Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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(二)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
1  次にシェニエがルネと会ったときも、よく晴れた日であった。
 川から水を引いて堰いた、ささやかな池がある。ルネは、そのほとりに画架を据えて、写生に熱中していた。ふと人の気配を感じて振り向くと、シェニエが笑顔で立っていた。
 夏に間もないビエーブルの谷の若葉は、日に日に濃くなっている。あれから僅かな日数のうちに変わりゆく緑のさまに感嘆しながら、そよ風に吹かれて歩いていたシェニエが、遠くにルネの姿を見つけたのであった。
 何のためにしつらえたのか、ちょっとした木柵が岸辺に埋め込まれてあり、シェニエはそこに腰を掛けることができた。
 思いがけなく、水面に、見なれない褐色の動物が顔を出すことがあった。
 「ああ、あれを見てください。ビエーブルの地名は、あの動物に由来しているのですよ」
 ルネがちょっと説明した。
 ビエーブルとは、この辺りの川水に棲息していたビーバーを意味するガリア語からきている。ビーバーは、澄んだ水泡を掻き立てながら、気持ちよさそうに遊んでいる。それを珍しげにシェニエが眺めていると、ルネがデッサンの手をとめて、近づいてきた。
 「どうです、シェニエさん、ここの美しさがすっかり気にいったでしょう。きっと、詩の材料もたくさん見つかったのではないですか?」
 シェニエは、とっさには答えられずに、ただうなずいて見せた。
2  ヴェルサイユに身を隠してから、ひと月が過ぎようとしていた。彼は、時には詩材を求めてヴェルサイユとその近辺を歩くことはあったが、心は少しも休まる暇はなかった。この頃、一七九三年の四月から六月にかけて、ジャコバン派などの山岳党とジロンド党の対決は、頂点に達しようとしていた。ジロンド党が、山岳党の“人民の友”と呼ばれる重鎮マラーを告発し、革命裁判所に送ったものの、マラーは無罪放免となる。これに対して、山岳党は、ジロンド派二十二人のリストを提出して、議会(国民公会)からの追放を要求した。五月に入ると、ジロンド派はデモによる示威行動に出たのに次いで、過激派ジャーナリストのエベールをはじめとする山岳派のパリ・コミューヌの役人達を逮捕するという弾圧を強行した。
 この事件は、かえって山岳党を刺激して、いわゆる恐怖政治への道を決定的に開く直接の引き金となってしまう。国民衛兵軍が決起して国民公会を十重二十重に包囲し、ジロンド派議員の多数が、逮捕されるか、あるいは難を逃れた者は地方に落ちのびた。山岳党独裁が樹立されたのは、五月末から六月初頭にかけてのことであった。
 事態は、急速に、恐怖政治の奈落へとなだれ込もうとしていた。
 シェニエは、かねてから憂慮し、鋭く糾弾してきたことが、現実になりつつあることに戦慄し、悲憤した。だが、自分自身もまた、革命裁判所の追放者リストに名を連ねている身であった。危険は、じわじわと彼の身に迫っていた。
 そんな自分を慰め、勇気づけてくれるものといえば、唯一、詩作に鵞ペンを走らせるときであった。そのためにインスピレーションを求めて、ヴェルサイユの街の、とくに人目につきそうにない裏小路や郊外の森のあいだをさすらうことを日々の勤めとした。時には、大好きな、少年時代から慣れ親しんできたギリシャ古典詩の研究に取り組むこともあったが、何もかも忘れてそれに没頭する心のゆとりはできなかった。学問好きの彼には、この最も学問を吸収できる青年時代において、それが何より辛く悲しいことであった。
 シェニエは、真実の革命の理想を欺き、祖国を害する政治的罪悪の跳梁を、絶対に許せなかった。とりわけ、革命裁判という虚偽の法廷が、多くの人々を無実の柩へと押しこめていくであろうことは、目に見えていた。だが、もはや自分一人の力では、いかにしてもこれを押しとどめることはできない。
 シェニエが時に、言い知れぬ倦怠と絶望に心を掻き乱されるのは、そのような理由からであった。明るい春の景色が、とつぜん、黒い喪の色に覆われて見えることがあった。
 やがてビエーブルの谷間に足を踏み入れて以来、シェニエは、このフランスの大地らしい美しさに輝く渓谷を、自分の永遠の安息の場所にしてもいいという思いが募っていた。ビエーブルの自然を、詩材としてではなく、自分の墓標の地として考えるようになっていた。
 だからこそ、ルネの問いを、シェニエは無言で受けとめたのである。
3  二人のまわりには、レンゲ草がじゅうたんのように広がっている。その真ん中にルネが腰をおろして、言った。
 「こうして自然をじっと見つめていると、自分の心の中に、言い知れぬ感動が生まれてきます。そのままの感動を失わないように、大切に心に刻みつけ、カンバスに向かうようにしているのですが……」
 ようやく、シェニエが口を開いた。
 「それは、この目に見える自然をうつしているようでいて、その背後に、目に見えない、広々とした深遠なものをうつしとることなのさ。詩も、それは同じことだ。それが芸術というものなんだ」
 すると、ルネは若々しい瞳を一層明るく輝かせて言うのだった。
 「僕は、ときどき不思議な思いに駆られることがあるのです。こんなに晴れたおだやかな日、こうして自然の中に身を置いて、絵筆も何も投げだして、草原に仰向き、目を閉じると、なんだか自分が自然の一部分になったように思えてくるのです。そして、外界のとてつもない広がりが身にひしひしと迫ってきます。この豊かな空気や光や青い空が、胸の中をいっぱいにふくれ上がらせ、まるで血管のすみずみにまで染み透ってくるように感ずるのです。ふと思います。人間の魂というものは、自然の精ともいうようなものと通い合っているのではないだろうか、と」
 ルネは、間違いなく芸術の入り口に立っていた。
 そんなルネの若々しい魂の閃きが、シェニエには一層いとおしく思えるのであった。
 「無限への憧れ。悠久なるものへと向かう感情。これこそが、あらゆる芸術と、人生の源泉なのだよ。それを求めてやまぬ君の若々しく光るエネルギーが、芸術や現実の生活の創造を成し遂げるエネルギーとなるのだよ」
 シェニエがそう言うと、ルネは、なおも自分の思いを言葉にしようと努めた。
 「なにか、自然の一つ一つの奥に、目に見えず、それでいてあらゆるものを存在させ、運動させている大きなものがあるような、そして自分もその小さな一部であるような思い。この空をもしのぐ大きな一つの生命の、小さな表れであるような、ほら、あそこに見える楡や、橡や、薊や、楓といった木や花の生命感に心をときめかすとき、自分もまたそれらと同じ一部であるような……。そんなことをつくづくと考えると、大きな一つの生命と同じようなものが自分の中にもあるのではないか、と、ふと思うことがあります」
 「そうなのだよ。自然の中の永遠のリズムに静かに耳を傾けていると、自分の体の中にも同じような永遠のリズムがあるように思えることがあるものだ。君の実感は、決して間違ってはいない」
 シェニエは、傍らの草を分けて少し踏み込んでから、ルネから遠くないところに座った。
 「そのうえ、このさまざまな植物や、空や、川の流れやらが雑然と配置され、思い思いに動いていく。それなのにその全体がみごとな生命の歓びをうたっている。そうすると、それらの生命の背後に、なんらかの秩序の力というようなものが感じられるじゃないか。ルネ君、人間というものは、常に向上を目指すものだ。目に見えないもの、奥深いもの、永遠にして絶対なるもの――そういうものを探しながら、自分の魂の飛躍をはかろうとするものなのだ。その一つの表れが、詩や、絵画や、文学といった、芸術なのだ。それは、信仰にも似ているものだ。だから、芸術とは、自然にそなわる生命の息吹や、その背後の永遠の脈動をうつそうとするものだといっていい」
 それから二人は、しばらく黙って周囲の景色に目をやっていた。池のみぎわに近い小石の底が、午後の光を反射して、きれいに透いて見える。
4  「ところで、君は今の革命のことを気にかけていたね」
 シェニエが、語りかけた。
 「芸術を捨てようかどうか、迷っていたようだったね」
 「…………」
 「芸術は、一見、こういう時代の激動の前には無力に見えるかもしれない。しかし、それは大きな間違いだ。芸術そのものが、時には大いなる抵抗運動となりうるものなのだ。なぜなら、芸術は、人間そのものの力の表明なのだから、時代を導く原動力ともなりうるのだよ」
 ルネは、シェニエの言葉が、自分の日頃の懸念を晴らしてくれるかもしれないと、じっと耳を傾けた。
 「芸術というのはね、一つの予感なのさ。偉大な芸術家は、必ず、やってくる時代の予告者なのだ。その鋭敏な心には、やがて起ころうとする時代の潮流が、他の人々よりも先に動き始めているのだね。直観。魂の、内なる無意識の叫び。それが、芸術という形をとって表れる。だから、不幸にして早すぎて生まれてくる者もあるが……」
 シェニエの言葉は、いつしか熱を帯びていった。
 「もし、この革命の精神が、少なくともその最初の出発にうたいあげた新しい人間精神の解放が、正しいものとすれば、それが芸術にも新しい命を吹き込まないはずがない。必ず、新しい芸術が生まれることは間違いあるまい。だから、君は政治的な運動それ自体に身を投じなくとも、この革命の新しい息吹に触れた傑作を遺せるならば、それが君らしい革命への参加であり宣揚となるのではないだろうか。だから、君は君らしく、自分の道を行けばいいのだよ」
 ルネは、深くうなずいた。
 「それに、僕はこの頃、この革命が高く掲げた『自由』や『平等』や『友愛』の崇高な理念のためには、その根本となる、もっと深い精神の泉が必要だろうと思われてならないのだ。そう、それだけでなく、詩も、絵画も、愛も、人間の命も、きっと、たった一つの同じ泉から湧き出ているのに違いない、そんな思いがしてきている。その泉は、あの青い大空のずっと奥にあるのかもしれない。あるいは、君の魂のずっと深くに潜んでいるのかもしれない。若い君は、これから、その泉を見つける旅にのぼるのだよ。人生という旅にね。……僕には、もうその時間の余裕がないのだもの」
 呟くような最後の言葉が、急にルネの胸を重苦しくした。
 「いや、すまない。君の熱心な写生をすっかり邪魔してしまった」
5  シェニエは、池のほとりを離れようとした。そのとき、ルネが急に伸びあがるようにして、大きな声をあげた。
 「あ、お父さんだ。ちょうどいい、父に会ってください、シェニエさん」
 ルネが指さす方を見ると、池の向こうの茂みのあいだに、男が現れた。シェニエは、ふと顔を翳らせた。万が一を恐れて、誰にも顔を会わせたくなかったし、ましてや言葉を交わすことは避けたかった。男はやがて池を半周して近づいてき、帽子をとると、片手を差し出した。
 「こんにちは、ムシュー。初めまして。どちらからか、お散歩ですか?」
 こんな片田舎に、一人で珍しい、と言いたげな面持ちで、シェニエに会釈した。
 やむなく、シェニエは答えを返した。
 「ええ、この谷の中を歩いていると、本当に気分がよい。こんな静かな自然の真ん中で生活できるなんて、うらやましいことですよ。ルネ君のお父さん、息子さんは、きっといい画家になるでしょう」
 年のころ五十ぐらいと見える父親は、農夫らしい健康な笑顔を見せた。息子のルネと同じ屈託ない話しぶりで、純朴そのものの感じがする。息子と青年とが親しげに語らうようすを遠くから垣間見たことも、父親を一層気楽にさせていたようであった。
 「こんな地味の痩せたところで畑仕事をやる者は、ほとんどいません。だから、息子には後を継いでもらいたかったが、どうしても絵かきになりたい、と言うものでして」
 「ほかに子どもさんは?」
 「いえ、これっきり。私の手一つで育てましてね。つれあいは、流行病で、これが小さいときに喪いました」
 父親は、それから作物の出来などをこもごも語った。
 「作物がよくとれるときも、とれない年もありますがね。まあ、悪いことの方が多いですが」
 シェニエは、ここでの険しい農民生活を思った。おそらくは、朝は明けの星とともに起き、夕べは宵の星を背にして帰るような、働きづめの野良仕事であろう。父子二人の収穫も大したものではあるまい。
 「男手一つで、よくやってこられましたね」
 思わずシェニエが言うと、父親はうれしそうに笑った。
 「多少つらいことがあっても、楽しみはあるものです。仕事に疲れたら、森の精や花の精に抱かれてひと眠り、というわけで。来る日も来る日も、同じような畑仕事。それでも一日じゅうの野働きのあとの、気持ちのいい疲れと食欲は、なんとも言えない愉快なものです」
 シェニエは、まるで大地の色が染み込んだように黒褐色に日焼けした、朴訥な、農夫の風貌をじっと見つめた。四角ばった厚い頬に、ごま塩髯をたくわえ、いかにも労働のエネルギーを感じさせる体躯をしている。
6  父親は、自分に向けられている青年の目に、しばらく黙ったまま視線を合わせていたが、急に話題を変えた。
 「革命なぞと、世の中がばかに騒がしいじゃありませんか。農民の生活を楽にしてくれるそうだから、ありがたいことだが……」
 シェニエは、無言でうなずいた。
 村の仲間から革命のなりゆきについて聞くことがある、と父親は言った。ルネと一緒にヴェルサイユへ行って目撃した騒動のことも語った。
 「そうそう、きのうのことですがね」
 ふと想い出したように、父親は、シェニエの目を見つめながら言った。
 「なんでも、ヴェルサイユの近辺に逃げている反革命家が幾人かいるそうで、もし心あたりがあれば届け出るようにという通達が触れまわられましたが……」
 シェニエは、内心ひやりとした。
 ルネは、シェニエの身柄にまで話が発展するのを、直観的に恐れた。父親に詳しく知られない方がいいという衝動が働いた。
 「お父さん、このかたは詩人なのだよ。この間も、素晴らしい詩を聴かせてくれたのだよ。革命には関係ないんだ」
 すると、父親は驚いたように、大きな目をなお丸くして、シェニエの顔をのぞき込んだ。
 「詩人……、詩人ですと?」
 なにか記憶をたぐり寄せようとでもするような顔つきで、呟いている。その一瞬の表情の変化に、シェニエは身の危険を読み取った。父親は、じっとシェニエの目をのぞき込み、それから身なりにもあらためて注視しているようだった。が、すぐに実直そうな笑顔に変わった。
 「それは、良かった。ルネも芸術家になろうというわけだから、どうか力づけてやってください」
 農夫らしい率直な、粗っぽい声でそう言った。
 「ただ、これは、村の仲間と、今の革命のことであれやこれや話しながら考えたのですがね……」
 シェニエは、内心の警戒をとかぬまま、次の言葉を待った。
 「革命というのは、人間を生かすためのもので、人間を殺すためのものじゃなかろう、ってね」
 父親は、無表情にそう言った。
 シェニエは、自分の張り詰めていた気持ちがみるみるほぐれて、父親の言葉が、胸の奥まで染み透っていくのを感じた。
 「殺し合いや、まして、その手助けなどはご免です。……それに、何事も、私ども農民がねちねちへっこまずに畑を耕すようにやることです。そうすれば、いつかは芽も出て、収穫もある。急に思いどおりに変えちまおうとやりすぎるから、こんなに世の中が大騒動になって、芽のつみあいになるのではないですかね」
 シェニエは、蘇ったように心がなごんでいくのを覚えた。そして、節太い手を広げて話しかけてくる農夫の、彫塑的とも思えるたくましい風貌をもう一度見つめ直すと、その全身からある一つの感慨が浮かんでくるのだった。それは、硬い岩石の質というような、なにか堅牢で風化せず、不動なものの強い印象であった。
 それと同時に、シェニエの脳裡を、ギリシャ古典のある一節がかすめた。
 ――『何かをやりすぎるということは、逆に大きな反動をもたらしがちなものであって……とりわけ国制においてそうなのだ』
 学校時代から丹念に読んでいたプラトンの言葉であった。
 民主制が、なぜ専主制の暴虐を生み出すか。それは、“何か”をやりすぎるから。その“何か”とは、プラトンは、民主制の生命である「自由」そのものを指していたではないか――。「自由」がはらむ背理。この革命が直面しているのも、まさにその問題ではないか――。
 シェニエは、そんな短い記憶や想念の閃きとともに農夫の言葉をかみしめたのであった。
7  父親が話題を、ここでの生活に戻すと、シェニエはもう危険を感じなくなった。やがて、父子に別れを告げようというときに、彼はルネに明るい顔を向けて言った。
 「ああ、ルネ君、一つだけ言い添えておくけれど、詩も、絵も、『友愛』への、またとない作業でもあるのだよ。なぜなら、それは、何の注釈もなしで、あらゆる人々が分かりあえるものだからね。芸術は、人の心と心とをつなぐ『友愛』の懸け橋となる。これこそ、フランス革命の一つの柱じゃないか。がんばりたまえ、ルネ君。それから、これを君にあげよう。いや、もらってくれたまえ。何もあげるものがないものだから」
 そう言って、シェニエは、自分の襟もとから絹地の白いスカーフを取り、ルネに差し出した。汗やほこりに汚れて皺んではいたが、ルネの手に詩人のぬくもりが触れた。
 立ち去っていくシェニエの背に向かって、父親が怒鳴るような大声で言った。
 「ご心配はいりませんよ、ムシュー。気をつけていきなさいよ」
 振り向くと、農夫は親しみの込もった目付きを一層やわらげて、軽く手を挙げた。
 やがて、シェニエの姿が、彼方の林の陰に消えた。父親も、家の方へ帰っていった。
 ルネは、再びとりかかった写生の手をとめて、空を仰いだ。谷間の上空は、青く深く凪いだ海のように、どこまでも晴れわたっている。その青さが、全身に染み込んでくるようであった。空を見上げながら、詩人との会話を、心に反芻してみた。そして、自分が決めた通り、わき目もふらずに画家への道を進もうと思った。
 家に帰ると、ルネは、父親から意外な話を聴かされた。前日、当局から通知された潜伏中の反革命運動家の中に、詩人の肩書をもつ人物もいた、というのである。名前は忘れたが、年齢はあの青年と同じぐらいだろうと。
 「だが、殺し合いの手助けはご免だ」
 父親は、ぽつりとそう言うと、もはや青年の名前を尋ねようともしないで、黙り込んでしまった。
 ルネは、はっとした。自分の部屋にひきこもると、脇のポケットから、あのスカーフを取り出してみた。そして、詩人がふと「もう自分には時間の余裕がない」と漏らした言葉を、何度も想い返した。
 もう、あの人に、これきり生きては会えないのではないか――。スカーフを握りしめながら、不安の翳が消えなかった。
 その日から、再びシェニエの姿をビエーブルの谷間に見ることはなかった。

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