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日蓮大聖人・池田大作

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為凡夫顛倒。実在而言滅。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
3  〔講義〕以前に出てきた「顛倒(転倒)の衆生」と同じ趣旨です。仏がずっといると思うと、おごる気持ちや、わがままな心を起こし、五欲に執着して悪道に堕ちてしまう。それでは、とても成仏などできない。そこで、仏は方便として入滅を説くのです。どこまでも、民衆の成長と自立のために法を説く──これが仏の慈悲です。
 しかし、「凡夫顛倒」とは、じつに人関心理の機微を言い当てた言葉です。羅什の名訳です。仏を待ち望み、その教えによって救われたいと願いながら、仏に甘え、しだいしだいに自分の弱い心に食い破られ、仏道修行を怠り、ついには悪道に堕ちてしまう。せっかく三世永遠の法に出あっていながら、目先の利害や欲望に目がくらんで、信じたり疑ったりと揺れ動く。
 戸田先生は、「仏法上からみないで、世の中のことから御本尊をみて疑う者は、世の中を引っくり返して考えている者であります。こういう者は、生命観においても、永遠の生命であるにもかかわらず、ただ滅するのだとみているというのであります」(『戸田城聖全集』5)と述べられました。まことに、そうした移ろいゆく人間の心を達観し、何とかそれを仏の境涯に引き上げようとされる仏の御苦労が、しのばれるではありませんか。
 大聖人は、池上兄弟とその夫人たちに、「初めは信じていても、世間が怖いために妙法の信仰を捨てる人は数しれません。その中には、かえって、もともと誹謗している人々よりも強く謗る人々が、また、たくさんいるものです」(御書一〇八八ページ、通解)と教えられている。もともと誹謗している人々よりも強く謗る──妙法に不信を起こし、退転する「顛倒」の人間たちの方程式です。
 大聖人は、四条金吾に「ただ世間の留難が来ても、とりあってはなりません」(御書一一四三ページ、通解)と仰せです。世間の低次元の中傷など、いちいちとりあわず、この成仏の直道を朗らかに歩んでいくことです。確固不動の、自分自身を築き上げていくことです。
 戸田先生は、″久遠の凡夫に帰れ″と言われた。また、ご自分のことを「立派な凡夫」と、誇りをもって言われていた。私たちも、どこまでも「妙法の凡夫」「心深き人間王者」でありたい。
4  幸福への無上の道とは「法華経なり」
 次に「我常知衆生 行道不行道 随応所可度 為説種種法」とあります。仏は、つねに民衆が仏道修行に励んでいるかどうかを知って、適切な救い方を自由自在に用いて法を説くというのです。
 この「行道不行道」について「御義口伝」では、「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは行道なり唱えざるは不行道なり」と仰せです。また、「道とは法華経なり」とも述べられている。
 戸田先生は、ここは「御本尊の偉大な御力を説いている」と言われた。
 「行道というのは、御本尊を信じまいらせて折伏すること、不行道とはやらないことであります。御本尊はそれを知ろしめして、その人の態度にしたがって、どうして救おうかと考えられて、罰と利益とを出してくださるというのであります。信心しないからといって憎みあそばしてはいないで、それにおうじて救ってやるのだ、行道、不行道は、きちんと仏はわかっておいでだというのであります」(『戸田城聖全集』5)と。
5  陽気に幸福の大道を楽しく進もう
 だれが戦っているか、戦っていないか。御本尊は、われわれ凡夫の生命の奥の奥まで、全部、分かってくださっているのです。私どもは、この冥の照覧を確信しきって、まっすぐに進んでいけばよいのです。「道」です。私たちが歩んでいるのは、妙法という道です。そして、この妙法を世界に弘めゆく、広宣流布という「無上道」です。最高の「幸福の大道」です。
 「大道の歌」──民衆詩人ホイットマンの響きが、私の心に再び浮かんできます。魂の戦友です。
 「徒歩で、陽気に、わたしは大道を歩き出す」
 「今から後わたしは幸運を求めない、このわたし自身が幸運なのだ」
 「家の内での愚痴や、知ったかぶりや、あら捜したらだらの批評など飽き飽きした、
 力強く、満足して、わたしは大道を旅する」(『詩集 草の葉』富田砕花訳、第三文明社)
 愚痴や、知ったかぶりや、あら捜しの批評──。詩人も、人間界の姿をよく知っているものです。こんな低い次元は笑い飛ばしていけ、と呼びかけているのです。
 幸福は、どとにあるのでもない、私自身が″幸福そのもの″──私どもは、この気概で、人類貢献の大道をまっすぐに進んでいきましょう。にぎやかに、「歓喜」と「友情」の口笛を吹き鳴らしながら!

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