Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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(一)  

小説 青春編「アレクサンドロの決断」他(池田大作全集第50巻)

前後
1  なだらかな谷合いの風景がひらけていた。頭上の茂りあう葉陰から、日光がこぼれ落ちてくる。
 その朝早く、アンドレ・シェニエは、ヴェルサイユの隠れ家をたって、どこへ行くともあてのない足どりを東の方へと小半日も歩き続けた。気がつくと美しいビエーブルの谷間にいた。
 丈高い茂みや、木深い林が身を隠してくれるのにまかせて、谷間の奥深い方へと踏み入った。やがて、こんもりとした一本の幹をえらぶと、その下に腰を落ち着けた。そこからは、ゆるやかな浸食谷の一帯が、よく眺められた。
 うららかに晴れた日であった。まるで谷間の全体が微笑むかのように、色とりどりの花と濃淡さまざまな緑の樹林が谷を埋め尽くし、底をなしている小さな盆地を、一筋の川が、銀の糸を撚るように流れていた。猟犬の包囲からようやく逃れてきた獣のように身も心も疲れきっていたシェニエの目には、暖かな春の日に照らされた、こんなにも平和な谷間のありさまが不思議なくらいであった。
 シェニエは、いつまでもこの美しい自然の中に身を置いて、熱い頭と騒がしい胸とを休めていたかった。しかし、そんな安らかな思いも、すぐに破られた。いつものように錯雑とした想念が雲のように湧いて、シェニエの心を、重苦しく閉ざしてしまった。
 自分の運命がいかになりゆくか。前途が計り知れないことへの恐怖は、もはや失せていた。シェニエは、自分の行く末を、いや、すぐそこに迫っているに違いない運命の打撃を、今やはっきりと直視していた。
 殉教――。殉教者――。その言葉を、幾度も自分の胸に問い試みてきた。いかに抗おうとも、それが自分の避けられない道であろうとは覚悟していた。しのび来る死の恐怖と、心の中で繰り返し戦ってもきた。そして今、この大らかな自然の懐に抱かれてみると、死に対する親しみといったような感情すら起こっていた。いずれ司直の手にかかって捕らえられるのなら、そして逮捕がそのまま死を意味するのなら、むしろ、この静かな谷の片すみで、ひっそりと花や緑に埋もれて死ぬ方が、ずっと幸福ではなかろうか――。
2  いずれにせよ、シェニエは、死への恐怖は乗り越えていた。むしろ、信念のために散ることを、誇りとしていた。ただ、祖国フランスを震撼させている恐怖政治の嵐を思い、革命の容易ならぬ未来を思うと、どこまでも気持ちが沈んでいくのだった。
 (暴政からの解放……。人間の大いなる解放……。この革命は、フランス革命は、その答えの一つ、間違いなくその一つなのだ。何よりも、絶対王制を、民主制へと転化したのだから……。封建制の打破。「自由」と「平等」と「友愛」の思想。法の支配の確立。憲法は、人民に新しい諸権利を約束し、民主的な選挙をも規定している。……この革命が、これからの世界に、人類の進歩に、計り知れない力をもとうとしていることは間違いない。だが……だが……本当に、革命が掲げた理想は、その精神は、歴史の試練にも耐えて、生き抜いていくだろうか。人類永遠の宝鑑たることができるだろうか……)
 (「専制」は、なくなった。しかし今、別の「専制」が、熱病のように猛威をふるっている。革命は、緒についたばかりだというのに……。「自由」の名のもとの専制――まるで、世の中には愛国者と裏切り者の二つしか存在しないかのごとき、恐るべき単純と偏狭。自由という、平等という、友愛という、壮麗な殿堂を、彼らは血しぶきで汚してしまったのだ。革命の観念と、テロリズムの観念との一致。それでは、革命の理想はおしまいだ……)
 (告発された多くの人々は、身に覚えのないこと――あてにならない風聞や、なんの脈絡もない片言隻句や、事実無根の密告や――そんなことで裁判にかけられている。そして、それらへの反証などを述べたてることはほとんど許されないまま、“人民の敵”として葬り去られてしまうのだ)
 シェニエは、太い幹の根もとに広がる青草の上に、疲れた体を横たえた。
 行き交う人もない静寂に、いつにない心の安らぎを覚えたせいもあったろう。野にさす薄雲の影が、自分のまわりにも広がると、ふと眠気がさしてきた。
 まどろみかけた意識のなかで、シェニエは、なおも想念を凝らそうとした。
 (……恐怖政治。ああ、それは統治などというものではない。ただ自分達自身が恐怖におちいり、小心翼々としているだけのことではないか。正義ぶった公の仮面のもとに、自分らの身の安全をはかろうと策謀を凝らしている彼らの醜い渋面が、透けて見えている。人間の良心を、恐怖の煽動でしか誘導できないなんて、最低だ。……権力の魔物にとりつかれて、ただ破滅の奈落の底へと転げ落ちていくのだ、彼らとともに、革命が、そして祖国フランスが……。その勢いは激しくなる一方だろう。だが、異常な、狂気じみた抑圧が長く続いた試しはない。それは必ず自分の身の上にふりかかってくることになるのだ。もうすぐそこに、破局は見えているというのに……)
 (ああ、いつになれば、平和な、美しいフランスが蘇るだろう。種子だけはみごとに蒔かれたこの革命の理想が、美しく花咲いて、フランスの大地を、そして世界じゅうの地表を覆い尽くすのは、いつの日のことだろう……)
3  耳もとをかすめる風の音が遠くなって、いつしかシェニエは、草の褥の上に眠っていた。
 シェニエの服装といえば、灰色のフロックコートも、きっちりした銀鼠色の胴衣も、長く着古したらしい皺が目立ち、そこからのぞいている萎えたシャツは、ボタンが一つ欠けていた。濃い色合いのキュロットのズボン、襟もとの絹のスカーフ、それに乗馬用であろう土にまみれた長靴も、なにもかもが色褪せて、くたびれきっているように見えた。そんないでたちのままで、シェニエは眠っていた。
 まるで放浪者のようではあっても、その寝顔には静かな気品があふれていた。やさしい色白の丸顔は、思いやつれの痕こそあるが、目鼻だちはくっきりと彫りが深く、瞑想的な面影をたたえて、少しくせのある柔らかい髪が、額にほつれて、そよ風に動いていた。肩は強健そうで、中くらいの背丈も、筋骨のたくましい印象がある。
 谷間を照らしていた太陽は、大きく西に傾き始めていた。時どき軽い風が起こって、辺りの木立をざわつかせるようになった。
 頬にひんやりした空気を感じて目覚めかけたシェニエは、草を踏みしだくような足音に、われに返った。反射的に身を起こして、近づいてくる音の方に目を凝らした。やがて前方の木陰から人影があらわれたが、シェニエはほっとした。年の頃は十六、七歳。警戒するまでもない、土地の者らしい身なりをした少年と分かったから。
 少年は、シェニエの傍らに立った。
 「ボンジュール・ムシュー。ちょうど通りがかったのですが、そろそろ冷えてくるので、失礼ですが、心配で見ていたのです。あまりぐっすり休まれているようすなので……。この谷は、夕暮れになると急に冷え込むし、日が沈むと、真っ暗な夜道を行くのは難儀ですから。この辺りが初めてなら、なおさらです」
 たしかにシェニエには、この土地は初めてなのであった。
 「ああ、ありがとう。そろそろ帰らなくては」
 シェニエは、ゆっくり立ち上がると、服のほこりを払った。
 「どちらへ帰るのです?」
 少年の目は、無邪気そのものであった。
 シェニエは、つい正直に答えた。
 「ヴェルサイユ。ヴェルサイユから来たのだよ。ちょっと長い散歩になってしまったが……」
4  ヴェルサイユから東へ十数㌔の地点を中心に東西にのびるビエーブルの谷間は、フランスの平野地帯によくある、川沿いの浅い渓谷であり、このような緑と水に富んだ渓谷と、やわらかく起伏する田園の広がりとが、フランスの大地の魅力を形づくっているのである。
 「ヴェルサイユから歩いてきたのですか?」
 少年は、散策の遠さにちょっと驚いたようすであった。
 「ヴェルサイユにお住まいなら、あの騒ぎは目撃しましたか?」
 少年が唐突にもちだした“騒ぎ”が何であるか、シェニエにはすぐ察しがついた。
 一七八九年十月五日。あの日、武装したパリの群衆が大挙してヴェルサイユの宮殿に、デモ行進した。群衆といっても、その大部分はおかみさんや働く娘達であったことが、このデモの一つの特徴であった。彼女らは、うち続く物価高と食糧不足による生活の苦しさから結束して、直に国王ルイ十六世と王妃マリー・アントワネットに窮状を訴えようと、大砲まで引きながら、えんえん二十㌔にも及ぶ行軍をしたのである。
 それは、パリに革命が勃発して間もないころ――つまり、同年七月十四日、バスチーユ牢獄を民衆が襲って陥落させた事件から、二カ月余りのことであった。すでに国民議会が成立して、国民主権へと、フランスの歴史は大きく転換していた。また、同年八月四日には「封建制度の廃止」の諸法令が決議され、法の前における万人の平等が確認されて、旧い封建制はひとまず生涯を閉じることを運命づけられていた。
 有名な「人間と市民の権利の宣言」――いわゆる「人権宣言」は、同じ月の二十六日に採択されている。
 いわば革命の濫觴期にある新しい民衆の力には、勢いがあった。ルイ十六世は、女性達の願いを聞きいれて、ヴェルサイユからパリへと宮廷を移すことになった。すなわち女性達のヴェルサイユ襲撃の翌日、王室は、長くブルボン王朝の居城であったこの華麗な宮殿を離れてパリへと向かっている。この日から、ルイ十六世とマリー・アントワネットの処刑に至るまでの約四年間と、その後も続く王子や王女の長い幽閉という、パリでの王家の悲劇が始まることになる。
 だから、ヴェルサイユ宮殿には、もはやかつての主はいないし、国王が再びヴェルサイユに戻る日もない。
 少年の言う“事件”とは、このパリ民衆のヴェルサイユ襲撃という歴史的な出来事を指していた。
 「ああ、私はあのときは、ヴェルサイユにもフランスにもいなかった。イギリスにいたのだから……」
 シェニエは、今ここで革命の多くを語りたくなかった。短くそれだけ言い、引き返そうと思った。そのとき、少年がなにか小脇に大事そうに包みを抱えているのに気づいて、そちらに目をやった。
 「あ、僕の名はルネ。これはデッサンの道具で、僕は今、絵を勉強しているんです」
 絵の勉強と聞いて、シェニエの心は少し動いた。
 「年はいくつ?」
 「十六です」
 シェニエは、少年の顔を見つめ直した。
 少年とはいっても、体つきが雄偉で、一人前の若者に近かった。身なりは、農牧者のそれで、革のチョッキの下のシャツと、はいているズボンは、野良着といってよい代物だった。骨太い、筋肉質の面差しには、さすがに少年らしいあどけなさが残っていたが、その眼差しは、たしかに芸術家の卵らしい一途な強い光を宿している。
 「絵を?」
 「ええ。父の農作業を手伝いながらですが……。ほら、あれが僕の家です」
 ルネの指さす方に目を凝らすと、遠く林の合間に、少しくすんだ白壁の一構えが見える。壁の半面が、蔦蔓に覆われているようでもあった。鶏の鳥屋らしいものもある。
 それにしても、シェニエには、この辺りはとても耕作には向きそうにない地相に見えた。
 「林と林との間の、少しばかりの空地を、父と分けて耕しているのです」
 シェニエが、ほうという顔つきで、目を丸くした。
 「朝露のあいだは、畑に出て耕したり、種蒔きをします。日が少し高くなると、牛や羊達を野に放ちにいきます。その合間にデッサンに励むのです。家に帰り、それをもとにカンバスに向かいます」
 「もしよかったら、そのデッサンを見せてくれないか」
 シェニエは、この農村画家の卵の手際を見たくなった。一方、ルネは、この貧しげな上流青年に、ある親しみを感じていた。青年の黒い目の中の焔のようなものが、何か尋常でない魂の深さを感じさせて、惹きつけられるものがあった。
 ルネは、素直にデッサンの画帖を差し出した。それは、谷間にある一本のこんもりした木や野の花といった小さな風景から、谷全体の大きな風景までの、みごとな素描で埋まっていた。シェニエは、そこに表れている画才の片鱗に目を見はって、微笑んで言った。
 「どれも、とてもいい。ここの自然のよさが、よく描けている」
 するとルネが、うれしげに言うのだった。
 「このビエーブルの谷は、とても表情が豊かです。もうすぐ夕暮れになると、空も丘肌も一面に焼き焦がすような深紅の夕陽がまるで絵のようです。そして薄い夕烟が次第に谷間にこめていき、それから、冴えざえと澄んだ星空がとてもきれいです。朝になれば、乳色の靄が晴れていくなかに林や泉がだんだんくっきり見えていくさまも、言葉には尽くせません。それに、この谷は、季節ごとに絶えず美しく姿を変えていきます。春には、このように新樹や花々の香りがたちこめて、まるで谷全体が一つの大きな香炉のようになります。夏の晴れた日には、あのビエーブル川の水面から無数の光の小さな粒が湧いて、きらきらと谷間じゅうに散乱しているようです。秋には、花すすきが銀に光り、落葉の素晴らしさはもちろんのこと、冬は冬で、川面から霧がたちこめて、白一色の雪景色もまた格別です。どれもこれも絵にしたい材料ばかりで、それなのに自分のパレットを見ると、つくづく考えます。どうやって、この自然の美しさや奥深さ、また厳しさや、やさしさをそのまま画布に写せるだろうか、と。自然そのものと比べたら、自分の絵はなんと下手だろう、
 と。僕には、きっと才能がないのですね」
 ルネは一息にそこまで言うと、抱えている絵の道具に目を落とした。
 シェニエの影深い目が、にわかに輝きを帯びた。彼は、ルネの言葉を聞きながら、ジャンルこそ違え、同じく芸術を志した少年の頃を懐かしく想い返した。そして、思わずルネを励まして言った。
 「いいかね、ルネ君。才能といったところで、どれだけ長い辛抱に耐えられるか、そのがまん強い持続の力のことをいうのだよ。だから、心にひとたび決めたら、決してあきらめてはいけない」
 ルネは、真剣な目でシェニエを見た。
 「芸術家になろうというのなら――それは、芸術に限らないことだが――飽くことのない求道の心をもち、君の仕事をどんなに人が中傷しようとも、臆病にならないことだ。長い長い辛抱が必要なのだよ。苦しい汗と涙があって、はじめて芸術は生まれるのだよ」
 「…………」
 「いや、時には、血さえも、芸術を輝かすのさ」
 ルネは、驚いたように目を見開いた。シェニエの眉根が、急に険しくなったように見えた。
 どちらからともなく二人は、草の上に腰をおろしていた。
 ルネが、口を開いた。
 「僕は生涯、風景画を描き続けようと思います。ただ、……」
 ルネは、ふと口ごもった。
 「ただ、……今、僕は迷っているのです」
 「迷っている?」
 「あのヴェルサイユ襲撃の事件を、僕は目撃したのです。パリから暴徒が来てヴェルサイユが大騒ぎだという報せがこの村に届いて、父と一緒に行ってみました。着くと、もう騒ぎは収まったあとで、髪を振り乱して、ぼろをまとった女達の行列が、意気揚々とパリへ引き返していくところでした。そのありさまは、ああ、その恐ろしさは、とてもこの世のものとは思えないものでした。槍や銃を手にした先頭の女達の列には、王宮で斃した衛兵達の首が……。思い出しても、体がふるえます。ああ、本当にどうして、あのような残虐なことができるのでしょう。彼女達は鼻歌まじりで、沿道からは喝采の声さえあがり……。僕の胸は痛みました。革命とは、革命とは、かくも人間を残虐にするものなのか、と」
 「…………」
 シェニエは、無言であった。
 「それからは、僕の心の中には、このまま安穏に絵を描いていていいのか、という思いが湧いてきました。パリは革命で騒然としていて、地方には反革命の反乱が起きている。外国からの武力干渉も激しいということです。祖国のために、僕も革命の動きに身を投じるべきなのか。それにしても、あんな流血騒ぎに加担すべきか。それとも……」
 時は、ルイ十六世がギロチン台の露と消え、神権王制が終わりを告げた一七九三年一月二十一日からほどない五月のことであった。共和主義者の中でジャコバン派とジロンド派の両派の抗争が激しくなり、更には王党派の残存勢力の蠢動も加わって、国内の主な都市を軸に血みどろの闘争が展開されていた。
 対外戦争も、一進一退の状況下にあった。
 ただ、ビエーブルのような人口希薄な寒村は、革命の激動からは遠かったといえる。
 シェニエは、しばらく口を閉ざしたままであった。ルネも言葉の接ぎ穂が見つからないまま、二人の間には重い空気がただよった。
 ふと、シェニエが、草かげの小さな白い花を指さした。
 「なんと可憐な花だろう」
 「え?」
 自分の切羽詰まった問いかけにはまるでかかわりのないような言葉が、ルネを驚かせた。
 「あ、失敬。決して君の話を無視しようというわけではないんだ。でもね……」
 ルネの方に返したシェニエの瞳の底が、何ものかへの激しい意志に燃えていた。
 「運命を見つめていると、かえって、こんな小さな花の美しさが胸に染みるのだね」
 謎めいた言葉に、ルネはあっけにとられた。
 (この人は、この革命騒ぎに関係がある人物かもしれない)
 そんな思いが、ふと頭をかすめた。
 その時、シェニエの口から、思いがけない言葉の音律が、低くつぶやくように、しかし力強く、流れだした。
5   おお、僕の青春の日々よ
  バラの冠を戴いた日々よ
  君らが去ってからというものは
  虚しく長い後悔に沈むばかり
  麗しき日々は いくたびか僕の涙に曇りはしたが
  悩みのなかにこそ喜びを味わわせてくれた日々よ
  やがて君ら青春の花々は僕の頭上に色褪せるのだ!
  ああ! 年月の疾き流れは
  君らを遠く飛翔させて
  二度と僕の手に返してはくれない
 ……………………
 (この人は、詩人なのかもしれない。きっと、政治家なんかじゃないんだ。自分の詩をうたって、僕に答えてくれようとしているんだ……)
 ルネは、じっと耳をすました。
 低い吟唱は、なおも続いた。
6   僕の少年期をはぐくんだもの
  それは芸術の喜びだった
  あるときは
  銀の足の妖精が水を揺らす
  その長い揺籃のような川を源からたどりつつ
  すらすらと誰からも習わずに
  僕の手は紙の上に書きつけるのだ
  愛と孤独の申し子たる詩歌を
  ……………………
  芸術よ おおそれは
  人生には愛すべき魅惑者となり
  どんな暗い絶望をも微笑み慰めてくれる
  苦悩のときの確かな友変わらぬ恋人
  その愛も抱擁も金では買えぬ
  芸術よ 恵みの神々よ
  その愛好家らはいくたびかあなたを悪しく使用して衰微させたこともある
  あまりに多いそんな汚行に僕は毫も加担しなかった
  あなたの妬まれやすい桂冠をば
  盲目の「運命の女神」を娶った男達の額に
  おもねり冠せようなど毫もせず
  あなたが授けてくれた天分を汚すまいとしてきた僕だ
  卑屈な嘘を言ってまで
  あなたを安く売り飛ばそうなど
  そして自分の詩をあちこちと野心家の読者に見せたりして
  お追従の詩才で魅惑しようなど
  僕は断じてするものか
  アベルよ、若き友アベル
  それにトゥルデンヌとその兄さん
  彼ら遠い幼いときからの旧友よ
  昔、四人そろって不人情な教師の前に
  黙って手をさしだして罰をうけたっけ
  そして詩神ミューズそのものの僕の弟やル・ブラン
  詩神を愛しながらも捨てたド・パンジュ
  これが時おり夜会する仲間の全てだった
  苦心して僕の口から形になった詩句に
  友らしいまた手厳しい耳を傾けてくれたっけ
  旅につきものの新発見を愛する僕は
  貪欲な目につれられてあちこちと旅に出るだろう
  そのたびに
  いつでもこの懐かしい仲間の懐に帰りたいものだ
  ……………………
 詩を口ずさみ終わると、ゆっくりとシェニエは立った。そして、川の向こうにゆるく迫り上がっていく丘陵の彼方に目をやった。
 「ほら見たまえ。空があんなに明るく晴れている。この晴ればれとした空を胸の中にしっかりとうつして、いつもいつも澄んだ青空のような気持ちで生きていけたら、どんなにか幸福だろう。どんなに苦しくても、辛くても、こんなに空が晴れている日には、なんだか希望が胸いっぱいに湧いてくるじゃないか。だから、心の中には、いつも晴れわたった大空を失ってほしくない」
 ルネの心には、シェニエの語る詩と言葉とが、深い波紋を描き始めていた。
 シェニエは、目を周囲に移して言った。
 「まるで、草葉が緑を輝かせて風にたわむように、若い君らの心は多感で、まわりに動かされやすいのも無理はない。だが、少々の風が吹いたからといって、本当の自分の行く手を見失うようではいけない。私は、君の才能を惜しむ。どうか、わき目もふらず、わき道にそれず、君自身が決めた道を進みたまえ」
 「…………」
 「今の私には、芸術が、詩を書くことが、生きることと同じなのだ。詩を書いて遺すことは、自分の命が幾世代にも生き続けることと同じだと信じているのだよ」
 「ああ、あなたは、やはり芸術家、詩人なのですね。……そういえば、ル・ブランという詩人の名を聞いたことがあります」
 「ル・ブランは、私に詩の手ほどきをしてくれた、有名な詩人さ。大先輩さ。でも、世間では、私のことは少しも詩人だなんて思ってはいない。ほんの少しの私の仲間しか知らないのだよ。ほとんど、作品を世間に発表したことがないのだもの。今、君の芸術への熱い思いに、つい、下手な詩を口ずさんでしまった。そこには私の気持ちを込めてあるけれど、自分の作品を売り込もうとか世に出そうというつもりは、さらさらないのさ。あれは『エレジー(悲歌)』という、私の若いときの詩、そう十九の頃から書きためたほんの一節なんだ」
 「あなたの名は?」
 シェニエは、それには答えなかった。
 「うん……。ド・パンジュ兄弟も、アベルも、トゥルデンヌも、みんなコレージュ・ド・ナバールという、私が十一の時から十九まで学んだ、その同じ学窓の友達なのだよ。私達は友情で固く結ばれていた。眠れない夜を、キケロやモンテーニュを読み合ったり、詩を論じたり、自由や正義について議論したり……。私は、その大切な友達一人一人に捧げる詩を書いたものだ。もし自分の詩が後世に遺るのならば、友達の名や、その良い性質や思い出をも後世に遺せるだろうからね。友情は、天からの最も素晴らしい贈り物だもの」
 パリのコレージュ・ド・ナバールは、一三〇四年に創立された、古い伝統をもつ名門校で、「フランス貴族の揺籃」と言われたほど、主として軍人や法曹界や官吏の職にあった貴族の子弟を集め、百人そこそこという定員での高いレベルの少数英才教育で有名だった。シェニエの家柄も、祖父が王室の秘書を二十年間つとめ、父ルイ・シェニエもモロッコ駐在領事になったことから、まずまずの家格であった。子ども達を貴族階級のなかで教育しようという父の意にそって、二人の兄に続いてコレージュ・ド・ナバールでの寮生活に入ったシェニエは、そこで、ド・パンジュら生涯の――あまりにも短い生涯の――良き盟友に恵まれたのであった。
 シェニエは、そんな遠い昔を、懐かしく心に描いていた。
 「年若い頃に教わることで、何が一番大切かといったら、それは、友達同士の信頼と、大きな理想や憧れを探すことと、そして何よりも大切なのは正義を重んずる勇気だろう。私達、あのナバール校でともに遊び、学んだ仲間は、今でも親友であることに変わりはない。いや、それどころか、生死の境で、兄弟のように結ばれているといってもいいくらいなのだよ」
 ルネには、シェニエと詩中の人物との絆がおぼろげながら納得できた。しかし、それ以上に、おだやかな言葉の中に一種の熱があって、自分の心を魅きつけている、この目の前の青年詩人の名を知りたかった。一方、シェニエの方も、もう警戒心はすっかり薄れていた。この一途な少年に、なにか愛着が感じられてならなかった。どのみち、自分がヴェルサイユに潜伏していることは、当局には知れている。それに、自分の名を明かしてもルネには何も分からないだろう。
 「ああ、私の名は、アンドレ・シェニエというのだ。弟は、マリー=ジョセフといって、詩人で、劇作家だが。この道では、弟の方が有名なんだ」
 マリー=ジョセフ・シェニエといえば、戯曲「シャルル九世」で知られる新進の売れっ子の作家であった。それに革命を祝う国民的な行事では、詩を朗読して祭典に花を添えている。彼は、熱烈なジャコバン主義者であった。
 ルネも、その程度のことは、耳にしていた。
 ルネは、著名な作家の兄との、こんな偶然の出会いに心を弾ませた。
 「それでは、あなたも弟さんと同じようにジャコバンを支持しているのですね?」
 シェニエは、答えを返さなかった。いやむしろ、ルネにそう思い込んでもらっている方が、安全だと思った。もはや、ジャコバン政権は、シェニエを、反革命的な危険人物と見なして、ある決定的な機会を、虎視眈々と狙っていたのである。言いかえれば、シェニエ兄弟は、政治的には、全くの対極に立っていたのであった。
 シェニエの表情に、寂しげな影が浮かんだ。それから彼はようやくルネに背を向けて、帰ろうとした。黄昏の深まらぬうちに、谷道を抜ける必要があった。
 「さようなら、ルネ君。君は、とても良い少年だ。きっと立派な芸術家になれるだろう。ここは、とても素晴らしい所だ。できれば、もう一度、この場所に来ようと思っている。そのときに会えるのなら、また君のデッサンを見せてくれたまえ」
 ルネも、もう一度会いたいと思った。この青年詩人の言葉も、雰囲気も、不思議なくらい、自分の心を温めてくれるものがあった。
 ほっと大きく息をして、見上げると、ほのかなバラ色のニュアンスが空を染め始めていた。
 シェニエの後ろ姿が、花ざかりの道を右にのこして、小さな丘の麓のゆるい坂をくだっていく。
 それは、背や肩まで隠れるような潅木の茂みをしばらく進んでいき、やがて濃い森陰に見えなくなった。
 ルネは、佇んだまま、どんどん濃く谷間を染めていく夕日の色に見入っていた。

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