Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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昭和三十一年(十二月)  

「若き日の日記・下」(池田大作全集第37巻)

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2  十二月二日(日) 快晴
 恐ろしき夢で、六時頃、目を覚ます。限りなき苦悩。うつつに戻れしも。生命の不思議、自己の内在の世界の、妙法湧現のあらざる証拠。まさに悪夢。死後の生命の地獄界を憶う。妙なる夢でありたい。
 午前中、ひとり大衆風呂へ行く。
 夕刻まで横になりながら読書。
 妻の母、来る。いつも優しき母。実家の母を恋う。
 母と妻に、帯を買う約束をする。ぼくの最高の贈りものである。美しくあれ、幸せであれ。そして、愉しくてあれ。
 夜、指導部運営会議に出席──本部。十時過ぎまでかかる。
 理事室の、聡明を期待すること大。利己主義、権威主義を憂う。未来のため、有為な人材の意見を、謙虚に聞け。それが、先生の意思だ、指導だ。
 おそく帰宅。「流浪の民」「美しき天然」等を、妻と共に聴く。
3  十二月三日(月) 晴
 一日一日が速くなって来た。特に師走は――。
 体力と精神と頭脳の三者が揃わねば、偉業は達成できないようだ。色心連持──″生命は、所詮、一念に過ぎず″だ。その一念は唯心でなく、色心不二の一念である。これを妙法という。
 午後、先生と三十分ほど、お話をする。厳しき師、優しき師――。
 六時三十分──本部──部隊長会議。
  ① 五十万世帯の推進
  ② 青年部総会の式次第決定
  ③ その他
4  十二月四日(火) 晴後雨
 自己の修養に、努めねば、大器の将軍になれじ。
 一日一日、信心に依り、行学に励め、而して見識の人に進まねばならぬ。
 家康の訓話に、またおもう。
 ″人間の、その一生に三段の変り目あり。よく心得べし、まず十七、八歳の頃は、友人により悪く染ることある。三十歳頃は、物事に慢心出でて、老功者をも、尊敬せぬようになるものだ。四十歳の時分は、物事退屈し、昔を述懐するようになり、心弱くなるべし″
 吾人の身を、よくよく反省すべし。而れども、文面白し。
 父より″慢ずる者 久しからず″と訓され、これに莞爾として″慢ぜざる者、又久しからず″と答う。
 これ又、頼もし。
 七時──青年部、本年最後の幹部会。
 ″進まざるを退転と申す″の金言を中核に、自身も、部隊も、青年部も、進展しゆく事を指向する。
 参謀室と、本部第一応接で懇談。
 ひとり侘しき思いで帰る。
 人は皆、唯我独尊なり。
5  十二月五日(水) 快晴
 二時より、国会へ、日ソ交渉批准の決議を聞きにゆく。約二時間となる。妻と共に。未来、広布の舞台を、思いつつ。
 中野にて『折伏教典』の講義。割り合いに調子よし。終わって、多くの人の相談にのる。
 豈冥の照覧恥かしからざらんや地獄の苦み恐るべし恐るべし慎むべし慎むべし。(持妙法華問答抄)
 『太閤記』──読了、二回目か。小説を書く時の参考と憶いながら。
 十二時過ぎまで、妻と語る。美しく輝く、静かな家。
6  十二月六日(木) 晴後曇
 先生と、久しぶりにお会いする。
 父(妻の)に、先生持参の、金時計と、金鎖を戴く。誠に、もったいない。私より父に届ける。
 暖かな、平和な一日であった。
 十日より十六日まで、折伏強化週間と決まる。
 先生、折伏の師ならば、われも折伏の弟子である。学会が、折伏の唯一の宗団なら、折伏の戦士が、最高の名誉の戦士となる。此の本質の大道を決して忘れるな。
 夜、自宅にて、H君等と「御義口伝」の講義の勉強をす。寿量品を終わる。
 三年後の自分の姿は、と思う。そして、どうせねばならぬか、を考える。
7  十二月七日(金) 快晴
 一日中、調子悪し。体力なきことを悲しむ。くやし。淋し。こんな調子では、未来の偉業が、達成できるか。幾歳にて死する運命なるや。
 ″一身一念、法界に遍す″の原理なれば、信心の一念が、此の生命、肉体の世界を、自由に改革できぬわけがない。
 夕刻、東京駅の理髪店へ。その足で、常在寺の組長会(文京支部)に出席。終了、十時近くなる。
 帰り、細井先生に、二、三の話を伺う。
 一、佐渡始顕の本尊全くなし。
 身延山では、明治八年に之れを焼失。その写し此れありと、強く主張しているなりと。大聖人の文証には、全く之の事実之れ無し。
 田中智学の我見、我執の根拠、全く之れ無しと。
 二、日蓮大聖人の、花押は、文永、建治、弘安と三種之れあり。同じようなれども、時代で之れ相違あるなり。本尊の花押、此れ又同じ。但し御書の花押は、少々違うものも之れありといえども、三種の段階に違いなきなり。
 三、日蓮大聖人の御真筆は、総て″釈提桓因″を使用せり。これ梵語の原語にして、之れを、漢語になおせしものなり。之れを、日興上人以来の法主が、日本の″帝釈″の語に、なおせしなり。
 五反田駅まで、妻と、博正、迎えに来てくれる。三人にて、楽しく帰る。永遠にかくあれ。
8  十二月八日(土) 晴れたり曇ったり
 女子部の総会。──午後六時。場所──川崎市民会館。終了、八時三十分なり。
 一時より、種々打ち合わせのため、会場へ行く。開会の時には全く疲れきってしまう。愚か。
 盛会‥‥参謀室長挨拶を、約五分なす。
 ″鳳凰は木を択んで住む、人も師を選んで人生を生きるべきなり″という主眼なり。
 帰り、女子部長達と少々語り、蒲田にて、T、U等とコーヒーを飲み、侘しく帰る。
 疲れ、すぐ休む事にす
 過去、それは、雲の如く、夢の如し。本有。
9  十二月九日(日) 曇後雨
 朝六時少々前に起き、登山。心身共に疲れ、やっと起きる。十一時少々過ぎ、総本山着。
 大奥にて、先生と共に、御法主上人猊下に、お目通り。二か月ぶりである。つづいて、御隠尊猊下に、御目通り。蓮成坊にて。
 小雨あがり、もったいない、ぐらいの上天気となる。
 二時、御開扉。苦しき難行が、終了と共に、暗雲、晴れたる心地。一念か。いな、大御本尊の偉力を、ただただ感ず。不思議な力。事実の力。
 三時三十五分──富士宮──身延線にて──富士──四時五十七分発にて東京へ。
10  十二月十日(月) 快晴
 私の生涯に、忘れ得ぬ日となる。十二月十日、午後八時三十分、父死去。享年六十八歳。死因、心臓老衰。皆が、テレビを見ている間に死との事。
 私を、これまで育ててくれた、厳しき、優しき父が、死んでしまった。鳴呼。大なる親孝行できず、残念。われ、二十八歳。旧き、実直な父。封建的在、誠実な、スケール大なる父。
 無口の中に、一度も、叱られしことなきを反省す。鳴呼。静かな、安祥とした遺体を前に、御守御本尊様を奉戴し、読経、唱題、回向を一時間。
 残されし、悲しげな母の姿に涙す。父と母との愛情‥‥父と子等との父子の情。
 久しぶりに会う、兄達。そして兄弟親戚。
 先生より、種々の御配慮を戴く。感謝。
 T氏、並びに同志の方々来て下さる。感謝。
 近所、隣人の方々の多数来て下さる。感謝。
 貧しき一軒の海苔製造業者の死であるが‥‥。
11  十二月十一日(火) 快晴
 十年ぶりに、実家に泊まる。兄弟、親類の者、十数人にて。やはり、家には度々来なくてはならなかった。痛感。過去は止むを得ぬ。これからだ。
 午前中、父の遺体を横に、御守御本尊に唱題三時間。最高の親孝行ができたと思う。
 二時、入棺‥‥。母慟哭す。五十年の父との旅。母の心情は、心境は誰人にもわからぬであろう。長い、楽しい、苦しい、旅路であったことであろう。英知、地位、財産、虚栄、すべてを超越した、真実の愛の妻の涙であろう。
 ああ平凡の中の、偉大なる母、そして父よ。
 愛別離苦。南無妙法蓮華経。
 此の永劫の離別の苦しみ。この絶対の解決こそ、仏法以外になき事を、唯々念う。
 先生、二時五十分羽田発の飛行機で大阪へ。あい間をぬって、空港へ。妻と共に、お見送りす。
 ″自己のことは、自己が解決、開拓せよ″との無言の指導あり。強き信心。強き強き戦い。
12  十二月十二日(水) 晴
 朝、空虚を感ずる。父の告別の日だ。
 永遠の別れか。方便現涅槃か。仏法を学する者の重大事である。
 白木の父と、妻と、私と三人にて、最後の方便寿量、題目の追善供養をなす。私の最大の味方、決定せり。
 出棺、十二時丁度。学会からも、多数の方々が参列して下さる。有り難い。
 桐ケ谷の火葬場へ行き、大森の墓地へ。そして、本家に。四時になる。八時まで、親戚等と夕飯を共にす。この三日間は、あまりにも苦しかった。
 九時、帰宅。久しぶりに、よく休む。
 父の夢を、ありありと見る。ひとり風呂に入り、顔、紅潮させ、楽しそうに、臨終しゆく姿を。あまりにも明確なる画面にて、忘るること出来ず。
13  十二月十三日(木) 快晴
 初七日を営むため、墓地の寺院に、来るよう連絡あり。日本の封建的、無駄と伝統の、非文明的行事に、憤りを感ずる。
 十一時三十分──大森の墓地へ。誰人も来たらず。墓前にて、ひとり読経。
 十二時三十分──皆、集まって来る。母の元気の姿に、安堵す。嬉しい。
 六時、会長室へ、妻と共に、一切の報告と御挨拶に参上。
 一首脳、側にいて共に挨拶。実に権威主義の、生意気な幹部になってしまった。先生の心も知らず。先生の力と、組織の力で偉くなったことを、忘れゆくピエロになること勿れ。
 いくら偉くなっても、戚張るな。人生は、先輩、後輩の姿を、慈愛と道理で築かねばならぬ。さなくんば、所詮、人材は出でず。
 早目に、床につくようにしよう。明日の為に。
14  十二月十四日(金) 快晴
 再び建設、前進、自己の。元気を出して。止まるな、弱き自分よ。
 昼、会長室にて、先生より食事を御馳走になる。有り難い。
 夜、池袋O宅にて、地区部長会。皆元気あり、折伏の準備、万全。
 「上野殿御返事」の講義をする。
 逆即順の法華経の″妙″の一字の功徳に結しゆく意義。
 帰宅、十二時になる。月光、吾が家に入る。丈夫の心洗う。歴史の流れ、今、盛んなり。
15  十二月十五日(土) 快晴
 先生、お身体悪し。お疲れのところ、お寒いことと、心配する。上野より仙台へ行かれるとの事。ああ、われ軽率であった。お止めすればよかった。ああ、われ若かった。別に代理をいかせればよかった。
 厳然と高熱の身で、広布に進みゆく師の姿‥‥。
 夜、橋本の正継寺へ行く。相模原方面の指導。頭の中、嵐の如し。
 此の地も、信心の息吹が涌出。結局は、汝自身の総在一念で、対境は決定されるものか。
16  十二月十六日(日) 快晴
 よく休む。実によくねむる。ここ一週間の心労、全く癒ゆ。妻‥‥よく面倒をみてくれる。心から感謝。あとの世界は、嵐と怒涛の戦塵である。
 妙法に生き、妙法の革命児と共に尽くす、妻。御本尊も、微笑、照覧の事と信ず。
 地位が何だ。役職が何だ。名誉が、人気が、何だ。
 午後、S宅へ行く。仲人として。御馳走になり、七時、失礼す。妻と共に。
 帰り、白木宅へ、暮れの挨拶。弟達に、自分の背広や、オーバーを、歳暮として贈る。
 少々、両親と雑談して、自宅に。
 子らの、寝顔の、なんと可愛い。
17  十二月十七日(月) 晴
 好天がつづく。
 初七日、父の事を偲ぶ。
 よく、子供のことで、母と喧嘩した、口べたな父。子供のことが心配で、東上線で、子供を迎えにゆく父。子らの入営、出征にも、ただ笑って送り出し、黙々と、荒仕事にいそしんで来た父。強情といわれ、正義一本で生きぬき、損をして来た父。不動の熱心な信者であった父。馬上の青年時代を誇っていた、背の高い、どこか大人たいじんの風のあった父。
 子宝の両親。兄達の出征。苦労してきたことであろう。胸が熱い。しかし、晩年数年間の、仲良しと、安穏は、大王よりも、幸福生活(精神的)であったと、僕は信ずる。
 父に題目をおくろう。如来の使いとして。
 夜、金沢文庫へ。文京支部、第五方面組長会に出席。集まれる人、約七十名。二時間ほど、真剣に指導。此の地に栄光あれと祈りつつ。
 帰宅、十二時近くになる。寒さ厳し。
18  十二月十八日(火) 快晴
 先生と、先生宅にて、食事を戴く。有り難い。石橋湛山論になってしまった。決選投票の作戦等。先生の洞察力に驚嘆。ああ、不世出の師。
 われも弟子として、孔明に負けぬ、世界広布の智勇兼備の将になりたや‥‥と思う。十年後、幾千万の指揮をとる運命なれば。
 夜、参謀会議開く。全員出席。
  ① 来年度の行事決定
  ② 東日本、東京、西日本と三分割して、総会並びに体育大会を催す事
 帰り、Z君らと、新宿にて会食。
19  十二月十九日(水) 快晴
 朝寝坊。
 一日の人生の闘争のスタート、遅れる。決意と、生活設計を、考慮の事。我が儘な自分。
 生活費が少々足らぬとの事。自分の小遣いを考える必要もある‥‥。
 夜、理事会。部隊長会。参謀会議。多忙。
  ① 全部隊長に、手紙を出してあげたい。
  ② 先輩達が、後輩を心から大切に。
  ③ 妙法根本の指導であれ。
  ④ 部隊員の生活、経済を心配する事。
 三十にして起ち、四十にして不惑、五十にして天命を知る、と。
 日蓮大聖人の弟子は、‥‥年齢にて、区切りをつける必要はなかろう。因果倶時である。一念三千である。使命感である。異体同心であれば。
 ともあれ、信心による人間革命だけは、生涯必要。これ、絶対に、根本なり。
20  十二月二十日(木) 晴
 日記を誌すことは、自身の片鱗を、刻むことか。歴史を残すことか。自由の対話か。ともかく書こう。
 しかし、真実の境地を書ける時と、書けぬ時がある。ずるいものだ――人間は。
 朝──早起きしたい昨今。惰性になる生活。
 夕刻、部隊長、揃って会長室へ。先生″帰れ″と叱る。意味わからず。困った。しかし自分は誠心で進むだけだ、どうでも良し。
 石橋湛山氏、内閣の首班に指名さる。時代は、厳しく動きゆく。
 自己を磨け。学会も進め。
 帰り、矢口へ寄り、″そば″を御馳走になり、帰宅。
21  十二月二十一日(金) 晴
 一日中、頭が重い。青春の心境は、変化が激しいものだ。
 日々、寒さ増す。しかし、身体強くなりゆくを知る。嬉し、嬉し。
 御書を、拝読することを忘るな。
 小説を、読むことを忘るな。
 経済、政治の勉強も、そろそろ、本格的に。
 先生の事を、一日中念う。師弟の厳しさ。
 六時、本部幹部会。場所、豊島公会堂。
 五万八千六百九十四世帯の折伏完遂。本年の最後を飾る。これで、五十万世帯の人々が、御本尊様を受持したことになる。ただ、恐るるは、御本尊の流布の乱雑なり。
 常在寺にて、宴会。
 帰り、お母さんと、Fさん、自宅に寄る。ゆっくり、雑談。楽し。
22  十二月二十二日(土) 快晴
 明日は青年部総会。
 午前中、二軒、歳暮。
 夕刻、一時間、先生と懇談。常に深く、厳しい、師匠である。
 東京体育館へ、予行の練習に行く。寒き晩であった。喜々として励む、青年たち。輝く瞳。十年先を、じっととらえて待つのだ。
 いかなる総会にも、いかなる大事な闘争にも、誰人にも認められず、誰人の喜びも考えず、誰人の感謝も欲せず、いつも、ただ陰にて全魂を傾け、指揮と、くさびを打つ自己──その宿命に、徴笑を浮かぶ。
 妙法の照覧を、私は堅く信ずるようになれた。ああ。
 遅くまで、読書。横になりながら。来年は、来年は、必ず、勉強しよう。誓う。自身に。
23  十二月二十三日(日) 快晴
 第五回男子青年部総会、遂に来る。
 俺は待った、此の総会を。東洋一を誇る殿堂──東京体育館。未来の、世紀の若人に、ふさわしき場所なり。
 九時三十分――会場へ到着。恐ろしきほどの″動″を感ずる。
 午前中――大レクリエーションの名称のもと、体操、音楽等を催す。
 整理に十一時過ぎまでかかる。信心なき青年もある模様、直観す。大信力で指揮をとるのみ。
 戸田先生──一時到着。
 御法主上人猊下も、最後に御到着。
 結集人員──二万名。
 先生、″アジアの民は君等を待っている″との講演。登壇者、みな張り切っている。ともかく──盛会裡に終わる。学会の歴史の、一ページを飾りゆくにふさわしき、立派な総会であった。
 四時──「五丈原の歌」を合唱しながら、感慨無量の心情に包まれ、閉会す。
 五時より、Nにて、先生より、中華料理を御馳走になる。疲れきったせいか、あまり、食べられず。
 平坦な道を悠々と歩むより、峨しき山を登ろう。革命児は。
24  十二月二十四日(月) 快晴
 身体の具合悪し。微熱あり、三十七度七分。風邪、腹痛、胸痛等。
 常楽我浄の人生を、信心を、満喫できるのは、いつの日ぞ。
 罪も、罰も、業も、たしかに、此の生命にはあるものだ。
 Mさんに、大変お世話になった。Iさんと、二時間ほど談合。いつも変わらぬ人だ。偉い人だと思う。
 夕刻、目黒の先生宅へ、お歳暮にあがる。
 身体の具合、夜まで悪し。
25  十二月二十五日(火) 快晴
 一日中、心身共に不調。悔しい──淋しい。元気になりたし。皆は元気なのに。
 一昨日の、Nにての会食の事で、先生は厳しくお怒りとの事。私は驚く。何が原因でお怒りなのか。──考えてみれば、事実、その原因はありそうだ。いつも、いつまでも、厳しき師。反省せねば。所詮、師の意中のわからぬ自己の浅はかさか。師の意中にまで、弟子を、引きあげて、境智冥合させて下さる、大愛か。ああ。
 夜、目黒のお宅へ、お邪魔する、お叱りを覚悟で。
26  十二月二十六日(水) 快晴
 一日中、身体の調子悪し。死を感ず。いやな運命──。信心だ。自己と断固戦うことだ。本年最大の病苦か。
 さあ、自分との、真実の闘争を、来年から開始だ。自身の病魔に勝てるか、負けるか。栄えゆく青年になるか、滅びゆく自身に終わるか。
 六時──M宅へ、妻と御歳暮にあがる。
 帰宅、十一時をまわる。思うこと多し。疲労困願の身に、部屋、寒し。
 明日は、全体会議。種々思索。
27  十二月二十七日(木) 快晴
 無理して、今日も出勤。責任上、一日たりとも休んでいられない。無理が、いい悪いは別として、″生命″は実に不思議なものだ。全く無理もきくし、休んでいる時より、調子がよくなる場合もある。
 先生より、演繹法と帰納法の話あり。
 西洋哲学のリッケルト──新カント学派の認識論と、東洋仏法の唯識論は、正反対である。西洋哲学は″六識″より認識が出発する。そして、″七識″″八識″″九識″にいたる。
 これに反し″九識心王──真如の都″を出でて、″八識″″七識″″六識″にいたるを、『仏法』なりと。
 演繹的──民族。帰納的──民族。いずれが、勝るか。その中道が、必要か。未来は──。
 全体会議中、先生の、少年時代、青年時代、そして牧口先生に、お仕えされたお話に、感銘多々。胸中に、脳裡に。
 師を守り、師に仕え、広布の楔を、鋭く深く打った、先生の、言々句々、満足そうなお顔。
 来年は── 勤行を、真剣に。
      心身を、鍛える。
      境涯を、磨こう。
      教学の、実力を。
 来年こそ、来年とそ、自体顕照を。
28  十二月二十八日(金) 曇
 先生の、お身体がお悪いとの報告を、秘書室より聞く。心配す。二、三日、自宅にて、ご静養するとの事。そうして戴きたい。
 激越な一年の、お疲れがお出になったのであろう。師も病み、己れも病む。悔し。何故、内外の人々は、健康なのか。
 歳末の経済、心配していたが、不思議に何とか、年を送れそうである。冥益なり。
 先生からの、電話を待てど、来たらず。淋し。明日は、必ず──。

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