Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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(一)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
1  八月の熱い太陽をいっぱいにうけて、新幹線は、中国地方の田園を全速力で走っていた。美しい景色が、飛ぶように流れていく。
 広島県の福山駅を過ぎてから、トンネルが多くなった。山腹を貫通して、線路はどこまでもまっすぐに延びている。
 トンネルの暗がりを抜けて、夏の輝く日差しのもとへ躍り出たかと思うと、すぐにまた、列車は闇へと突入した。トンネルの中を走っているときのほうが長いようだ、と一城は思った。
 つかの間の地上の光と緑が、車窓に現れたかと思うと、すぐ消えていく。この中国方面の山々は、何となく柔らかく、「平和」を象徴するような緑とふくらみをもっていた。その山間の平地には、家々がかたまって点在している。
 新幹線が東京駅を発ったのは、十一時ちょうどであった。新大阪駅も過ぎ、岡山駅も過ぎ、もう四時間半近く、一城は列車に揺られている。広島駅着は十五時五十七分の予定である。彼は、腕時計を見た。
 八重子おばさんは、迎えに来てくれているだろうか、うまく会えるだろうか……一城は心配だった。彼は、この夏休みを、広島のおばさんのもとで、楽しく過ごすことになっていた。
 新幹線に乗って、これほど長い旅をするのは、初めてである。名古屋、京都、大阪、岡山……と次々に移りかわる都市の風景も、一城の心を広げていった。
 雄大な富士の姿も、印象深く残っている。
 しかし、一城の胸の中は、どんよりとした雲がおおっているようで、何となくはずまなかった。美しい変化に富んだ景色も、たしかにうれしかった。だが、重い心はどうしようもない。
2  一城の心には、あの日の出来事がよみがえってきて、どうしても忘れることができないのである。
 一城には、中村君という仲の良い友達がいる。中村君は体つきは細かったが、卓球がとても上手であった。
 地区大会には、必ず学校の代表として出場した。ふんわりと流れてくる中村君のマジック・サービスを、まともに返球できる相手は、なかなかいない。急角度に落ちてコーナーを襲うスマッシュも、抜群の腕前である。試合では、いつも一、二位を争った。そんな中村君に、みんなは、“黄金の右腕”と拍手を送ったりしていた。
 ところが、その中村君が二カ月ほど前から急に調子をくずし始めたのである。今まで楽に勝っていた相手にも、意外な苦戦をしいられるようになった。練習のときも、以前と違ってどことなくうわついて力が入らないのが目立った。
 いったい、どうしたんだろう。何か心配事でもあるのだろうか。中村君の姿を見るたびに、一城はけげんな思いにとらわれた。
 ある日、一城は、中村君の家へ遊びに行ってみることにした。中村君の一家は、とても大きな家に住んでいる。モダンな玄関のドア、吹き抜けの明るいホール、そしてじゅうたんの敷きつめられた広い勉強部屋……。
 中村君に兄弟はいなかった。一人っ子である。だから中村君は、両親の愛情に包まれ、大事に育てられた。欲しい物があれば、すぐに買ってくれる。うらやましいほど、何一つ不自由のない生活であった。
 閑静な住宅街の四つ角を曲がって、中村君の家の前にやってきた一城は、そこに一枚の紙がはられていることに気がついた。引っ越したという通知である。転居先の住所は、隣町になっている。
 門の鉄さくの間から、一城は母屋のほうをのぞいた。窓という窓は、板でクギづけされている。ひっそりと静まりかえった中村君の家をあとに、一城は転居先へ行ってみることにした。
 住所をたよりに見つけた家は、古びたアパートだった。あんな立派な家から、どうしてこんな所へ移ったんだろう、と一城は思った。中村君と顔を合わせるのが、何だか悪いような気がして、一城はそのまま引き返してしまった。
 中村君のお父さんの経営している会社が倒産して、大変な事態になっていることを知ったのは、そのあとのことである。借金の返済のために、あの大きくて立派な家も、手放さねばならなくなった。今では、毎日の生活にも困るほどのようすである。
 中村君にしてみれば、とてもショックであったにちがいない。あんなにゆたかな暮らしから、こんなアパート住まいになってしまったのだから……。
 それでも、今にして思えば、あの時期、中村君は必死になって自分の気持ちを立て直そうとしていたのだろう。だが、その緊張の糸も、あの日の出来事でぷっつりと切れてしまったのである。
 あの日の朝――。一城は、トーストとハムエッグを食べていた。かたわらでは、お父さんが朝刊を開いている。
 そのとき突然、お父さんが声をあげて、新聞を目に近づけた。
 「あれ! これは、中村君のお父さんのことじゃないかな――」
 一城はあわてて、新聞をのぞきこんだ。会社の倒産で、たくさんの人が被害を受けている、という内容であった。その記事には、顔写真がついていた。まちがいなく、中村君の父親である。
 中村君の父親は、会社の経営を立て直そうと、いろいろな人から借金をしていた。貸した人たちは、お金が戻ってこなくなり、とても困っているという。
 被害者の一人が、談話を寄せていた。どこかで、聞いたような名前である。やがて一城は、それが学校の父母会の会長であることに気がついた。中村君の友達の親からも、お金を借りていたらしい。
 この新聞記事は、またたくまに学校中に広まった。中村君が通りかかると、みんなは振り返って、ひそひそ話をする。なかには、「おい! お前の父さん、借金を返さないんだってな!」と言う生徒もいた。
 中村君の胸中はどんなにか苦しいことだろう。生活が大変になったばかりではない。学校でも、みんなから白い目で見られるようになってしまった。
 中村君自身には、何の責任もない。それなのに、どうしてこんな目にあわなければならないのか……。あの快活な中村君の胸は、きっと張りさける思いで、いっぱいだったにちがいない。
 翌朝のことである。一城は郵便受けに、一通の封筒を見つけた。中村君からであった。
 切手は、はられていない。昨夜のうちに、そっと自分で入れていったのであろう。
 急いで、封を切った。薄いブルーの便箋に、たった一行……。
  ぼくには重すぎる。もう耐えられない。
 登校した一城を待ち受けていたのは、中村君の自殺未遂の知らせだった。
 深夜一時ごろ、中村君は、近くの五階建てのマンションから身を投げたのである。たまたま下には、こんもりと茂った樹木があった。そのため、一命はとりとめたというのである。
 マンションの住人の一人が、バリバリ……ザワザワ……と枝の折れる音を聞き、何かが地面にドスン……と落ちる響きを感じたのは、これから寝床に入ろうとしたときだった。不審に思い、ベランダから夜のとばりをすかして見ると、少年が幹のそばにぐったりと倒れている。そこで、すぐに救急車が呼ばれたのだった。
 中村君は、ショックで意識を失っていたという。右腕と肋骨を二本、それに右の足首を骨折していた。枝にひっかかってできたらしいスリ傷が、体のあちこちにある。だが、命には別状なかった。
 一城は、クラスメートと一緒に、中村君の病院へ見舞いに行った。
 右の足首はギプスで固められていた。右腕の包帯も痛々しい姿であった。
 「中村君、体の具合はどうだい?みんな、心配しているよ」
 一城は、努めて明るく話しかけた。
 「あんまり、驚かすなよ」
 「中村君、あんまり心配かけないでよ」
 「早く元気になってね」
 「夏休み中には退院できる、って病院の先生も言ってたよ」と、みんなも口々に呼びかけた。
 中村君は、クラスメートのほうを向いて、弱々しい笑みを浮かべた。けれども、なぜか口はつぐんだままである。
 みんなは、学校のこと、勉強のことなどを、いろいろしゃべった。しかし中村君は、ついに最後までひとことも口を開かなかった……。
3  新幹線は、トンネルの中を轟音とともに走っている。窓ガラスに、自分の顔がぼんやりと映っていた。闇のなかへ目をこらすたび、一城には、あのときの中村君の顔が思い出されてならないのである。
 青白いほお……光を失ったひとみ……固く結ばれたくちびる……。
 どんな励ましの言葉も、どんななぐさめも、中村君の心を素通りしていくようであった。
 命は助かったというものの、中村君を取りまく厳しい状況は、いっこうに変わっていない。一家の生活に、好転のきざしはないようだ。中村君の入院費も、大変にちがいない。家計を支えるため、中村君のお母さんは働き始めたという。
 そればかりではない。医者から一城は、こんなことも聞いていた。右腕が治っても、以前のようにはラケットを握れないだろうというのである。あの“黄金の右腕”は、よみがえらないかもしれない。
 そのことを、中村君も、うすうす知っているようであった。見舞いに行った日、卓球の話をもち出しても、力なく視線を落とすばかりだった中村君の寂しげな顔……。
4  「まもなく……広島に到着です。お疲れさまでした。手荷物、網だなの荷物は、お忘れにならないよう……」
 車内アナウンスが響いた。あちらこちらで乗客が立ち上がって、身じたくを始めている。
 新幹線は、広島の市街へ入った。だんだんとスピードをゆるめていく。
 右手に山並みが迫っている。この広島は三方を山で囲まれた都市である。車内から、海は見えなかった。大小のビルが立ち並んでいて、視界をさえぎっている。
 あと五分たらずで広島駅にすべりこむ。ホームには、八重子おばさんが出迎えに来ているはずだ。
 広島行きをすすめたのは、一城のお父さんであった。親友の自殺未遂に、一城はかなりのショックを受けている。それを気づかっての提案にちがいなかった。
 八重子おばさんは、お父さんの姉にあたる。夏休みの一週間をそこで過ごすのも、気分転換にいいだろう、との配慮からであった。
 旅の手続きは全部自分でやってみろ、とお父さんは言った。一城は、時刻表を調べたり、切符を前もって買いに行ったりした。前の日には、実際に東京駅へ一人で行って、入場券でホームに入り、何番線から新幹線が発車するのかをたしかめもした。当日、迷わないためである。
5  八重子おばさんが被爆者であることは、一城も知っている。四十一年前の夏、広島の街に原子爆弾が落とされたとき、八重子おばさんは、爆心地から一㌔半ほどの所にいたそうだ。それはそれは大変な思いをしたらしい。戦後も、ずいぶん苦労したようである。
 「おばさんの話を、よく聞いてくるんだよ。きっと思い出に残る夏休みになるから」
 家をあとにする日の朝、お父さんはこう言った。一城は八重子おばさんに会ったら、さっそく被爆体験を聞いてみるつもりだった。
 列車は、ホームにゆっくりと停車した。人の波が、出口のほうへと流れていく。一城は網だなからボストンバッグをおろすと、人の列に続いた。
 ホームは帰省客や、子どもづれの家族などでごった返していた。八重子おばさんは、どこにいるのだろう。七号車のうしろの出口の付近で待ち合わせの約束である。一城は、柱のかげに人の流れをさけながら、あたりを見回した。
 そのとき、一城はポンと肩をたたかれた。
 「一城ちゃん……だね!」
 うしろからのぞきこむようにして、八重子おばさんが立っていた。ニコニコと目を細めて笑っている。
 「まあ! しばらく見んうちに、だいぶ大きうなったねぇ――」
 「こんにちは! 八重子おばさん」
 「ひとりで、よく来れたのう」
 「新幹線で、まっすぐですから……」
 「一城ちゃんも、もう中学生じゃけんね」
 八重子おばさんは小柄だった。上背は、一城のほうがちょっとある。丸々とした体つきで、くりくりした目が、とても優しい。全体に、はずむような活発な明るさがあふれている。
 「お父さんからはね、いろいろ話を聞いとるけぇ、まあ、ゆっくりしていきんさい」
 「よろしく、お願いします!」
 一城は、ぺこりと頭を下げた。
 駅前から、二人はバスに乗った。街並みは夏の日差しをいっぱいに浴びて、むせかえるようである。
 立派なビルが、たくさん立っていた。道行く人たちの服装は、色とりどりで鮮やかだった。
 一発の原子爆弾は、広島を焼け野原と化した。しかし、その面影は、もはや少しも感じられない。東京の繁華街かと見間違うほどだ。四十年の歳月は、原爆の傷あとを、すべて洗い流してしまったのだろうか。バスの窓からながめながら、一城はそんなことを考えた。
 南観音町という停留所で、二人はバスを降りた。この先には、広島空港があるという。八重子おばさんの家は、静かな住宅街の中にあった。
 おばさんには、光枝という娘がいる。二人暮らしだ。おじさんは、ずっと前に何かの病気で亡くなったということを、一城は聞いていた。
6  冷えたサイダーをコップに注いで、八重子おばさんがすすめてくれた。
 「もうじき、光枝が勤めから帰ってくるから……。そしたら、晩ご飯にするからね。きょうは、ごちそうだよ」
 そう言いながら、八重子おばさんは楽しそうに台所へと立った。
 光枝が帰宅したのは、六時を少し回ったころだった。外は、まだ明るい。
 「一城君、いらっしゃい! よく来たわね」
 「こんにちは――」
 「久しぶりね。元気?」
 「ええ……まあ……」
 「何年生になったの?」
 「中学二年になりました」
 「どう? 学校生活は楽しい?」
 「はあ……何とか……」
 「あまり元気がないわね。長旅で疲れちゃった? 若いんだから、も少し、シャキッとしなくちゃだめよ」
 笑顔をいっぱいに浮かべて、光枝は語りかけてくる。はつらつとしている。その明るさに、一城は何となく圧倒される気分だった。
 二人のやりとりをニコニコしながらながめていた八重子おばさんが、声をかけた。
 「さあ! ご飯ができたけぇ。みんな、はよ、来んさい!」
 テーブルの上に並べられたたくさんのおかずをつつきながら、一城は八重子おばさんに聞いてみた。
 「おばさん、原爆が落ちたとき、広島にいたんでしょ。そのときのようすを聞かせてくれませんか」
 八重子おばさんは、ハシの手を休めて、一城の顔を見つめた。
 「……そのうちにな。時間は、たっぷりあるけん、まあ、あわてなさんな」
 聞けば、すぐに話してくれるものと、思っていた。だが、そうした一城の期待は、少しあてがはずれた。

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