにやみ、きょうは朝から雲ひとつない晴天である。
 フィールドに入ると、彼らはさっそく軽いウオーミングアップを始めた。
 その姿をながめながら、剣司は気持ちの定まらない自分を感じていた。この一週間、ついに竜太に打ち明けることができなかったからだ。
 剣司は、自分にあいそがつきていた。自分で自分が腹立たしかった。なかば投げやりな気分にもなっていた。
 しかし、もうそんなことを考えているひまはない。試合は、いよいよ始まるのだ。いつもの青いユニホームに目を落としながら、剣司は懸命に自分を奮い立たせようとしていた。
 島野先生がきのうのミーティングで訴えたことを、剣司は覚えている。
 ――いいか、みんな。相手チームの実力は、まったくわからない。君たちと同じ年齢だけど、出場する選手たちはみな一軍の精鋭メンバーであるということだ。
 君たちも知っている通り、イングランドのサッカーといえば、世界のなかでも、トップクラスにある。パブリック・スクールの生徒といえども、やはり相当のレベルにあると覚悟してかからなければならない。
 そこで作戦だが……。
 その言葉に、みんなは身を乗り出して聞き耳を立てた。
 ――作戦はまったくない! 全魂の力を出しきって、ぶつかるだけだ。小手先の作戦はなしだ。相手がどういうチームなのか、まったく情報がないのだから、作戦の立てようがない。
 相手の出方を見ようなどという、しゃれっ気は出すなよ。そんなことをしてたら、ずるずると押しきられるぞ。初めから自分たちの実力を出しきっていけ。これまで練習してきたプレーを、そのまま全員がぶつけようじゃないか。いいな!
 パブリック・スクールの選手たちが、ベンチへと引き返していく。銀髪ゆたかな初老の監督が、選手たちになにか語りかけている。
 試合開始の予定時刻まで、あとわずかだ。
 やがて赤と白のあざやかなユニホームがベンチ前に横一列となって並んだ。フィールドに向かって、じっと頭をたれている。
 「なにやってんだ……」
 「考えごとでも、してるのかな」
 「ああ!あれは祈ってるんだよ。きっと、そうだ!」
 「へー。試合やる前に、お祈りするのか。なるほど……」
 キャプテンの海野湧一が、腕組みをしたまま全員を見まわした。
 「よし! じゃあ、こっちは、気合を入れて円陣組もうぜ!」
 「おうっ!」
 剣司たちM中のイレブンが、フィールドへと躍り出る。観客のひときわ高い喚声が、早くも初夏の日差しを思わせる輝く空へと抜けていく。雰囲気がぐんと盛りあがってきた。
 M中の選手が、肩を組み腰を落として円陣を作った。そして「オー!」と元気に叫び、小走りにフィールド中央へ向かった。
 その様子を、パブリック・スクールの選手たちは、興味深そうに見つめていた。
 敵味方とも、それぞれのポジションについた。いつものようにセンターフォワードは、キャプテンの海野湧一である。その右手にライトウイングの剣司がいる。
 こちらのキックオフで、試合開始だ。さきほどのコイン投げで、相手チームは陣地を選んだ。
3  海野が右足をボールの上に乗せながら、相手の陣形をじっと観察している。ゴールキーパーを別とすれば、フルバック四人、ハーフバック四人、フォワード二人……。4―4―2のツートップシステムだ。
 一九六六年のワールドカップで優勝したイングランドの陣形と同じである。どちらかといえば守備に重点を置いたかたちだが、そう思って油断していると、ハーフバックやフルバックが攻撃のためにせりあがってくる。このシステムを使うチームが、日本でも最近また増えてきた。
 それに対して、こちらは4―3―3のいま主流のシステムだ。それぞれの役割分担はいちおう決まっているが、全員攻撃・全員守備をねらいとする流動的なかたちである。
 主審が笛を口元へ運んだ。その瞬間、フィールドに散っていた相手チームの十一人の選手たちのあいだに、目に見えないなにかが走った。まるで、闘志と緊張の糸が、瞬時に張りめぐらされたかのようだ。
 場内は、水を打ったように静かになった。
 笛が鳴った――。
 さあ、戦いの始まりだ。
 海野が、左側にいるレフトウイングの立石に、ゆるいパスを送る。立石はすぐに、センターハーフの中村にボールをまわす。中村はすばやく出てきた敵のひとりをかわすと、ふたたびパスを立石へ返した。
 ボールにつられて、相手の選手がそちらの方へだんだんと引き寄せられていく。
 味方の動きが、とつぜん速くなった。立石が猛スピードで、敵の陣地にドリブルで走りこむ。敵もいっせいに、阻止しようと進路をふさぐ。
 そのとき剣司は、がら空きになった逆サイドを、敵のゴールめがけて猛然と突っ走っていた――。
 いつも練習している攻撃パターンのひとつである。最初はゆっくりしたパスを、もっぱら片方のサイドだけでやりとりする。パスにつれて敵が近づき、そのため逆サイドにはオープン・スペースが生ずる。
 次の一瞬、味方は急激に速い動きに入る。敵は、この突然のリズムの変化にとまどう。そのスキをついて、ボールを今度は逆サイドへまわし、敵の守備ラインを突破する……。
 剣司の目に、敵のキーパーがひざを曲げて身構えるのが見えた。
 チラリと視線を左方向へ泳がすと、ボールがちょうど自分の前方に飛んでくるのがわかった。立石の放った絶好のロングパスだ。
 敵のゴール前には、キーパーしかいない。よし、一対一の勝負になる。願ってもないチャンスだ。
 ボールの飛来する角度にあわせて、タイミングをはかると、剣司は思いきり左足を振った。ボレー・シュートだ。
 剣司のキックは、ボールの真っ芯をとらえた。キーパーが横に跳んでおさえようとするグラブのはるか先を抜いて、ボールがネットを揺るがした。
 観客の歓声と主審の笛が、同時に響いた。
 「オフサイド!」
 そのとたん、剣司の胸に「しまった!」という思いがこみあげた。反則だ。敵のオフサイド・トラップに、まんまとひっかかってしまったのだ。
 サッカーにはオフサイドというルールがある。攻撃側の選手は、自分とゴールとのあいだに敵の選手(キーパーも含む)がひとりしかいない地点では、ボールを受けてはいけないのである。つまりこれは、待ちぶせを禁止したルールであるといってよい。
 このルールを利用すれば、逆に守備側にはひとつの作戦が生まれる。ゴール前の位置で攻撃側のプレーヤーがボールを受けようとした瞬間、守備側のバックスがいっせいに前進してディフェンス・ラインを引きあげてしまえば、そのプレーヤーはゴール前にひとり取り残される結果となり、その位置でのプレーはオフサイドの反
 則を犯してしまうことになるからだ。
 そのわなに、剣司はうまくはまってしまったのである。
 ――そうだったのか。どうりで、おかしいと思った。あまりにも簡単に相手の守備が突破できたので、ひょうし抜けしたような気分になったけれど、ちがうんだ。
 これは敵の作戦だったのだ。相手はオフサイド・トラップという技も、きちんと身につけている。これは簡単にはいかないぞ。
 観客の歓声は、ため息に変わった……。
4  実力は、まったく伯仲していた。スピードも技術も、ほとんど互角のようだ。しのぎをけずる攻防が繰り返された。
 均衡は、三十分ハーフの前半十六分に破れた。背番号7のセンターハーフの長身の選手が、速攻の縦パスをうまくつないで、みずからゴールの右すみに角度のあるシュートを決めた。
 しかし、M中も気落ちすることなく、果敢に攻め続けた。
 前半終了まぎわの二十六分、キャプテンの海野は、敵のしかけてきたオフサイド・トラップを今度はたくみに外してシュートにもちこみ、相手キーパーの足元をゴロで抜いた。
 一対一の同点である。試合は、ふりだしにもどった。
 観客はもちろん、両軍のベンチも総立ちである。声をかぎりに、みな口々に叫んでいる。手を振り、足を踏み鳴らしながら、懸命に応援している。
 敵のけったボールが、タッチラインを割った。スローインをするために、剣司がフィールドの外で線審からボールを受けとる。味方ベンチの近くであった。
 そのときである――。
 剣司は、喚声のなかにひとつの声をはっきりと聞いた。その声は、騒然とした周囲の空気を貫いて、彼の耳へとまっすぐに届いてくる。
 「剣司! 頑張れ。剣司! 頑張れ――」
 声の主と、目と目があった。祈るようなまなざしで、仲間に肩をかかえられながら、竜太が必死に叫んでいる。
 そのとたん、剣司の胸の中心で、なにかが強く渦を巻いた。
 ――竜太が応援している。おれのために……。ケガをさせてしまって、この試合に出られなくなってしまった竜太が……おれのために……。おれのために!
 こらえきれない思いが、あふれた。逆巻く心の荒波とともに、すべてのためらいやとまどいが、こなごなに砕け散っていく。
5  試合は同点でハーフタイムを迎えた。
 ベンチへもどってきた選手たちに、一年生が水の入ったボトルを配る。別のメンバーは、キーパーのグラブにすべり止めのスプレーを吹きつけている。
 試合に出られない部員たちも、それぞれの役割をてきぱきとこなしている。あわただしくも貴重な五分間だ。
 「みんな、聞け! 向こうの中心は、背番号7をつけた選手だ。強力なストライカーであるとともに、すぐれたゲームメーカーでもある。彼が試合を組み立てている――。だから海野! あいつから目をはなすな。それに中村! お前は、海野のプレーをしっかりフォローするんだ――」
 島野先生が、てきぱきと指示を出していく。一分一秒たりとも、むだにはできない。
 「剣司! 剣司はいるか!」
 「はい――」
 足ばやに近づいた剣司の両肩に、島野先生ががっしりと手を置くと、先生は彼のひとみを静かに見つめた。
 「あと三十分だ。剣司、点を取れ。死にもの狂いで、点を取れ。竜太のために、渾身のシュートを決めろ――竜太のために!」
 剣司は走った。夢中で走った。
6  ――竜太のために!
 彼の胸にあるのは、もはやこの思いだけであった。
 いいところを見せたいという願望も、勝ちたいという執念も、いまの彼には無縁であった。ファイトが、彼の五体を満たしていた。
 剣司は、自分のうちに竜太を感じた。一緒に竜太が、いま走っている。竜太が、キックした。竜太が、ジャンプしている……。
 おれは、この竜太のために戦おう。竜太のためにシュートするんだ。竜太のために、走って走って走り抜くんだ!
 敵のガードは固かった。シュートを放っても、惜しいところではばまれた。
 敵の攻撃も激しかった。バックスは自分の体を盾にして、必死にクリアを試みる。味方のキーパーは右に左に身を挺して、ゴールを懸命に守っている。
 雨あがりのあとで、グラウンドはしっとりと湿っている。いつしか選手のユニホームは、敵も味方も泥だらけになった。
 がっちり四つに組んでの攻防は、続いた。
 しかし、何度目かのオープン攻撃で、センタリングにあがった球を海野が強引にシュートし、それをキーパーが前にはじく間に、今度は立石が押しこみ、M中は待望の二点目をあげた。
 だが、リードもつかの間だった。
 がっちりマークされた敵の背番号7は、ねらいが自分に集中していることを知るや、たくみにアシストにまわって、仲間に絶好のパスを送り、同点にした。
 一瞬の油断もできなかった。一歩リードすれば、敵もすぐに追いついてくる……。
 剣司は心臓がはちきれそうだった。体はへとへとになっている。それでも、走った。敵の選手に、しぶといほどにくらいついた。火の玉になって、ボールを追った。
 時間は刻々と過ぎていく。主審が笛をくわえながら、時計をながめている。
 ――ああ! もう残り時間は、あと少ししかない……。だけど、それまでに、なんとしても……。
 ボールがゴールラインを割った。よし、味方のコーナーキックだ。
 中村がコーナー・エリアにボールを置いて後ずさりすると、慎重に間合いをはかっている。
 たぶん、これが最後の攻撃になるだろう。時間がない。敵も味方も、力を使いはたしている。このチャンスをのがしたら、もうあとはないのだ。
 剣司は、敵のゴールわきに身構えて、中村のセンタリングに備えた。剣司より背の高い選手が、ぴったりと寄りそってマークしてくる。
 中村が右足を振り抜いた。ボールがゆるやかな弧を描いて、剣司の頭上へ飛んでくる。渾身のヘディング・シュートだ!
 剣司は跳んだ――。残りの力のすべてを振りしぼって、大地をけった。
 それにつれて、敵の選手も負けじとジャンプしてくる。
 その瞬間、剣司の脳裏に、一つの光景がよみがえった。ちょうど、これとまったく同じボールだった。そう、あのときおれは、こんなふうに跳びあがったのだ。そばには、竜太がいた。竜太は、おれよりも高く跳んで……。
 紅白試合だった。ずいぶん昔のような気がする。一個のボールめがけて、おれと竜太は思いきり大空へとジャンプしたのだ――。
 竜太! おれに力を貸してくれ!
 力のかぎり伸びあがった剣司のひとみに、青空が焼きついた。雨あがりのあとの雲ひとつない、透き通った大空だ。
 剣司は見た――そこに、竜太の心を! 青く広がる澄みわたった大きな心を!
 そして剣司は……全身が青空に染まるのを感じた……。
 次の瞬間、ボールをとらえたたしかな感触が、剣司の全身にあふれ返った。キーパーの指先をすり抜けて、ボールがネットへと吸い込まれていく。やったぞ竜太!――と心の中で叫びながら、剣司はそのままフィールドへと倒れこんだ。
 大歓声がわいていた。拍手が鳴りやまなかった。大小とりどりの旗が、打ち振られている。
 しかし剣司には、なにも聞こえなかった。なにも見えなかった。
 静かだった。渾身の力を出し切った剣司の心は、いまひっそりとした安らぎに包まれていた。
 ――もう動けない。風がほおにそよいでいる。ああ、なんていい気持ちだろう。
 胸のなかに、竜太の笑顔が浮かんだ。キャプテンや仲間の顔も見えた。それに、熱戦を繰り広げたパブリック・スクールの選手一人ひとりの姿も……。
 なんてすばらしい仲間だろう。なんて頼もしい連中だろう。よかった。彼らと出会えて、ほんとうに幸せだ。
 そう思うと、剣司の心には、なんともいえないうれしさがこみあげてきた。
 倒れたままの剣司に、相手のキーパーがグラブを外して、手を差し出した。剣司を引き起こすと、キーパーは彼の背中を大きな手でポンとたたいてほほ笑んだ。
 「ヘイ――。ガッツ・ボーイ!」
 剣司の白い歯が、きらめく陽光を受けて美しく輝いた。
 戦いは終わった――。
7  歓迎親善会は、学校の講堂で行われた。
 力をつくして、熱闘を展開した両軍の選手はもちろん、全校の生徒や教師もこの場に集っている。
 パブリック・スクールのサッカーチームの監督が演壇に立った。豊かな銀髪が波打っている。がっしりした体格だ。通訳は英語の先生がやるらしい。
 背筋をしゃんと伸ばすと、監督は白い眉を寄せ、悲しげな表情になって肩をすくめた。
 「私は……困っているのです。十年後のワールドカップの大会に、このような日本の少年たちが出てくることになると、わがイングランドは大いに苦しめられることになるでしょう……」
 会場に爆笑がわいた。銀髪の監督も、ニコニコ笑っている。
 試合は三対二でM中が勝った。最後のぎりぎりの瞬間に、剣司の放ったヘディング・シュートでかちとった奇跡的な勝利であった。
 「子どものころ――私の父が、よくこんな話をしてくれました。それは、清水善造というひとりの日本人の物語です。いまから、もう七十年近く前の出来事ですから、日本にも記憶されている方はあまりいないかもしれません……」
 ――一九二〇年のことである。ウィンブルドンのテニス大会に、初めてひとりの日本人が出場した。清水善造というその小柄なプレーヤーは、大方の予想を裏切ってグングン勝ち進み、オールカマーズの決勝にまで進出した。
 ロンドンの市民は驚いた。極東からきた小さな日本人が、並みいる強豪を次から次へと打ち破っていく。しかもマナーがさわやかだ。
 清水の活躍を、ロンドンの新聞は競って、書きたてた。評判はみるみるうちに高まり、人々は親しみをこめて、彼を「シミー」と呼んだ。
 決勝戦の相手は、不世出の天才プレーヤーといわれるチルデンであった。
 白熱した試合であった。
 第三セットのとき、チルデンがつまずいてコートに倒れた。
 清水にとっては絶好のチャンスである。ところが彼は、ゆるい球をチルデンの目の前に返した。
 観客は、その清水のプレーに絶賛の拍手を送った。これこそ、スポーツマンシップの鑑であると――。
 「シミーという名で親しまれたひとりの日本人プレーヤーに、父は強い印象を受けたのです。父だけではありません。当時のイギリス人は、シミーという人間を通して、日本が好きになったのでした――」
 監督が言葉をきって、会場を見まわした。
 「スポーツマンシップは、世界の心です。国境を超えて、人と人とを結びつけます。きょうのサッカーの試合で、さわやかな熱戦を展開した日本の少年たちを、私は生涯忘れません。この戦いによって、新しい出会いが生まれ、新しい友情が芽生えました。みなさん、ありがとう――」
 剣司は、はっきりと理解した。フェアな心こそが、人間と人間の絆をはぐくむ最大の力なんだ。竜太のように素直で正直な心こそが、ほんとうの強さなんだ。
 素直に、正直に、相手にぶつかっていかなくちゃいけない。飾ったり、ごまかしたりするのは弱さだ。
 会場では、サンドイッチとジュースの交歓会が始まった。
 海野も立石も、中村も、激しい戦いを繰り広げたパブリック・スクールの選手たちとなごやかに談笑している。
 あちらでは、花岡咲子や夏井リエが、金髪のハンサムな少年に身ぶり手ぶりで語りかけている。
 剣司は、竜太を求めて周囲を見まわした。広い講堂の中は、はずむような笑いと語らいの響きがこだましている。
 竜太がそっと講堂の扉を開けて出ていくのを、そのとき剣司は見つけた。ひとりで、どこへいくのだろう。
 剣司は急いであとを追った。みんなのわきをすり抜けて、講堂から一歩足を踏み出すと、本校舎へと続く長い廊下の向こうに、片足を引きずりながら歩く竜太の姿が見えた。
 ひんやりした空気が体を包む。ふたりのほかには、だれもいない。講堂の中のざわめきが、かすかな潮騒のように聞こえる。
 剣司が小走りになった。竜太の後ろ姿が、まだ、あぶなっかしい歩きぶりだ。その姿を見つめるうち、熱いかたまりが胸のなかで大きくなってくるのを剣司は感じた。
 「竜太!」
 その声に、竜太が立ち止まって振り向いた。しかしそのとたん、バランスを失って倒れそうになった。剣司が飛びついた。そして、支えるように竜太を固く抱きとめた。
 言葉にならなかった。あふれ返る心の激流に、剣司はただ、肩をふるわせるばかりであった。初めはびっくりした竜太も、やがてすがすがしい真情が剣司のなかから流れ出ていることに気づいた。
 新しい剣司が、いま生まれ出ようとしている――。そう思うと、心と心がひとつに溶けあうのを、竜太は深く実感したのだった。
 胸のなかのかたまりが、熱いしずくとなって剣司のほおをぬらしている。悲しさでもない。うれしさでもない。それは、剣司が初めて味わう、晴れ晴れとした不思議な安らぎに満ちた涙であった……。
8  剣司からすべてを打ち明けられた島野先生は、口元をギュッと引き締めながら、しばらく天井をふりあおいでから話し始めた。
 「そうか……。うん、わかっていたんだ。先生は全部、知っていた……。よし、このことは、だれにもしゃべる必要はない。あとは、ぼくにまかせておけ――」
 放課後の教室であった。ふたりのほかには、だれもいない。午後のおだやかな日差しが、先生と剣司にやさしく降り注いでいた。開け放たれた窓からは、クラブ活動に励む生徒たちのはずむような喚声が、風に乗って流れてくる……。
 剣司はすべてを話してくれた。だから、剣司の“あの動作”についても、問いただすことはもうやめよう。ひとり自分の胸にしまって、新しく生まれかわった剣司のために、そしてM中サッカー部のみんなのために、監督としてこれまで以上の力を注いでいこう。島野先生はそう心に決めると、にこやかな笑顔を見せて立ち上がった。
 島野先生の心に引っかかっていた“あの動作”とは、例のタックル事故の起きる直前に目撃した剣司の動きのことである。
 シュートしようとする竜太めがけて、剣司が猛然とタックルをしかけにいく。そのとき剣司は、ボールをねらいにいったのか、それとも竜太の足をけろうとしたのか――。
 あのとき剣司はどういうわけか、竜太へ向かって走っていくとき、ちょうど「く」の字を描くような進路をとったのだった。
 なぜ、まっすぐに突っこまないで、わざわざ曲がっていったのか。
 それは、主審の目をごまかすためであったにちがいない――と島野先生はすぐににらんだ。つまり、わざと足をねらったことが主審から見えないように、「竜太──自分──主審」の線が一直線になる角度で、剣司はタックルをかけたのだ。
 島野先生にとって、あの瞬間の剣司の意図は明白であった。と同時に、不正行為とはいえ、とっさの場合にあれだけの計算をした剣司に、島野先生が内心ひそかに舌を巻いたのも事実であった。
 剣司の素直な告白を耳にしたいま、しかし彼の過去を問うことは、島野先生にはもはや無意味に思われた。ここにいるきょうの剣司を、そして未来へ伸びるあしたの剣司を、どこまでも見つめていくことが大切だ。
 剣司は立派に立ち上がった。彼のたくましい若芽は、いまこそ青空へ向かってぐんぐん伸びていくにちがいない。
 「さあ、剣司! 練習だ。サッカー部のみんなが待ってるぞ。行ってこい!」
 島野先生のその言葉に、剣司は輝くひとみをあげて、大きくうなずいた。
9  竜太のケガの全快は、地区予選の始まりに間にあわなかった。しかし、そのかわり、剣司が申し分のない活躍を展開した。
 竜太の登場は、第三戦からであった。それからのM中サッカー部は、すばらしい勢いで勝ち進んだ。なにしろ、竜太と剣司のコンビが絶妙であったからだ。
 相手がいまなにを考えているかが、ふたりにはわかった。そして、自分がいまなにをしなければならないかが、即座に判断できた。しかも、たぐいまれな敏捷性を備えた竜太である。燃えるようなファイトを満々とたたえた剣司である。
 地区大会での優勝は、だから当然のことであったといってもいい。
 そして彼らは、都大会へと駒を進めた。そこでも、竜太と剣司の連係プレーは、抜群の威力を発揮した。さらに、そのあとには、あこがれの全国大会が……。竜太と剣司とM中の選手たちの戦いぶりは、そこでも大きな旋風を巻き起こしたという話である。
 フィールドには、さまざまな風が吹く。
 勝利の風もあろう。敗北の風もあろう。喜びの風も吹こう。忍耐の風も吹こう。だが、フェアな心さえ失わなければ、そこには成長と友情の薫り高き風がそよぐにちがいない。
 君のなかにも、剣司がいる――。
 君のなかにも、竜太がいる――。
 あしたのフィールドには、そうした剣司や竜太たちの、すがすがしいファイトに満ちたプレーが、さわやかな日差しのもとに躍動していることだろう……。

1
2