Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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はしがき  

「価値の日々」「若き友へ贈る」「わが友へ」「友へ贈る」(池田大作全集第38巻)

前後
1  私は人と会うのが好きである。
 もちろん、私自身悩み多き凡夫であるから、時には、疲れはてて、人に会うことをわずらわしく思うこともある。しかし、この世に生を享けて、現実社会に生きぬいている人と語り合うことは、私にとって、なによりも楽しいことである。
 ましてそれが、これからの人生に向かって、大きく羽搏こうとする青少年の場合や、人生の年輪を刻んだ、老境に輝く年配者の場合には、なおさらのことである。そのたびに、私自身、多くのものを学ぶ思いであるし、眼前が大きく開かれる思いがすることもある。
 ところで、この地球上で、一個の人間ほど尊貴で大切なものはないといってもよいであろう。すべての思想も哲学も、それを出発点とするのは当然であるし、すべての価値も、それを基準とすべきであるのは、これまた当然のことである。
 しかし、この当然すぎるほど当然のことが、簡単に忘却され、欠落していることが、現代社会の混迷の、大きな原因をなしているように思えてならない。
 仏法は、個人の尊厳のための法である。個人から出発して、社会の変革や、文化と平和の興隆や推進をも説いているのである。この個の確立を根本とした環境との調和に、すべてのカギがあるという仏法の考え方は、きわめて卓越したものといってよい。
 この、一人ひとりを大切にしていくということは、日蓮大聖人の仏法の根本義であり、創価学会伝統の重要な柱でもある。世の中には、自己の尊貴に気づかず、自己を卑下して、粗末に扱う悩める友がたくさんいる。一面からいえば、それを気づかせていくことが、創価学会の活動の目的であるといってもよい。
 私事にわたって恐縮だが、私がこの仏法に巡りあったのは、昭和二十二年のことだから、もう三十年余になる。入信してからの私の青春時代は、病弱と経済苦と、人生のさまざまな苦しみの連続といってもよいほどだったが、いま振り返ってみて、そこには一点の悔いもない。その間、私が学び、また自らに課してきたととは、徹底して、一人ひとりを大切にするということである。
 私が折にふれて、わが愛する友人たちに短文を記して贈ったのも、そのような背景からであり、ただただ、そのことが、その友にとって、なんらかの励ましになればという願いからの行為であったのである。
 もとより、その場で、その人のために書き贈ったものなので、意を尽くしてないものや、普遍性のないものも多々ある。既刊の短文集の「はしがき」にも書いておいたように、それが世に出されることは、まことに汗顔のいたりである。
 しかし、その後に書き贈ったものをまとめて出版してほしいという強い要望が以前からあり、いささかのためらいを押し切って、今度、承諾した次第である。
 本書には、四百数十編の短文が収録されているが、大部分は、青年に贈ったものである。そして、年配者や、婦人にあてたものも、一部収められているのが、従来のものと異なる点である。
 この短文集をとおして、読者が、私の、一人ひとりにかける微意をご理解願えれば幸せであるし、なんらかの糧にしてくだされば、それこそ望外の喜びである。
  昭和五十三年四月二十八日 著 者

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