Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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(二)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
6  有名な理論物理学者であるアインシュタインも、原爆の脅威を深く憂えた一人であった。彼は一九五五年(昭和三十年)に、数学者・哲学者である友人のラッセルとともに、平和声明を発表した。核兵器の廃絶と戦争の阻止を訴えたのである。アインシュタインが、この世を去る直前のことであった。今日、その声明は〈ラッセル=アインシュタイン宣言〉と呼ばれている。
 それを具体化するため、世界の科学者がカナダのパグウォッシュに集まり、一九五七年(昭和三十二年)に第一回の会議を開いた。これには、日本からも、ノーベル賞科学者の湯川秀樹や朝永振一郎らが参加した。以来、この会議は、毎年開かれている。最初の開催地にちなんで、パグウォッシュ会議といわれる。八重子おばさんたちを訪ねてきた科学者の一人は、このパグウォッシュ会議の事務局長を長年にわたって務めてきた人であった。
 科学者の多くは、自分たちがたいへんなものを作り出したことに気づいた。だが、それも後のまつりだった。原爆は、科学者たちの手を離れて、独り歩きを始めたのだ。
 熱中して原爆の開発に取り組んでいるときには、彼らは一人として、そんなことを考えもしなかった。ただひたすらに、異常なほどの熱意を研究に注いだ。政府の命令というより、彼らは燃えたぎる使命感で、原爆の開発に打ちこんだのである。
 ドイツと日本とイタリアの同盟国は、全世界に脅威を及ぼしていた。とくにナチスの暴虐は、欧米各国の恐怖の的となっていた。ナチスも原爆の研究に着手しているという。ヨーロッパとアメリカの科学者は、危機感に襲われた。自由と民主主義を守るため、彼らより先に原爆を作らなければならない。そうしないと、たいへんなことになる……。
 だが、政治家は消極的だった。夢のような話だったからである。本当に原爆なんて作れるのだろうか、と彼らの多くは考えていた。軍部は、もっと露骨にいやな顔をした。これは自分たちの実力に対する挑戦だ、と感じたからである。
 原爆の開発は、マンハッタン計画と呼ばれた。その計画を、もっとも強力に推進したのは、ほかならぬ彼ら科学者たちだった。
 彼らは、ほとんど不眠不休で働いた。技術の粋を集め、開拓者精神を発揮して、研究を進めた。そしてついに、驚異的に短い年月で、三発の原爆を作りあげた。
 一九四五年(昭和二十年)の七月十六日――。世界で最初の原爆が、ニューメキシコの砂漠にきのこ雲を噴きあげた。実験は成功した。そのとき、ドイツはすでに降伏していた。
 二発目の原爆は日本に運ばれ、八月六日、広島の上空で炸裂した。その一発で、二十万もの人々が犠牲になった。そして三発目は、八月九日に、長崎へ落とされた。ふたたび、十二万人の市民が、恐ろしい被害を受けた。
 放射能が人体にどれほど切実な影響を及ぼすか――。そのことを、科学者たちは、ほとんど気にとめていなかった。ましてや、被爆した人々が、その後何十年にもわたって後遺症に苦しむことになろうとは、想像だにしなかったにちがいない。
 科学者たちは、やっとこれでひと仕事すんだとばかりに、もとの大学や研究所へ戻っていった。そのかわり、今度は政治家や軍人が、原爆という新たな発明物にとびついた。原爆は、戦後の国際政治のかけひきに使われる格好の材料となってしまったのである。
 「原子爆弾を作りだしたのは、何よりも、科学者たちの純粋な熱意だったということ――ここのところが、とってもこわい、と思うのよ」
 光枝が、しみじみとした口調で言った。
 原子爆弾――。それはたしかに、人間の壮大な英知の結晶にちがいなかった。しかし同時に、それは人類全体の生存をも脅かす巨大な“怪物”であった。まことに人間の賢さと愚かさの極みが、奇妙におりまざったのがこの原子爆弾の出現である、といってよい。
 八重子おばさんと光枝の話を聞きながら、原子爆弾が人類と世界にもたらした深刻な意味を、一城はいやでも痛切に考えずにいられなかった。

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