Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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(五)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
2  「……いろんなことがあったけどねぇ、苦しいときこそ、ファイトを燃やすことにしたんよ。原爆なんかくそくらえって、ね」
 そう語ってニコリとした八重子おばさんの表情が、一城の心に焼きついている。そこに、人生を力強く歩む八重子おばさんの“秘密”があるような気がした。
 人間はだれでも、いつかは死ぬ。だからといって、みずからの手で人生に終止符を打ってしまってはいけない。どんな人にも、その人にしかできない尊い生き方があるのだ。
 八重子おばさんも、そのことに気がついた。原爆のこわさを一人でも多くの人に訴えていこう、そのためにも私は生き抜くのだ――と、心に深く決めたのである。
 「あんたら若い人がね、今度はおばさんたちの願いを引き継いでほしいんよ。核兵器なんかない平和な世界をつくっていってほしいんよ」
 八重子おばさんはこうも言った。その切なる訴えを聞きながら、一城は、平和記念公園にともっていた「平和の火」を思い起こした。この地上から核兵器がなくなったとき、あの火は消されるという。あれを消すのは、ぼくたちの使命だ――と一城は感じた。
 そんなことを思い返しながら、一城は自分たち一人ひとりの人生がいかに大事なものであるかを、痛切に感じないわけにはいかなかった。一城は、自殺しようとした中村君に何だかとても会いたくなった。どうしているだろう。
 ――中村君、頑張れ!
 心のなかの中村君に、一城は力いっぱい呼びかけた。
 新幹線は、スピードを上げた。木々の緑が、飛ぶように流れていく。一城は、体中にさわやかな躍動感がわいてくるのを覚えた。
3  帰京してから、一城はすぐに中村君を訪ねた。病院の玄関へと続く並木は、セミしぐれに包まれていた。木もれ日が、病院の白壁に木の葉のシルエットを落としている。一城は、中村君の病室の窓を見上げた。
 部屋に入ってきた一城を見て、中村君は小さくこくりとうなずいた。前より少し顔色は良くなっている。だが、いぜんとして生気がない。一城はベッドに近づき、そばの椅子を引き寄せた。
 「どう?具合は?」
 「……うん」
 「いつごろ、退院できるんだい?」
 「……もうちょっと……かかるみたい」
 一城は、包みを差し出しながら、中村君にほほえみかけた。
 「はい、おみやげ! 広島へ行ってきたんだ。おばさんの家へ――」
 「そう……」
 「新幹線で五時間もかかるんだ」
 「ふーん……」
 「原爆の資料館も見学したけど、ほんとにすごかったよ」
 一城が話しかけても、中村君は何となくうわの空である。心の傷は、いえていないようだった。ぼくが広島で見たこと、聞いたことを、とにかく全部しゃべろう……と一城は決めた。
 〈ヒロシマへの旅〉を、一城は語った。広島城のこと……。縮景園のこと……。八重子おばさんが被爆者であること……。今でも夾竹桃の花を見ると心が痛むこと……。平和記念公園や資料館のこと……。
 中村君は、だんだんと話に興味を持ちだしたようだった。そして、八重子おばさんの被爆体験を語るころには、目を大きく見開いて、一城の話に耳を傾けた。
 原爆をのろい、運命をうらんで、八重子おばさんが、みずからの命を絶とうとしたこと。そして、国民学校の恩師と出会い、生きる意欲を取り戻したこと。そうした人生の劇的なドラマを、一城は心をこめて話した。
 中村君のほおに、少しずつ赤みがさしてきた。目に光が輝き始めた。中村君のそうした変化に気づくと、一城は何だかとてもホッとした気分になった。
 「もう一つ、君に渡す物があるんだ。八重子おばさんからのプレゼント――。君にあげてくれって。おばさんのいちばん大切な宝物なんだ」
 ニコニコしながらそういうと、一城は、ポケットから白い封筒を大事そうに取り出した。
 中村君は不思議そうな顔をしながら、その封筒を左手で受け取った。右手は、まだ包帯をしたままである。中村君は片手で器用に、封筒から一枚の小さな紙を抜き出した。
 古びた手帳のページだった。八重子おばさんが恩師から手渡された、あの思い出の言葉が記されている紙である。モンテーニュというフランスの思想家の言葉だそうだ。そのことを一城は、あの晩、光枝から教えてもらった。
 紙は黄色く変色し、四すみはところどころすり切れている。しかし、インクで書かれた文字は黒々と、まるで焼き付けられたように、はっきりとしていた。
 「そう……。八重子おばさんの大切な宝物……。これを、ぼくに?」
 「うん――」
 中村君は、小さな紙に目を落とした。身じろぎもせず、二回、三回と読み返している。文字を目で追いながら、中村君はじっくりと味わうように、いつまでもそれを放さなかった。
 一城は、どんな言葉をかけたらいいのか、分からなかった。中村君のそんなようすをながめているうち、何だか胸がいっぱいになってきた。
 病室の窓から、夏の明るい日差しが、さんさんと降り注いでいる。まぶしい光のおどる戸外へ、一城はそっと目を移した。梢の緑が生き生きと輝いている。
 気がつくと、はじめて中村君が笑みをたたえて、一城を見つめていた。そして、小さくひとことつぶやいた。
 「ありがとう……」
 一城は、何となく照れくさかった。でも、思いきってここにきて、本当によかったと、満ち足りた思いだった。
4  あの日が中村君の転機になった、と一城は振り返ってみて、つくづく思う。
 容体は、それからみるみるうちに良くなっていった。夏休みが終わるころには、包帯もとれて、一人で歩けるようにもなった。
 人の心とは、不思議なものだ。中村君の心の変化は、身体にも急速な回復をもたらしたのである。
 二学期が始まり、登校してきた中村君を見て、クラスのみんなはびっくりしたようすだった。以前の明るく元気な中村君が、現れたからである。
 「おい、中村! ケガは、すっかり治ったのか?」
 「よかったわね。早く退院できて」
 「あれっ! 何だか、ずいぶん元気そうじゃないか――」
 友達のそんな声にも、中村君はニコニコしているだけである。
 まわりを取り囲んだ仲間の一人が、小首をちょっとかしげながら、こうたずねた。
 「……なんか、あったのか? “元気ぐすり”でも飲んだとか」
 ――アハハハハ……。
 教室は、はずむような笑いに包まれた。
5  卓球部のみんなも、中村君が戻ってきたことを、とても喜んだ。そして翌日からは、メンバーに交じってはりきって練習に励む中村君の姿が、見られるようになった。
 “黄金の右腕”と言われた中村君である。だが医者は、傷が治っても以前のようなプレーはできないかもしれない、と言っていた。じっさい、球を打ち返す微妙なコントロールには、かなり苦労しているようであった。おまけに、体力もずいぶん落ちてしまっている。しかし、中村君は、黙々と練習にうちこんだ。
 準備体操のあと、サーキット・トレーニングを入念に繰り返し、二人で組んで、フォア打ちに汗を流す――。
 全体の練習が終わっても、中村君は、一人残って鏡を見ながら素振りをし、グラウンドを走り続けた。昼休みにも縄とびやランニングをしたり、階段はかかとをつけずに二段ずつ上がるように心がけて足腰を懸命に鍛えた。
 秋の終わりのことであった。学校からの帰り道を急ぐ一城に、うしろから中村君が声をかけた。
 「おーい、一城! いっしょに帰ろう!」
 振り向くと、中村君が小走りに近づいてくる。
 「やあ、きょうの練習は終わったの? このごろ評判だよ、中村はめきめき腕を上げてるって」
 「まだ、前ほどの調子じゃないさ。体がすっかりなまってしまったからね。一から鍛え直しだよ」
 「“黄金の右腕”は、よみがえるね、きっと!」
 「そう簡単にはいかないよ。もと通りになるかどうか、分からない……。分からないけど、とにかく今の自分から出発するしかないから」
 「そうだな……。昔のことを思い出して、くよくよしたってはじまらないもんね」
 「ぼくは、この卓球で自分をためしてみるんだ。《どんなことにも負けない強い心》が、ぼくにもあるのかどうかを――ね」
 「そう……」
 「目標は、来年二月の冬季大会――。地区の強豪の学校が勢ぞろいするからね。どこまで頑張れるか。ぼくは、それにかけてみるんだ!」
 そう言うと中村君は、こぶしを握ってみせた。
6  おだやかな冬の日の朝――。きのうまで吹いていた木枯らしも、ぴたりとやんで、暖かい日差しは、春の訪れを思わせた。
 きょうは、いよいよ冬季卓球大会のシングルスが行われる日だ。出場するのは、地区の三十校。それぞれ代表選手四人をくりだし、総計百二十人が技を競う。
 きのうはダブルスの試合が行われた。しかし、中村君の組は、準々決勝で敗退してしまった。実力を出しきれずに負けてしまったような感じだった。試合が終わったあと、中村君はどこかしら気落ちしたようすであった。
 もう少しいけるかと思ったのに……。本来の調子が、まだ出ていない。この数カ月で、中村君の腕前はみちがえるほど回復したのに……。
 しかし、中村君はよくここまで頑張った。冬休みの間も、ひたすらトレーニングに励んできたのだ。準々決勝まで残れたのだって、すごいことかもしれない。
 はたしてきょうは、どんな試合展開になるか……。中村君も、きのうの試合で、だんだんと勝負カンを取り戻してきたようだし、期待できるはずだ。せっかくこうして頑張ってきたのだから、どうにか優勝争いに加わってほしい――。
 会場の市民スポーツセンターへ向かう道すがらも、一城は胸がドキドキしてならなかった。中村君のことを思うと、祈るような気持ちであった。
 観客席には、クラスの友達の姿が見えた。みんな中村君の応援にきたのである。
 大会が間近になったとき、一城はまわりの友人に声をかけた。――今度の卓球大会は再起した中村君の初舞台だ、みんなで応援に行こう。
 友達も気にかけているようだった。一城の呼びかけに、何人ものクラスメートがうなずいた。
 友達の一人が、たれ幕を持ってやってきた。〈勝て勝て中村!〉と書いてある。
 「何だか大げさじゃないかって思ったけどさ……」と言って、友達は頭をかいた。
 「おっ!いいじゃないか、思いっきり、応援しようよ!」
 「うん!そうしよう!」
 「だけど、あんまり騒ぐと、かえって固くなって、あがっちゃうんじゃないか?」
 「大丈夫だよ、きっと中村君だって元気づくさ」
 「よし!決めた!」
 開会式のあと、フロア全面に並べられた卓球台で、いよいよ熱戦が開始された。
 ピンポン球のはずむ軽快なリズム。シューズのたてる“キュッ、キュッ”という響き。スマッシュに踏みこむ“ドーン”という足音……。それらが一体となって、体育館の高い天井にこだまする。
 「卓球の試合って、はじめて見たけど、驚いたね。スピードもあるし、迫力もあるね」
 「いちばん変化の激しいスポーツなんだ。打った球が自分のところに戻ってくるのにたったの〇・五秒だって」
 一城が答えた。
 「へぇー、ちょっとでも気を抜いたらだめだね、これは――」
 「技や体力はもちろんだけど、相手の心理やクセも見抜かなければならないそうだよ」
 中村君のことを気にかけるあまり、一城もいつしか、卓球に関してはかなり詳しくなっていた。
 ピンポン球は、とても軽い。それだけに、空気の抵抗を受けやすい。選手ともなれば、ラケットのラバーの質、打つ角度、力の入れ具合で、変化球も自在だ。相手は、それを即座に読みとって、打ち返さなければならない。
 「あっ! 中村君だ!」
 「よし! いよいよだな」
 「ガ・ン・バ・レ!」
 みんなは口々に叫んだ。
7  昨夜、一城は、八重子おばさんに電話を入れた。中村君がダブルスで思ったほど勝ち進めなかったことを話したのである。
 八重子おばさんも、中村君のことを心配していた。試合のことを伝えると、電話口から八重子おばさんのこんな声が返ってきた。
 「試合に勝ち負けはつきものだけど……負けても、前に進むことが大事なんよ。試合でやぶれても、自分に負けないこと。結局、人生に勝てばいいんだから。大丈夫よ、中村君は必ず立ち直るから――」
 そばにいたお父さんも、一城にこんな話をしてくれた。
 昭和二十七年(一九五二年)、戦後はじめて、日本はボンベイでの卓球の世界選手権に出場した。そのとき日本は、七種目のうち四種目で優勝するという、輝かしい成績を収めた。
 「……あのときは、お父さんもうれしかったね。戦争に疲れ果て、生活も苦しくてね、日本人はみんな気力を失っていたんだ。だけど、あの卓球の勝利で、やればできるっていう気になったよな。何かこう、自信と勇気がわいてきたのさ」
 一城は、八重子おばさんやお父さんの言葉を思い起こしながら、手すりから身を乗りだすようにして、中村君を見つめた。
 ――負けるな中村君!自信と勇気を取り戻すんだ!
 きょうの中村君の動きは、軽快だった。第一試合は2ゲームを連取して、ストレート勝ちである。
 第二試合、第三試合と、中村君は順調に勝ち進んでいく。相手のミスに救われる場面もあった。勝運もある。しかし、勝負はこれからだ。
 午前中でベスト4が決まった。どうにか、中村君もそのなかに入ることができた。きのうと比べれば上出来である。
 昼食をはさんで、いよいよ午後から準決勝と決勝だ。これからが正念場だ。一城も、応援に駆けつけた友達も、心の緊張を、おさえることができなくなっていた。
 中村君は、いい試合を展開している。しかし、安心はできない。少しの油断が致命傷になる。よし! 応援も頑張らなくちゃ――と一城は思った。
 準決勝は、やはり、うってかわって苦戦となった。第二、第三ゲームは、ジュースにまでもつれこんだ。
 一球一球、目が離せない。見守る一城のてのひらも、じっとりと汗ばんでくる。だが、中村君は、最後の球をきわどくコーナーに決めて、なんとか勝ち抜いた。
 さあ、いよいよ決勝だ。相手は、前評判の高い青山君である。一城も、名前だけは知っていた。地区の学校のなかでは、随一の実力をもつといわれる好敵手だ。
 場内の熱気は、最高潮に達した。試合の終わった各校の選手たちも、フロア中央で始まる最後の戦いに、まなざしを注いでいる。
 「お願いします!」
 礼儀正しく、二人が声をかけ合った。
 「ラブ・オール!」
 審判員の声が、会場に響いた。
8  試合は、青山君のサービスで始まった。手強い相手であることは、一城にもすぐに分かった。フットワークは軽やかで、球にも威力がある。しかし、繰り出す五本のサービスのうち、中村君は二本を自分のものにした。まずまずのすべり出しだ。
 チェンジサービス――。てのひらの上に球を乗せ、腰を落として、中村君は相手をじっと見つめた。さすが、青山君の構えにはスキがない。どんな球がきても、すぐに打ち返せる体勢だ。
 中村君はドライブ・ロングサービスを放った。矢のようなボールが、対角線上を飛んでいく。コートの端ぎりぎりでバウンドした白球を、相手は体をいっぱいに伸ばして、どうにか中村君のコートの右側に打ち返した。チャンスだ! 足を一歩踏みこむと、中村君は得意のスマッシュを、今度は相手コートの反対側に深々と打ちこんだ。
 「やった!一本!」
 中村君の攻撃が、絵にかいたように決まった。一城たちは、手をたたきながら、笑顔をかわし合った。
 ポイントは取ったり取られたりで、差が開かない。だが、中村君のスマッシュが一本、二本と決まり出し、徐々に中村君のペースになっていく。よし、いける! 接戦ではあったが、第一ゲームは中村君がものにした。
 第二ゲームも、中村君のリズムはいい。ところが、どうしたことだろう、中村君の返球のミスがにわかに多くなった。点差が、ぐんぐん離されていく。
 一城の心に「おや?」という気持ちがわき起こった。――おかしい。これまで、やすやすと打ち返せたコースなのに……。
 じっさい青山君の球の変化は、ほかのどの選手よりも鋭かった。球筋が横に曲がる変幻自在のサイドスピンをかけてくる。しかも、球を中村君のバックに集めている。
 完治したはずの“黄金の右腕”も、その変化の鋭さ、コースの厳しさについていけないのだ。一城には、相手の攻め手を知りながら思うように打ち返せない、中村君の苦しさが痛いほど伝わってきた。
 ……やはりケガのせいなのだろうか。微妙な手首の使い方がきかないのかもしれない。ここが踏んばりどころだ。どうにか、頑張ってほしい――。
 相手は、弱点を知ると、そこをさかんに攻めてくる。中村君も、体を寄せて必死にしのいだが、点差は開くばかりである。最後にポイントを連取してねばりをみせたものの、第二ゲームは、青山君が大差でものにした。
 残るは第三ゲームだ。これで、すべてが決まる。しかし、中村君は弱点を知られてしまった。相手はさらに左右にゆさぶってくるだろう。中村君のスタミナも心配だ。一城には、すべての面で中村君のほうが不利に思えた。
 気が付くと、応援も意気消沈している。そうだ! 厳しい状況の時こそ、心をこめて応援するのが友達というものじゃないか。今、中村君にしてあげられることはこれしかない。一城は大きな声で、
 「頑張れ、中村!」と叫んだ。
 青山君の攻めは、相変わらずに厳しい。だが、中村君もサービスエースで得点をかせぎ、執ように食い下がる。まさに一進一退。技術と体力と、激しい心理戦の攻防だった。
9  「フィフティーン・オール!」
 審判の呼び声に、中村君は手の汗をタオルでぬぐった。あごからも、ポタリポタリと汗がしたたり落ちている。
 15対15だ。ここでサービスは、相手に移る。何としても、五本のサービスのうち三本はとってほしい、と一城は願った。
 一本目は青山君、二本目は中村君、三本目はまた青山君……、そして四本目も青山君、得点は18対16になった。青山君が二本リードしている。あとの一本までとられると、中村君はがぜん苦しくなってしまう。何とか18対17にもちこめ!
 相手は、グーンと伸びてくるようなサービスを放った。打球はかろうじてコートの最末端の角にあたって、ポトリと床に落下した。
 エッジボールだ! これでは返球のしようがない!
 「すいません!」
 青山君が軽く頭を下げた。しかし顔には「しめた!」という表情が隠せなかった。これで得点は、19対16――。
 何ということだ。不運としか、いいようがない。中村君は、天を仰いでいる。
 サービスが、中村君に回ってきた。一本目は、相手のショートカットした球が、うまくこちらのコートを外れた。しかし二本目は、中村君のドライブした球が、ネットにひっかかってしまった。
 もう、あとがない。絶体絶命のピンチだ。あせるな! 気を静めろ!
 中村君は、静かに息を整えて、てのひらの上の球を見つめている。場内のざわめきも、もはや彼の耳には届かないようだった。
 渾身の集中力をこめて、中村君がサービスを放つ。青山君が、正確なレシーブを返す。そして、息づまるようなラリーの応酬……。
 応援に駆けつけた友達も、かたずをのんで見守っている。一城は、のどがカラカラに乾いてくる思いだった。
 中村君! 踏んばれ! 負けるな! 君自身の人生の勝利へ向けて!
 一本、二本と、中村君はポイントを獲得していく。青山君の顔つきに、あせりの色が浮かんできた。しかし中村君は、気負いも、動揺もなく、今のこの瞬間を、全力で戦いきっている。
 「ジュース!」
 20対20になったことを、審判が告げた。相手の青山君は、いかにも残念そうだ。
 ジュースに入ってから、サービスは一本ごとに交代となる。青山君のサービスを、中村君はよく切れたショートカットで返した。相手もまたショートカットで応じてくる。しかし、威力は半減し、その四球目を、中村君は素早くドライブで決めた。
 今度は中村君のサービスだ。ピタリと足の位置を決めると、中村君は静止した体勢から、速いスイングでサービスを繰り出した。
 これをとれば、中村君の逆転優勝だ。青山君も、きっとくちびるを引き締めている。
 青山君は相手コートの左右をつく。それに対して中村君は、ショートとロングを交互に繰り出し、前後に揺さぶりをかける。
 どちらも一歩もゆずらない。そのうち、強烈にドライブのかかった球が、中村君のバックサイドのコートぎりぎりに入った。中村君も体勢を崩しながらも打ち返したが、返球は相手の絶好のチャンスボールになってしまった。
 次の瞬間、青山君は猛烈なスマッシュをたたきつけてきた。一城は心のなかで「あっ!」と叫んだ。
 それを中村君が、なぜ返せたのか、一城にはよく分からない。反射的にのばした中村君のラケットは、相手の打球をバウンド直後にぴたりととらえていた。決まったと思って力を抜いた青山君のわきを、白球がサッとくぐり抜ける。
 大きなどよめきと拍手が、どっとわき起こった。一城たちはとび上がって、歓声をあげた。
 「やった!優勝だ!」
 「すごいぞー! 中村!」
 中村君が、ついにやったのだ! 再三のピンチをしのいでの、見事な優勝だ!
 熱戦を繰り広げた二人は、声をかけ合いながら、握手をかわしている。中村君は、手の甲でひたいの汗をぬぐうと、観客席を見上げた。そして、一城や仲間たちへ、はじめてさわやかな笑顔を向けた。
10  表彰式がすんでから、一城たちはロッカールームへと急いだ。中村君を取り巻いた卓球部のメンバーも、興奮と喜びをおさえきれない面持ちである。
 一城たちの姿を見つけると、中村君は右手をさし上げた。
 「ありがとう! 本当に――」
 みんなも、口々に声をかけた。
 「すごかったよ!あの決勝戦は――」
 「あんなに、ハラハラドキドキしたのは、はじめてだもの」
 「何だか、自分が優勝したような気持ちさ――」
 そこへ、三年生のキャプテンがやってきた。キャプテンは、囲みに割って入ると、中村君に卓球のボールを手渡した。
 「新学期からは、君が卓球部のキャプテンだ」
 「えっ! ぼくが?」
 「うん、大会に優勝したから……というわけじゃない。君がいちばん頑張ったからさ。それは、みんなもよく知っている。これからの一年、すばらしい卓球部を作っていってほしいんだ」
 中村君は、驚いたような顔つきで、キャプテンを見つめている。やがて、意を決したように小さくうなずくと、きっぱり言いきった。
 「分かりました! 頑張ります!」
 周りで拍手が高鳴った。いっしょに応援にきた仲間たちも、自分のことのように顔を輝かせている。一城は、今まで味わったことのない喜びが、心のなかにふくらんでくるのを感じた。
11  翌日――。
 一城は、校舎の入り口のところにある階段に腰をおろして、冬の日差しを浴びていた。隣には、中村君がいる。
 放課後のひとときだった。二人は何も言わないで、ゆったりした時間のなかに身を委ねていた。
 やがて、中村君が静かに口を開いた。
 「……ぼくは、とてもたくさんのことを学んだ気がする」
 「……ずいぶん、いろんなことがあったものね」
 「うん――。一城にも……とても心配かけちゃったし……」
 「いいんだよ、そんなことは――。かえってぼくも、君からたくさんのことを教えられた気持ちさ」
 中村君が経験したことは、けっして彼一人だけのものじゃない。ぼくたちが、これから生きていくうえで、役に立つことが、たくさんある。中村君と友達で、本当によかった。
 ――それが、今の一城の実感であった。
 「……それにしても、すごかったね、あの決勝戦は――。一時は、もうだめかと思ったよ」
 「弱点を徹底してつかれたときには、ぼくも試合をなげてしまいたくなった。でも、そう思ってしまえば、自分に負けたことになるだろう?それじゃあ、応援してくれているみんなに申し訳ない」
 「…………」
 「ぼくは、この数カ月、懸命なトレーニングを続けることができた。だから、もう悔いはない。とにかく、自分のもっている力を全部ぶつけよう。それで負ければ、まだぼくの力が足りなかっただけのこと……。そう思ったら、気分がすっきりしてきてさ」
 「ふーん。最後は、どうりで落ち着いているように見えたもの」
 「何とか勝ちたいという気持ちより、けっして負けない、という心構えのほうが、大切だと思うんだ。優勝したからいうんじゃないけど」
 「じつはね。八重子おばさんも同じようなことをいっていたよ。自分の願いどおりにいかないことも、これからたくさんあるけど、そのときに、くじけたり、あきらめたりしないで、負けじ魂を発揮していく――それが、いちばん肝心なんだって」
 中村君は、その言葉を心でゆっくりと味わうように、うなずいている。
 「去年の夏休み……」
 中村君が、遠くを見るまなざしになった。
 「ぼくがまだ入院中のとき、君が見舞いにきて、八重子おばさんの話をしてくれた……。あのときぼくは、八重子おばさんの被爆体験を聞いて、何だか自分がすごく恥ずかしくなったんだ」
 「…………」
 「八重子おばさんの苦労に比べたら、ぼくの悩みなんか、とても取るに足りない。それどころか、かえってみんなを心配させている……。そう思うと、今までの自分が、情けなくなってきた……」
 「そうか――」
 「すると、それまでかかえていた悩みが、すーっと小さくなった。八重子おばさんのためにも、みんなのためにも、よし頑張ろうという気持ちがわいてきたんだ」
 「うん――」
 中村君は、一城のほうに体を向けると、言葉を続けた。
 「――それからね、ぼくは、きのう、八重子おばさんに手紙を書いたんだ。そのなかには、あの手帳のページもいっしょに入れた。だって、あれは八重子おばさんの大切な宝物だろ」
 「うん、でも君にくれたんだよ」
 「ううん、やっぱりあれは、八重子おばさんに返したほうがいいと思うんだ。ぼくはもう大丈夫です。八重子おばさんの体験と温かい真心で元気になりました。この宝物はいつまでもおばさんが持っていてください。ありがとうございました……って。まだ一度も八重子おばさんに会ったことはないけれど――」
 「…………」
 「《どんなことにも負けない強い心》が、ぼくにもありました……って」
 一城は、空を見上げた。
 原爆でひどい目にあいながらも、そこから立ち上がった八重子おばさんの体験は、けっして昔の物語ではない。今に生きるぼくたちにも、そしてこれからの世界にも、大切なことをたくさん教えてくれた。ぼくの〈ヒロシマへの旅〉は、じっさいに一人の友達を救ったのだ。おばさんの体験を忘れてしまってはいけない。
 「……それからね、ぼくは、こうも書いたんだ。“平和の心”っていうのは、自分から逃げないこと、苦しみを避けないこと、そして困っている人の味方になって励ますこと――みんながそうなれば、戦争なんて起きっこないもの」
 「本当に、そうだね――。“平和の心”……か」
 世界には、今も戦争をしている国がある。人類は相変わらずたくさんの原爆をかかえている。いつになったら、本当の平和はくるのだろう。
 これからのぼくたちこそ、戦争も原爆もない平和な世界を築いていかなくちゃならない。それには、もっと勉強して、うんと体を鍛えて、どんなことにもへこたれない、そして困っている人を助ける“平和の心”を強くしておくことが大事だ。
 一城は、しみじみとそう感じた。
 「……君から手紙をもらったら、八重子おばさんもすごく喜ぶと思うよ」
 中村君は、ニコリとほほえんで、一城にうなずいた。
12  「おーい!キャプテン!」
 クラスの仲間が、二人のところへ勢いよく駆け寄ってきた。みんなは息をはずませて、中村君に語りかけた。
 「おめでとう! 優勝だってね!」
 「学校中で評判だよ!」
 「“黄金の右腕”も、ついに復活だね!」
 中村君は、うれしそうにみんなの顔を見回している。
 「中村! 卓球ばかりじゃなくて、勉強も頑張らなくっちゃな」
 「もちろんさ! もうすぐ三年だし、今度のテストは君を追い抜こうかな……」
 みんなの笑い声が、日だまりのなかに広がった……。
 さわやかな気持ちで、一城は、そばにある梅の木の梢を見上げた。つぼみが、ふっくらとふくらみ始めている。一城は、春がやってきたことを全身で感じた。

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