Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

如医善方便。為治狂子故。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
1  如医善方便。為治狂子故。実在而言死。無能説虚妄。我亦為世父。救諸苦患者。
 医の善き方便もて 狂子を治せんが為めの故に 実には在れども死すと言うに 能く虚妄を説くもの無きが如く 我れも亦た為れ世の父 諸の苦患を救う者なり
2  〔通解〕──たとえば、(良医病子の嘗えで述べたように)良医である父が、巧みな方便で、本心を失った子どもたちを救うために、実際には死んでいないのに死んだと言ったのを、だれもうそつきだと言う者がいないように、私もこの世のすべての衆生の父であり、彼らの多くの苦しみや患いを救うのである。
3  〔講義〕自我偈は、仏の永遠の生命という″奥義″を、美しい詩の響きで伝えています。哲学的に論ずれば、寿量品には重要な法理がぎっしり詰まっている。それは、後の天台の研究などに見られるとおりです。
 しかし寿量品の釈尊は、それを論ずるよりも、詩の響きに託すことで、より深く豊かに、民衆の心に語りかけていきました。「心から心へ」呼びかけた。ここに釈尊の偉大さがあるのです。仏の境涯の真髄である自我偈の響きにふれながら、釈尊滅後の人々は、釈尊の声を、心音を、はるかなる時空を超えて聴く思いがしたにちがいありません。ここにこそ、法華経が広く民衆に愛され、読誦されてきた理由の一端があるといってよい。
 私がつねづね「指導者は詩を学べ」「詩心を持て」と語っているのも、詩心のない指導者は、いつしか民衆の心から離れていってしまう。それでは人間の心を変えることはできない。本当に民衆を救うことはできない。このことを深く知ってもらいたいからなのです。さあ、その自我偈を、いよいよ大詰めを迎えます。
 ここでは、長行で説いた「良医病子の譬え」の結論を、再び力強く謳い上げています。
4  仏は″人類″を見つめる行動者
 良医である父は、毒薬を飲んで本心を失った子どもたちを救うために、方便を用いて、実際には自分は死んでいないのに、死んだと言って良薬を飲ませた。しかし、だれもそれをうそ(虚妄)とは言わないであろう、と。
 「それと同じく、私もこの世のすべての衆生の父であり、彼らの多くの苦しみや患いを救うのである」──このように釈尊自身が、人類を救う″父″であると、高らかに宣言している。これほど力強い経文はありません。仏の使命は、苦悩にあえぐ人類を生命の根底から救いきる大偉業なのです。
 この「我亦為世父」の経文を文底から読むと、どうなるか。日蓮大聖人は「御義口伝」で、自我偈の文には、本門の仏の「主・師・親」の三徳が込められていると仰せです。(御書七五七ページ)
 すなわち、
 「我此土安穏」──主の徳
 「常説法教化」──師の徳
 「我亦為世父」──親の徳
 であると、示されています。
5  大聖人とその門下は「一切衆生の父」
 そのうえで、「日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は一切衆生の父なり」と断言されている。つまり、妙法を唱え弘める大聖人とその門下は、全民衆を救う″父″である。そう自覚して、私の心を継いで広宣流布に進みなさい、と仰せなのです。まことにありがたい、大激励の御言葉ではないでしょうか。
 大聖人の「御義口伝」によって、法華経は、末法の全民衆の成仏のための大法として開かれました。この「御義口伝」によって初めて、仏法は真実の「民衆仏法」「人類仏法」となったのです。
 世界、人類、平和──口にするのは簡単です。しかし、だれが「本気で」「命がけで」そのために「行動」しているのか。世間は、エゴと欲望が中心です。″しょせん大事なのは自分だけ″という人のなんと多いことか。そうした社会の真っただ中で、顛倒した人々の中傷や迫害を身にうけながら、「全人類」の幸福のための行動を貫いているのは、だれなのか。
 釈尊です。日蓮大聖人です。その心を現代にまっすぐ受け継ぐ創価学会です。学会は「日本の柱」であり、「世界の太陽」です。
 世界には、信心はしていなくとも、人類のために真剣に戦っているすばらしい方々がたくさんおられます。私どもは、そうした世界の良識ある人々と手を取り合いながら、「救諸苦患者」の偉大なる使命を果たしていこうではありませんか。
6  諸の苦患を救う仏の強き約束
 ところで、あの「良医病子の譬え」の結末はどうだつたか、ここで思い出してほしいのです。
 良医である父が亡くなったと思った子どもたちは、悲しみの中で目を覚まし、父の遺していった良薬を服し、毒による病が癒えた。それを聞いた父が戻ってきて、子どもたちとめでたく再会した、という場面で幕を閉じていました。これは、何を意味するのでしょうか。
 結論すれば、釈尊の教え(良薬)を素直に信受する(服する)時、民衆の心に仏(良医)が戻ってくる(帰ってくる)ということです。われわれで言えば、御本尊への強盛な信心を貫けば、仏の生命が必ず涌現するという仏法の大功徳が述べられているのです。もともとなかったものが、突如として現れるのではない。本来あった仏の生命があふれでくるのです。蘇生です。再発見です。生命のルネサンスです。
 戸田先生は、この「我亦為世父 救諸苦患者」の経文について、「これは大御本尊のお言葉ととっていいのであります。我とは大聖人、御本尊のことであります。もろもろの苦患を救う者であると約束せられていますから、自我偈を読むときには、この、お約束を強く感じなければならないのであります。御本尊は、いろいろな憂いや苦しみのある者をば、かならず救ってくれるのだと、信じきってさしつかえないのであります」(『戸田城聖全集』5)と講義されています。
 御本仏の厳然たる御約束なのです。ゆえに私どもは、何があろうと・なかろうと、まっすぐに、「柔和質直」の信心で、進んでいけばよいのです。そこに必ず、無限の大生命力が涌き上がってくる。所願満足の″大いなる自分″ができあがっていく。このことを確信して、ともどもに楽しく前進しようではありませんか。

1
1