Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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(二)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
1  人類史上初の原子爆弾の投下は、広島だった――。それは昭和二十年(一九四五年)の八月六日午前八時十五分である。広島の空に炸裂した、この一発の原子爆弾が、一瞬にして尊い何万もの命を奪ったことは、一城もよく知っていた。さらに、三日後の八月九日には、二発目の原子爆弾が長崎に投下されている。ここでもたくさんの犠牲者が出たことを、一城は学んでいた。
 小学生のときに、学校の先生が話してくれた原爆の悲劇は、一城の胸を深くうった。兵隊や男の人ばかりでなく、女の人や幼い子どもたちまでもが、そのために死んでいった。建物は倒れ、地上は真っ赤な炎に包まれた……。
 そうした光景を、八重子おばさんは、よく知っているはずだ。なのに、どうしてすぐに話してくれないのだろう。
 夏の一夜を、広島の地で過ごしながら、一城は、八重子おばさんの態度に、不思議なものを感じてならなかった。
 翌朝も、すばらしい快晴だった。青い空に入道雲がわいている。広島空港から飛び立つ機影が、ときおり上空をかすめる。
 八重子おばさんの家には、近所の人がよくやってくる。通りすがりの人も、気軽に声をかけていく。そのたびに、おばさんは、生き生きとはずむように応対するのだった。
 聞くところによると、八重子おばさんは、とても面倒みがいいらしい。だから、いろいろな人からさまざまな相談をもちこまれる。困ったことがあれば、みんながおばさんのところへ知恵を借りにくる。結婚の相手探しや、夫婦げんかの仲裁もあるということだった。
 八重子おばさんは、親身になって相手の話を聞く。「ふーん、そうよねぇ」「ほう、ほう」「やれ、それは困ったことじゃのう」……と、一心にうなずきながら、話す人の身になって聞いてあげる。相談にやってくる人は、ていねいに話を聞いてもらっただけで、何だか気分が晴れ晴れとするのだった。
 それだけではない。八重子おばさんは、ときどき相手のはっとするようなことを言う。そのひとことで、目からウロコが落ちることもしばしばだった。
 「そりゃあ、あんたのほうに努力が足らんのよ!」といった、厳しい指摘もめずらしくはない。けれど、そうした忠告も、八重子おばさんから言われると、相手はなぜか納得してしまう。話をゆっくり聞いてくれたうえでのひとことだから……かもしれなかった。
 「八重子おばさんは、何でも相談できる人だよ」
 そう語っていた父の言葉が、一城には、よく分かるような気がした。
 広島に来て、いちばん見たいのは、原爆ドームだった。原爆で被害を受けた当時の姿が、そのまま保存されている。一城も、写真で見たことがある。それを、自分の目でたしかめたかった。
 「ねぇ、おばさん。原爆ドームに連れてってよ――」
 「ああ、ええよ。連れてったげるけぇ。見せたいもんは、たんとあるんじゃ。だけど、原爆ドームは、ちょっとあと回し……」
 「あと回し? いちばん最初に行ってみたいんだけどな……」
 「ものには、順序があるんじゃ。あわてなさんな」
 八重子おばさんは、ニコニコしている。一城は、またもけげんに思った。
 昨晩も、そうだった。被爆の話をしてもらおうと思ったのに、あのときも「あわてなさんな」と八重子おばさんは言った。どういうことなんだろう。もったいぶっているようすはない。何か深い考えがあるのだろうか。一城には、おばさんの気持ちがよく分からなかった。
 八重子おばさんの家にも、キラキラとした真夏の太陽の光がいっぱい入ってきた。きょうも暑い一日が始まりそうである。
 「はじめに広島城へ行こうかねぇ」
 と八重子おばさんが言った。天守閣のてっぺんにのぼって、広島の街を一望しようというのである。
 一城も、それには賛成だった。広島にもお城があったのか、どういうお城なんだろう、楽しみだな――。一城は、胸がわくわくするのを覚えた。
2  広島城の跡は、今、中央公園になっている。建物は、天守閣しか残っていない。江戸時代には、浅野家の殿様が住んでいた。あの忠臣蔵で有名な赤穂(兵庫県)の浅野内匠頭は、ここの分家だそうだ。
 明治四年(一八七一年)、それまでの藩を廃止して県を設置したいわゆる廃藩置県が行われた。その時、建物はあらかた取り壊されてしまった。西国一とうたわれた城郭も、今では見る影もない。一城は、何だかもったいない気がした。
 天守閣は、五層づくりであった。各階に、いろいろな物が展示してある。さまざまな冑や刀もあった。戦陣で大将のそばに立てておく馬印もある。書画や古文書もある。郷土から出たナウマン象の化石もあった。天守閣の中は、何となく、博物館のように感じられた。
 一城と八重子おばさんは、展示された品をながめながら、だんだんと上へのぼっていった。階段が、けっこう急で、おばさんはちょっと息を切らせていた。
 天守閣のてっぺんは、展望台になっている。市内が、ぐるりと見わたせた。
 「そっちのほうに流れているのが太田川……」
 と言って、八重子おばさんは西のほうを指さした。この広島城の近くで、太田川は天満川と二つの流れになっていく。もう少し下流にいくと、今度は元安川という支流に分かれる。そこが原爆ドームのあたりである。
 市内には、たくさんの川が流れている。広島は、これらいくつもの川の三角州の上にできた町である。
 「おばさん、原爆ドームは、どっちの方向?」
 「あそこに、市民球場が見えるじゃろう。その向こう側じゃ。ここからは、よう見えんけどねぇ……」
 八重子おばさんは、「よっこらしょ」と展望台のベンチに腰をおろした。すずしい風が入ってくる。おばさんはハンカチを出して、ひたいの汗をぬぐった。
 「この天守閣はのう、新しく建てられたものなんじゃ……」
 「あれ? 昔のものじゃないんですか?」
 「ああ、昔の天守閣は、原爆で吹き飛んでしもうてねぇ……」
 おばさんは、寂しげに答えた。
 ここは、爆心地から一㌔もない。強烈な閃光と爆風は、天守閣を根こそぎにして、お濠端のかなたへ投げ飛ばした。歴史の風雪に耐えてきた建物は、一瞬のうちにバラバラに崩れ、瓦れきの山になってしまった。残ったのは石垣だけだった。今ある天守閣は、戦後の昭和三十三年(一九五八年)に建てられたものだった。以前と同じ形に復元したのである。
 「へえー、この大きな天守閣が、根こそぎに……」
 一城は、あらためて自分の立っている足もとをながめ回した。そして、原爆の落ちたという南西の方角へ目を向けた。
 高いビルが、たくさん並んでいる。ところどころに緑の木立が、豊かに茂っていた。四十一年前の夏、あの上空に白い光が一閃したのだ。いったい、どのような光景だったろう……と一城は、心のなかで想像してみた。
3  次の日、八重子おばさんは、一城を縮景園へ連れていってくれた。広島藩主の浅野長晟という人が、築造した庭園である。中国の西湖の絶景を縮めて模したところから、この名があるという。
 庭園の中央に、大きな池があった。大小十あまりの島が浮かんでいる。変わった形の石橋が、かかっていた。まん中の部分だけが、太鼓橋状にぷくりとふくらんでいる。
 二人は庭園の小道を歩いた。茶室や小亭が、ところどころに置かれている。一城たちと同じように、散歩している人の姿が、木陰にちらほらと見えた。
 庭園を一周して、ふたたび入り口の近くへ戻ってきたとき、八重子おばさんは強い日差しを木の葉の下にさけて、たちどまった。
 「一城ちゃん、あそこの看板を見てみんさい……」
 近づいてみると、一葉の写真だった。大きく引き伸ばされている。
 縮景園の風景だった。すっかり荒れ果てていた。樹木は葉が落ちて、丸坊主になっていた。枝は無残に折れて、たれさがっていた。池にかかったあの石の橋が、焼けこげたように黒ずんでいた。台風と火事に、いっぺんに襲われたような格好だった。
 説明書きがあった。昭和二十年(一九四五年)十月の撮影とある。原子爆弾による惨状だった。米軍の資料に含まれていた写真であるという。
 見て回ったばかりの美しい庭園……。それが、こんな姿になってしまったのか……。
 原爆で、大きな樹や名木のすべては枯れてしまった。清風館や明月亭といった由緒ある建物は、すべて焼け落ちた。見るかげもないありさまだった。
 一城は、写真をじっと見つめた。広島の街並みからは、もはやあの原爆の傷あとをうかがい知ることはできない。大きくて立派なビル、あふれるクルマ、はなやかな服装の人たち……。
 だが、その背後には、あの日の悲惨な一瞬が、いたるところに刻まれているのだ。四十年以上の長い時間を経ても、なお……。
 縮景園をあとにしながら、一城の胸には、いろいろな思いが渦巻いていた。太陽は、アスファルトの歩道を、じりじりと焼いている。広島の夏は暑い。その暑さのなかで炸裂した一発の原子爆弾……。
4  道ばたに、美しい紅色の花が咲いている。背丈ほどの潅木だ。枝の先端に、今を盛りと咲き誇る花びらが、そっと彩りをそえている。紅色ばかりでなく、純白の花もあった。
 そういえば、この花は、市内のあちこちでよく見かけた。
 「おばさん! この花は何ていうの?」
 八重子おばさんは、黙って歩き続けている。聞こえなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。おばさんは、しばらくしてから口を開いた。
 「夾竹桃……っていうんよ……。この花はあんまり見とうない……」
 美しい花である。八重子おばさんは、どうしてそんなことを言うのだろうか。一城は、首をかしげた。
 「夾竹桃……広島にはねぇ、この花はどこへ行っても多いんよ。あの日も……道ばたには、夾竹桃の花がいっぱい咲き乱れていてのう……」
 八重子おばさんは、顔をあげて、遠くの白い雲をながめた。
 完全に破壊され、見る影もなく焼きつくされた広島の町――。何十年にもわたって、広島の大地には草もはえないだろう、と言われた。ところが、どうだろう。瓦れきの陰から、しばらくたつと雑草の青い芽が顔を出し始めた。夾竹桃も、翌年には鮮やかな花を咲かせた。
 荒廃した大地によみがえった生命の息吹は、みずみずしく、可憐であればあるほど、地上の悲惨を浮き彫りにした。そして、人々の悲しみをつのらせた。
 毎年、夏が訪れると、夾竹桃の花が必ず咲き始める。いく千、いく万の死者を、そっと包みなぐさめるように……。
 そのたびに、八重子おばさんは心のなかに、あの言葉に言いつくせぬ地獄の光景が、いやおうなく浮かびあがってくるのである。夾竹桃の花は見たくない、と言ったのも、そのためであった。
 何ということだろう、と一城は思った。何と悲しい思い出であることだろう……。何と残酷な体験であったことだろう……。
 崩れた建物なら、また修復することもできる。しかし、心に焼きついた悲惨な思い出は、時の流れをもってしてもいやすことはできない。かえって、時とともに、その鮮烈な印象は強まるばかりだ。
 自分がこれまで見聞きしてきた以上に、原爆の悲劇は深く大きい――。一城は、そう思い始めた。
 その日の夜、一城は、タンスの上に一葉の写真が飾られているのに気づいた。小さな額に入っている。何人かの婦人といっしょに、八重子おばさんが並んでいた。
 背景には、大きなビルが写っていた。見覚えのある有名な建物だ。一城はやがて、それが国際連合の本部ビルであることを思い出した。ニューヨークのマンハッタン、イースト川ぞいにある。たしか、教科書にも写真がのっていた。
 「へえー! すごいな、おばさん。ニューヨークに行ったこと、あるんですか?」
 「四年前にのう」
 「うしろに見えるの、国連本部ビルでしょう……」
 「よう知っとるねぇ」
 「観光旅行ですか?」
 「そうじゃないんよ。国連別総会へ、このおばさんが行かしてもろうたんよ」
 「えっ!軍縮……総会……ですって!」
 「そう、一城君。お母さんと、私、国連本部に行ってきたのよ。驚いた?」
 「ほんとですか? どうして?」
 「広島の被爆者の代表として――」
 「わあー! そのときの話、聞かせてください!」
5  昭和五十七年(一九八二年)のことだった。
 全世界の人に核兵器の恐ろしさを訴えたい――そうした八重子おばさんや光枝の願いは、思わぬことから実現することになった。第二回国連別総会を機に、国連本部総会議場の一般ロビーで「核の脅威」展を開催できる運びになったのである。
 この展示は、広島・長崎の若者が中心になって企画したものだった。若者たちのなかには、被爆二世が多かった。父や母が原爆の被害にあった人たちである。自分は戦後の生まれで、原爆には何の関係もないのに、なお後遺症で苦しむ子どもたちもいた。
 若い彼らが汗を流して作りあげた展示は、徐々に大きな反響を広げていった。そしてついに、海を渡ってアメリカの、しかも国連本部で、「核の脅威」展を開くことができるようになったのである。
 光枝は、こうした運動に、一生懸命に頑張ってきた一人であった。国連での展示の準備や、関連して行われるいろいろな催しに出席するため、光枝はアメリカへ渡った。八重子おばさんも、広島・長崎の被爆者の代表として、一行に加わることになった。
 こうして八重子おばさんと光枝の母子は、二人そろってニューヨークへおもむくことになったのである。
 「おばさん、向こうで被爆体験を話したんですか?」
 「市民の人たちのいろんな集まりでね、やらせてもろうたんよ。みんな目を丸うして、聞いとったねぇ……」
 アメリカの人たちにとっては、初めて聞く衝撃的な話であったようだ。被爆者の一人ひとりが語るたびに、聴衆のなかには青い目に涙をいっぱいにためる人がたくさんいた。話が終わると、会場はいつも大きな拍手に包まれた。
 「それにしても、びっくりしたのはね、核兵器がどんなにこわいものか……それを、向こうの人は、あんまり知らないのよ! 一城君」
 原爆といったって、単なる大きな爆弾だとか、穴を掘って入っていれば大丈夫と信じこんでいる人が、意外に多かった。そのことを知って、八重子おばさんと光枝は、本当に驚いたのだ。
 そうした人に、原爆のこわさを語って聞かせると、「オー! ノー! ノー!」と、驚きの表情を見せるのだった。
 「アメリカっていうと、“自由の国”で、原爆のこわさも国民みんなに広く知られていると思ったのに……」
 光枝が、まゆをひそめた。
 「だから、私らの役目が大事になってくるんよ。アメリカの人たちの一人ひとりに、そして世界の人たちに、原爆の本当のこわさを訴えていかなくてはのう……。それが、残された私らの使命なんよ」
 八重子おばさんはそう言うと、一城の顔をじっと見つめた。
 「核の脅威」展は大成功を収めた。国連総会に参加した世界各国の代表をはじめ、アメリカの市民も大勢つめかけた。母親も、子どもたちも、原爆の恐ろしさを伝える展示に見入っていた。
 そこには、広島・長崎の被爆市街地の全景写真……原爆ドームの模型……熱線を受けてボロボロになったズボン……閃光にさらされて表面がブツブツと沸騰してしまった瓦……等、そのときの凄惨さを物語る展示物があった。
 また、ニューヨークをはじめ、モスクワ、パリ、東京などの上空で一メガトンの核が爆発した場合の被災想定図も掲げた。一メガトンとは、TNTと呼ばれる高性能爆薬百万㌧の威力に相当する核爆弾のことである。
 広島型の原爆はTNT火薬に換算して一万二千五百㌧、長崎型は二万二千㌧にあたる、とされている。それに比べたら、今日の一メガトンの核爆弾が、どれほどすさまじい破壊力を秘めていることか。それは広島型の八十倍、長崎型の四十五倍もの威力があるのだ。
 それなのに、戦後のアメリカとソ連は、核兵器を競争して作ってきた。今のこの世界には、総計二万Mtもの核が保有されているといわれている。人類全体を何百回も殺すことのできる量である。
 「ねえ、一城君! どう考えたって、おかしいと思わない? 広島や長崎の悲劇が、まるで生かされていないじゃない!」
 その通りだ、と一城は思った。戦後の人類は、いったい何をやってきたんだろう、いったい何をしようというのだろう……。
 そのことに、展示を見たアメリカ人も、心から気づいたようだった。展示の運営にたずさわった光枝は、努力したかいがあった、としみじみ感じた。
 八重子おばさんの印象に深く残っているのは、三人の学者との出会いであった。三人は、八重子おばさんたちの宿舎であるルーズベルトホテルまでやってきた。ぜひ、被爆者の方々にお会いしたい、というのである。そのうちの一人は、なんと“原爆の開発”にたずさわった科学者グループの一員であった。
 それは、不思議な巡り合わせである。原爆を作った人たちと、その原爆で地獄の苦しみをあじわった人たち……。何千㌔という距離を越え、何十年という時間を越えて、両者が顔を合わせたのである。
 八重子おばさんの胸には、複雑な思いが渦を巻いた。単なる驚きではない。怒りでもない。現代におけるもっとも恐るべき兵器――原爆によって、結びつけられた人と人との奇妙な出会いであった。
 八重子おばさんたちは、かわるがわるみずからの体験を語った。三人は、身じろぎもせず、真剣に耳を傾けていた。そのうち、原爆開発の科学者が、うっすらと目に涙を浮かべているのに、八重子おばさんは気がついた。
 みんなの話が一段落すると、その英知の科学者は静かに口を開いた。
 「時代がどんなに変わっても、核の悲劇は二度と繰り返してはなりません。今では私も、心の底からそう思っています……」
 彼は戦後、自分たちの作った原爆がいかに恐ろしい悲惨を招いたかを知り、慄然としたのだった。彼はそれから、平和運動にたずさわるようになる。
6  有名な理論物理学者であるアインシュタインも、原爆の脅威を深く憂えた一人であった。彼は一九五五年(昭和三十年)に、数学者・哲学者である友人のラッセルとともに、平和声明を発表した。核兵器の廃絶と戦争の阻止を訴えたのである。アインシュタインが、この世を去る直前のことであった。今日、その声明は〈ラッセル=アインシュタイン宣言〉と呼ばれている。
 それを具体化するため、世界の科学者がカナダのパグウォッシュに集まり、一九五七年(昭和三十二年)に第一回の会議を開いた。これには、日本からも、ノーベル賞科学者の湯川秀樹や朝永振一郎らが参加した。以来、この会議は、毎年開かれている。最初の開催地にちなんで、パグウォッシュ会議といわれる。八重子おばさんたちを訪ねてきた科学者の一人は、このパグウォッシュ会議の事務局長を長年にわたって務めてきた人であった。
 科学者の多くは、自分たちがたいへんなものを作り出したことに気づいた。だが、それも後のまつりだった。原爆は、科学者たちの手を離れて、独り歩きを始めたのだ。
 熱中して原爆の開発に取り組んでいるときには、彼らは一人として、そんなことを考えもしなかった。ただひたすらに、異常なほどの熱意を研究に注いだ。政府の命令というより、彼らは燃えたぎる使命感で、原爆の開発に打ちこんだのである。
 ドイツと日本とイタリアの同盟国は、全世界に脅威を及ぼしていた。とくにナチスの暴虐は、欧米各国の恐怖の的となっていた。ナチスも原爆の研究に着手しているという。ヨーロッパとアメリカの科学者は、危機感に襲われた。自由と民主主義を守るため、彼らより先に原爆を作らなければならない。そうしないと、たいへんなことになる……。
 だが、政治家は消極的だった。夢のような話だったからである。本当に原爆なんて作れるのだろうか、と彼らの多くは考えていた。軍部は、もっと露骨にいやな顔をした。これは自分たちの実力に対する挑戦だ、と感じたからである。
 原爆の開発は、マンハッタン計画と呼ばれた。その計画を、もっとも強力に推進したのは、ほかならぬ彼ら科学者たちだった。
 彼らは、ほとんど不眠不休で働いた。技術の粋を集め、開拓者精神を発揮して、研究を進めた。そしてついに、驚異的に短い年月で、三発の原爆を作りあげた。
 一九四五年(昭和二十年)の七月十六日――。世界で最初の原爆が、ニューメキシコの砂漠にきのこ雲を噴きあげた。実験は成功した。そのとき、ドイツはすでに降伏していた。
 二発目の原爆は日本に運ばれ、八月六日、広島の上空で炸裂した。その一発で、二十万もの人々が犠牲になった。そして三発目は、八月九日に、長崎へ落とされた。ふたたび、十二万人の市民が、恐ろしい被害を受けた。
 放射能が人体にどれほど切実な影響を及ぼすか――。そのことを、科学者たちは、ほとんど気にとめていなかった。ましてや、被爆した人々が、その後何十年にもわたって後遺症に苦しむことになろうとは、想像だにしなかったにちがいない。
 科学者たちは、やっとこれでひと仕事すんだとばかりに、もとの大学や研究所へ戻っていった。そのかわり、今度は政治家や軍人が、原爆という新たな発明物にとびついた。原爆は、戦後の国際政治のかけひきに使われる格好の材料となってしまったのである。
 「原子爆弾を作りだしたのは、何よりも、科学者たちの純粋な熱意だったということ――ここのところが、とってもこわい、と思うのよ」
 光枝が、しみじみとした口調で言った。
 原子爆弾――。それはたしかに、人間の壮大な英知の結晶にちがいなかった。しかし同時に、それは人類全体の生存をも脅かす巨大な“怪物”であった。まことに人間の賢さと愚かさの極みが、奇妙におりまざったのがこの原子爆弾の出現である、といってよい。
 八重子おばさんと光枝の話を聞きながら、原子爆弾が人類と世界にもたらした深刻な意味を、一城はいやでも痛切に考えずにいられなかった。

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