Nichiren・Ikeda
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昭和三十五年(一月)
「若き日の日記・下」(池田大作全集第37巻)
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2 一月二日(土) 曇
朝、ゆっくり起きる。妻より誕生日であるのに、顔色悪しと心配される。どうしてこんなに疲れるのか、見当がつかぬ。決して、病魔に負けぬから、心配するなと笑う。
三十二回目の誕生日。母のことを念う。老いゆく母のことを想う。否、老いた母のことを考える。
東京駅午前十時発の急行で、初登山。
車中、亡き師のことを偲びつつ、多宝富士大日蓮華山を仰ぐ。いつ仰いでも名山である。世界一の名峰である。この山のごとく、揺ぎなく、生きたいものだ。
日蓮大聖哲の少年時代、比叡勉学への途次、東海道を歩みし折り、あの不二の山を、いかに御覧なりしか。そのご心境を、偲ばずにはおられなかった。
午後二時、御開扉。本山全域、清浄にして、蘇生の感、深し。
六時、大講堂において「十字御書」講義。
講堂、立錐の余地なし。頼もしきかな。人類の黎明、この天地より明けゆく思い、しきりなり。
妙法の力。仏法の興隆。これは、民族も人類も、止めようとして、止めようのなき、大法則なのだ。
理事長の質問会をもって終了。大幹部一同、理境坊二階において、なごやかに夜半まで雑談。
丑寅の勤行まで、一睡もせず。寒きゆえか、朝方までも眠られず。床の中で、大客殿建立寄進の構想を、真剣に練る。
嬉しく思う。誇り高くも覚える。ひとり、広布の陣頭で苦しみ、尽くすことは。
今年は、学会にとっても、自己にとっても、大事な年に入った感じ。ただただ、大御本尊様にお導きをいただくほかに、わが途なし。
3 一月三日(日) 曇
本山に在り。早朝に、日達上人猊下より御目通りくださる旨伝達あり。学会首脳にて、猊下のお元気な尊姿を拝す。
終わって、総本山境内を、青年部の有志と漫歩。皆、快活であり、未来をはらんで生きている。嬉しい。頼もしい。生涯、共に苦楽を一にして弘教前進せんことを、胸奥で祈る。
共に叫んだ。われ青年たり、われ若人たり、われ青春たり、と。その声、高くして、天空に響き、その声、澄んで富士の白雪に入るなり。
午前九時三十分より、三十分間、日帰り登山の質問会に出席。全力投球で指導したつもり。
十時少々過ぎ、H兄と下山。
帰宅途中、列車内にて、戸田先生の家族と一緒になる喬久君と横浜駅まで、種々語る。立派な青年になられた。先生が、いかほどか喜んでおられることであろう。南無妙法蓮華経。
恩師の功徳が、厳然と子に回向されゆく実相を、明確にみる念いなり。不思議なり、不思議なり。
午後三時過ぎ帰宅。倒れるごとく、横になる。
戦い、ここに十年。法戦、これから十年を夢みて。
4 一月四日(月) 快晴
午前十時過ぎまで休む。目覚めても、ぐったり。妻も、博正も、城久も、尊弘も、健康、元気である。久しぶりで家族を見る感じ。
昼食を共にする。妻の手料理で。子らの旺盛な食欲に安心、満足。いかなるホテルや旅館の食事よりも幸せであるとともに美味。
夜半、ひとりで読書、種々思考。
この一年で、信心の決定と身体の健全を、本格的に計るを決意する。
政界は、次期総裁の決定の年となるか。
宗内には、日達上人猊下のご登座。政界には、池田勇人か。
また学会の最高責任者も決定せねばならぬ年か‥‥。
広宣流布の布石は、妙法の大法則により、次第に盤石となっていることを、誰人ぞ知る。
5 一月五日(火) 快晴
午前中、在宅。
一日中、身体疲れ、横になったりして読書。
子供らと、正月中ぜんぜん遊べず。やむをえぬ。
午後、信濃町の本部近くの理髪店へ行く。
学会本部に寄り、大御本尊様にご挨拶申し上げる。
① 今年は、人材を育てゆくこと今年は、組織を強めゆくこと
② 今年は、組織を強めゆくこと
③ 今年は、目標を明確にしゆくこと
現在の体制では、いまだ弱体なる故に、堂々たる陣列を組みなおす必要大なり──と。
午後四時、第七回目の子供会。N園にて。八十名の出席者。Mさんに、皆して、銀のコンパクトならびに最上のアルバムを贈呈。喜んでおられた。
学会歌を、一人ひとり歌う。六時終了。
妻と共に帰宅。ゆっくり唱題。
6 一月六日(水) 快晴
昨日は、正午で二十一度とのこと。
地震等がなければと祈るのみ。天変地夫のなき日本であり、世界でなくては。いかに、立派な憲法、法律、条約を作っても、大地震、大洪水の世界になっては、何かせん。宇宙の根本法の、いかに大事であるかを知れ。
午前十時、本部、仕事始め。
勤行、挨拶、十時四十分解散。
仏壇(お厨子)が、立派にできあがり、心から嬉しい。信心あれば、真実の相として、全て眼前に現る。
帰宅、遅くなる。明るい、美しい妻に迎えられると、革命児の緊張がほどける。質素極まるわが家なれども、最高に幸せであり、尊さを誇る。
戸田先生あっての学会であった。先生なくして、学会はありえなかった。よって、先生を中心として、全学会のことを考えるならば、しぜんに現状も、未来も、領解できうるはずだ。
先生を利用し、自己の立場を利するために主観で語り、主張することは、恐ろしいことである。女性には、とくにこのような姿が多い。
7 一月七日(木) 快晴
午前八時、家を出る。
混雑の電車に閉口する。正月で小遣いを使ってしまい、タクシー代なくなってしまう。
無駄使いは、本日限りできなくなった。
本日より、再び本格的に、自己の仕事に熱中のこと。
午後、本部で、理事長、N氏らの裁判の打ち合わせに来た弁護士と会う。
この事件ほど、恩師を苦しめ、学会に傷をつけた事件はない。学会の清浄、正義、伝統を、裁判で立派に立証してゆかねばならぬ。しかし、Nらのいやしい出世主義と、汚れた行為は、真実の学会っ子は許せぬことではあるまいか。
二、三の先輩理事に、学会の本質、亡き先生の胸中を語ってあげる。エゴイストにならず、可愛い学会員のために、わかってもらいたいものだ。
夜、青年部首脳来宅。共に会食。七年後、十四年後の構想を語る。わかったか、わからぬか。信じたか、信ぜずか。
8 一月八日(金) 晴
本年度の成就すべきこと。
① 大客殿建立の推進
② 全幹部の自覚および団結
③ 僧侶の宗門、広布への自覚
一年を十年に生きる人あり。十年を一年となせし人もあり。所詮、日々、価値ある人生を歩む、ありがたさよ。
午後三時三十分、常泉寺へ新年のご挨拶に。理事室全員にて。
料理を出してくださる。新年ぐらいはよいか。ただ、談話中、なかなか広宣流布への、学会精神がわからぬのには困った。
人は、皆、自己が正しいと思いこんでいる。これが本質らしい。これを、一人ひとりを、最高善の境地に、淳善地に開かしめゆく戦いだから、大変な労力だ。結局、信心と確信の持続の叫びしかなくなってくる。
ますます、自身の未熟さと、潔癖さと純粋さの、弱さを思い知る。皆、わたくしを利用しているようだ。しかし、青年らしく凛然と、わが道をゆこう。法楽を自受しながら──。
9 一月九日(土) 晴
暖冬である。
新安保条約調印のため、十六日、岸首相ら十二名渡米とのこと。それを阻止のため、全学連、五千名動員とのこと。揺れ動く日本列島。アジアの小島、日本列島の命運は──十年後──三十年後。
衆生濁、劫濁の念、止みがたし。
夜、文京の幹部会に出席。
先輩たちは、自分がいちばん可愛いらしい。また、自身に最も有利なほうに動くものらしい。これと思いし先輩の心も、後輩たちは、信用できなくなってしまう場合があるようだ。
目的観と使命感と、信義と責任感のある先輩をもたぬ後輩ほど、淋しく可哀想なことはない。
ともあれ、人のことを云々するより、自分が立派な先輩になることだ。皆を愛情をもってみてあげよう。大きくなれ。大海原のごとき包容の人になれ。
「いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず」の御金言の学会員にして、はじめて、真実の信仰者たるを絶対に忘るるな。
八時過ぎ、本部に帰り、恩師の遺命である大客殿、正本堂の構想を語り、真剣に取り組むよう、厳しく指導する。
真剣な人あり、無責任の姿の人あり。
恩師去り、いまだ二年たるに、その精神の、はや腐りゆくを防ぐのみ。
10 一月十日(日) 曇後晴
午前中、在宅。ゆっくり休む。されど身体癒ず。
午後、先生のご親戚の集まりに、妻と共にお邪魔する。
夕刻、帰宅。夜半まで、静かに読書。
マルクス、福沢諭吉、王陽明、ならびにレーニン、へーゲル、バッハ伝を、ひろい読みする。
レーニンの、五十四歳での革命への生命力には、驚くとともに敬愛を感ずる。その思想の善悪・高低の次元は別として。ともかく、主義主張を貫く人に見ならうべきであろう。
遅くまで起きている。思索に思索の針が止まらぬ。妻、身体のことを心配してか、早く休んだらという。
昨日より、題目を一千遍多く唱えることにした。新たなる発心──次への飛躍の段階のために。
入信当時の友だちの健在を念う。弟のことを思う。
明日も、再び進もう。一歩前進のために、自己の地表を掘り、自己と闘おう。
11 一月十一日(月) 曇後晴
汝一心ニ精進シ 当ニ放逸ヲ離ルベシ(法華経序品)
大事な、三十代の船出に、わが船体のエンジンは如何。
本部に、おいて、職員の給与問題の検討。
慎重に、全員の調和、家庭事情、能力等を考え、みて。信仰の世界とはいえ、現実の社会生活の裏づけを、自ら真剣に考えてあげねば──。
夕刻、N氏の関係者とKにて談合。新聞用紙の問題をば、種々打ち合わせる。
いかなる会合にありとも、先生の精神と姿が、目に映ってならぬ。
本部の帰り『方便品寿量品精解』を読み終える。懐かしきこと限りなし。
題目を一千遍唱う。
「黎明」の文字、ならびに「自受法楽」の字を、色紙に記念として書す。
床につくのが、二時を少々、過ぎてしまった。
12 一月十二日(火) 曇
疲れながら目が覚めた。
拙宅は、三人の勇士のために、滅茶苦茶である。城中、休むところなしか。子らの溌剌とした、元気のある証明か。頼もし、嬉し。
蒲団の中で、過去の少年・青年時代を援り返る。生有、本有、死有、中有の生命の実態あり。今ここに、本有の妙法に照覧されゆく青年時代に最高の人生を知らねば。
昭和二十二年、十九歳にて入信。その日、八月の二十四日、勤行、受戒、堀米尊能師のお話ありて、その時間、午後一時ごろより三時ごろまでとおぼゆ。
家、裕福ならず。兄弟四人まで、戦地に出征なれば、やむをえず。温厚実直なる父であり、母なれど、その苦労を思わば、涙あり。
親の偉大さを、泌々と知る昨今となる。平凡な、正直一途の親なれば、尊敬の念、深くなるばかりなり。
昭和二十二年秋より、ひとり決意して、戸田城聖先生の講義を神田にてうく。真剣なりし。この師のもとならばと、決意一段と固まる。友らは喜々とした姿なれど、わが心は、静かにして常に変わらず。
昭和二十四年、一月三日──。
戸田先生の牙城たる日本正学館に、編集員として入社。戸田先生の弟子となりし、第一歩なり。われ懸命に、お仕え申し上げる。
人生、社会、学会の厳しさ、次第に知り、勉強を真剣に始む。
昭和二十五年、八月二十二日、東京建設信用組合の敗北。戸田先生にとって、第二の難ともいうべきか。ひとり、師と、決めたものの約束として奮戦努力する。この時期、最大なる人間革命となることを覚ゆる。
この一年の、師と共にありし死闘と因縁が、かくまで福運と変わり、宿命転換となるかを思わば、実に正法の不思議なるを知覚す。
実践なき人びと、仏法の批判の資格なきを、念う。
帰宅、十一時をまわる。妻、静かに、優しき瞳で待っている。
13 一月十三日(水) 快晴
正月は、他の月より、一日一日が遅いような気がする。
午後三時三十分より、本年最初の理事会。
遺品の結集、登山会、常住御本尊様のこと、出版(御書・巻頭言集)等の打ち合わせあり。
先輩理事の大局観、情熱、次善的政策のなきことを、悲しむ。次の理事クラスは、遠慮をせず、若手より抜擢すべきだ。
仏法でも「行布を存してはならぬ」──とあるから。これが、必然的な手の打ち方であろう。
六時、教授会。
「松野殿御返事」「末法相応抄」の予習。
一生涯の教学なれば、深く落ち着いて勉学する必要、これあり。
題目、五千五百遍唱う。しぜんに力が湧いてくる。
14 一月十五日(金) 曇
午後零時三十分、東京発の特急にて、名古屋へ向かう。ただ一人。
講義ならびに指導をかねての旅路である。本年最初の地方指導となる。中部の同志にとっては、記念の日となろう。名古屋市公会堂において、「松野殿御返事」を講義。
寒いのに外に四千人ぐらい立っていたと知る。若造のくせに、こんなに大勢なる求道者に対し、真剣に、謙虚に指導の任にあたらねば、申しわけなし。
愛知会館において、一泊。一時ごろ、床に入る。
15 一月十六日(土) 雨
午後二時、名古屋発の近鉄特急にて、大阪へ向かう。
二層造りの電車であった。東京にもあれば、子供たちが喜ぶと思った。
Y氏、S夫人同車。二人ともお世話になった人である。生涯、忘れまい。
本年最初の関西入り。上六駅(上本町)に着く。総支部長ら出迎えに来ている。懐かしい関西本部に落ち着く。
総支部長は善人なれど、陰の人だ。若いし、大成長してもらいたいものだ。
K夫人たち、本部より派遣指導に来ている。皆、真剣。誠実の闘争の姿である。婦人が、これほど社会の奥深くくいこんで、活躍するなんて、他の団体、社会には絶対にみられぬことだ。
世界一の婦人団体、文化の団体、婦人解放の組織、そして、主体性ある近代の人間性の団体、生活向上の団体、これ、創価学会婦人部の異名か。
偏狭な人がいる。慢心の人がいる。自分勝手の人がいる。戸田先生を嫌いな人がいる。その人たちを見ると、心憎い思いがしてならない。
尼崎市立公民館にて、御書講義。
疲れか、否、勉強不足か、名講義にならず。
16 一月十七日(日) 快晴
午前中、関西本部在。
午後、華陽会、水滸会、地区部長会、地区担当員会、総ブロック長会等、全会合に出席。
疲労のなか、奮闘。気管支炎か、胸が苦しい。声が苦しい。
午後六時──関西総支部幹部会。中之島公会堂。外もいれて、一万名以上の出席者とのこと。二度にわたり、質問会を。
原則論よりも、抽象論よりも、確信論よりも、具体的な解答指導の、最も大事なりしことを反省する。
夜九時より、T君の入仏式に出席。
就寝、二時を過ぐるか。
17 一月十八日(月) 快晴
大阪発の特急にて、一路東京へ。
多数の幹部が、見送りに来てくださる。寒いのに恐縮する。将来は、決してこのようなことのないよう、自分から戒めたい。
車中、静岡付近まで休む。完全に風邪をひいたらしい。
サートン著の『科学史と新ヒューマニズム』の続きを読む。いつの日か『科学と宗教』執筆の参考としたい。
横浜駅より自宅に帰る。タクシーにて。
その旨、本部に電話。
18 一月十九日(火) 晴
体重が減ってくる。
昨年四月より、三貫目も痩せるか。困ったものだ。病魔、死魔は、厳しく、恐ろしい。
妙法の信あれば、本有の病にして、大悪これ大善にかわらぬわけがない。この一年で、必ず回復してみせるぞ。罪業の消滅ということは大変なものだ。
重い身体をして、本部へ行く。幾十貫の錘を、背に入れているようだ。
登山会の会合に出席。輸送部の幹部を指導。しかし、自己自身が共に苦しまずして叱りしあとの、自分を常に反省するなり。
頑張れ、頑張ってくれ、若き輸送部の幹部よ。可愛い青年を厳しく訓練して、次の学会を護ってもらう以外に、途がないのだ。
午後六時より、男女の青年部幹部会に出席。
安保条約改定調印について、一応の見解を話す。
早めに帰宅。身体を休める。
題目、三千遍あげる。信心の前進即人間革命の前進。
19 一月二十日(水) 晴
岸全権ら、アメリカにて大歓迎との報道あり。ノーベル平和賞候補とは、全くおそれいる。世界の平均的頭脳というものが、次第にわかってきた感じ。
まさしく、日本も、アジアも、世界も、悪循環の歯車が回り始めた思いあり。
学会本部、日一日と活気を呈す。無言のうちなれど、何かを願い、何かに向かって胎動しているごとく。
戸田先生の、遺品結集始む。
長く保存し、学会精神を、後生に残したいものだ。長く。永く。
千代田劇場に、ご遺族を招待。
終わって食事。心より喜んでくださる。
最近、つくづくと想う。人間、一生の遠征ということは、実に大変なことである──と。少年時代、青年時代は、簡単であることも知った。とくに、三十代、四十代、五十代、六十代の人生は、責任も深くなり重大であることを──。
人生とは生存競争か。弱肉強食か。優勝劣敗か。冷酷か。因果か。なんと峻厳なることよ。
恩師戸田先生は、立派な人生であられた。
人間として、事業として、総仕上げとして。
20 一月二十一日(木) 快晴
向島・常泉寺にて、講義。
帰り、友数人をさそい、神田にて天ぷらをご馳走す。
21 一月二十二日(金) 晴
羽田空港より、午前十一時発の日航機にて、九州へ。
八女の講義。送ってくれる人、妻一人、静かなり。
22 一月二十三日(土) 晴
福岡の講義。元気なり。
23 一月二十四日(日) 曇
小倉にて、福岡支部幹部会。盛会。
久しぶりに「九州男子の歌」の指揮をとる。
参加者、一万五千名とのこと。
寒い寒い三日間であった。
″百聞は一見にしかず″か。暖かと思った分析の甘さか。風邪ぶりかえす。この九州を、関西と同じく愛していこう。
24 一月二十五日(月) 晴
朝、幹部一同にて、俳句大会を催す。
皆、なかなか上手につくる。
わたくしは、
前進の 東洋広布に 恩師あり
とつくる。
午後四時、日航機にて帰京。
25 一月二十六日(火) 快晴
旅の疲れか、今日も苦しい。
朝、題目をあげ、身体の平癒を願う。
午後、本部幹部会の打ち合わせ。第一応接室。
理事全員、老いたる理事、若き理事、保身の理事、捨て身の理事──この姿を、否、胸の中を、胸の奥を、牧口先生、戸田先生が、厳しく見ておられる思いであった。
六時、本年最初の本部幹部会。台東体育館。
折伏の息吹に溢れた、元気ある会合。
若手の戦士は真剣に叫び、自ら旗手になっている。先輩理事も次第に確信が出てきたようだ。
帰り、理事たちと、神田にて食事。皆、顔が明るい。
遅く、母来る。いつも変わらぬ子を念う母の姿。哲人よりも、政治家よりも、大学者よりも、平凡のなかに偉大に思える母。大事にせねば、護らねば。
26 一月二十七日(水) 快晴
寒い日が続く。
寒椿が咲いた。強く、逞しい、生命力がある。
昨日、母に小遣いをあげることを忘れ、残念であった。
日蓮正宗総本山より、お代替りの儀式の発表がある。学会は、十万名の総登山を決行することにする。
隆昌の正宗。
学会の現状。近く、梅の花が咲こう。桜の花が満開になってゆこう。
夜、H氏、その他数人の友らと、食事をしながら、未来の学会の構想を語る。
真剣な眼差しの、若き将たち。
今日一日も、無理をしすぎる指揮。
学会の将来も、広布の未来の責任も、自分ひとりになってしまった。
友らは、その点、まだまだ楽である。
帰宅後、ひとり、大客殿建立のことを練る。御供養の時期、御供養の精神、その指導、発表の仕方、委員のメンバー、起工式の日取り、完成の時期、設計業者等々、ひとりで考え、ひとりで雄大なる広布の、構想を考える。
因果の二法なれば、その福運も大であろう。恩師に歓んでもらいたい。
恩師が見ていてくれれば、万事それでよし。
子供たち、すくすくと伸びゆく。その寝顔と軒が‥‥。
妻、いつも寝るのが遅くて可哀想。
身体を大事にしてもらいたい。
27 一月二十八日(木) 晴
寒い日。
風邪気味。弱い体質が悔しい。
夕刻、理髪店へ。
本部に、遅くまで在。
各部の幹部を指導。
世間の人びとの悪口など、気にしていられぬ。
前に進む以外、今の学会は何もない。
証拠をつくることが大切。
結果を示すことが大事。
夜、『マルキシズムと宗教』を読む。三十年も前の本であった。
東洋哲学と西洋哲学とについて、小論文を書く。先生の教示、指導法を、忘れぬうちに。
28 一月二十九日(金) 快晴
午前中、先生のご遺族と談合。
夕刻、本部にて、理事懇談会。
小生、風邪気味にて、気分悪し。
九時過ぎ散会。
学会の首脳は、時を知り、時に対応せねばならぬ。
私は一生涯、学会幹部、後輩を護ってあげよう。若手の理事たちの健康を心配する。
「寒山詩」を読む。
貧人好聚財 貧人の財を聚むるを好むこと
恰好梟愛子 恰も梟の子を愛するがごとし
子大而食母 子大にして母を食う
財多還害己 財多ければ還って己を害う
散之即福生 之を散ずれば即ち福生じ
聚之即禍起 之を聚むれば即禍起こる
無財亦無禍 財なくして亦禍なし
鼓翼青雲裡 翼を鼓つ青雲の裡
*
人生不満百 人生百に満たざるに
常懐千載憂 常に千載の憂いを懐く
自身病始可 自身病い始めて可えにしに
‥‥‥‥‥ ‥‥‥‥‥‥‥ (読み下しは編集部で補足)
『三隠詩集』というときは、寒山と豊干、拾得の詩を併せていうなりと聞く。私は、杜甫の詩のほうをはるかに好む。
29 一月三十日(土) 快晴
午前、午後にわたり、本部の幹部と打ち合わせ。
指導、教示、叱咤、激励。多忙なり。
東京四時三十五分発の電車にて、熱海へ。父の招待。
妻、城久の三人にて。
D荘より自宅がいいと、子供はいう。
あくる朝、熱海域へ。実に面白くなし。
四等国の遊園地かと、いえる人あり。
身体の調子悪く、自宅まで車で。
途中、吐き気あり。子供も。
六時少々前、帰宅。すぐ横になる。
運動をせねば。少々読書。
『平家物語』‥‥
平家の滅亡は悲劇であった。その根本原因はいずこにありや。深く分析、思考する要あるなり。逆境にある人生に、美しく、端然たる人あり。その名、薩摩守忠度、その人か。平家一門のなかに、冴え映える青年将軍よ。詩人将軍よ。激動と逆濤にありて、われもかくありたし。
戦死、覚悟の詩人と、俊成卿との会見。一幅の生ける絵のごとし。生ける人生劇場の縮図にやあるらん。悠々たる作詩。優遊たる心境。その出陣に見る毅然たる態度。和歌それ自身の姿。われ感動あり。