Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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神通力如是。於阿僧祇劫。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
1  神通力如是。於阿僧祇劫。常在霊鷲山。及余諸住処。衆生見劫尽。大火所焼時。我此土安穏。天人常充満。園林諸堂閣。種種宝荘厳。宝樹多華菓。衆生所遊楽。諸天撃天鼓。常作衆伎楽。雨曼陀羅華。散仏及大衆。
 神通力は是の如し 阿僧祇劫に於いて 常に霊鷲山 及び余の諸の住処に在り 衆生は劫尽きて 大火に焼かるると見る時も 我が此の土は安穏にして 天人は常に充満せり 園林諸の堂閣は 種種の宝もて荘厳し 宝樹は華菓多くして 衆生の遊楽する所なり 諸天は天鼓を撃って 常にもろもろの伎楽をし 曼陀羅華をらして 仏及び大衆に散ず
2  〔通解〕──(衆生を救うために姿を限したり、現したりするという)私の神通力は、このようなものなのである。
 阿僧祇劫という非常に長い間、私は、つねにこの霊鷲山にいるのであり、また、折にふれて、その他の場所にもいるのである。衆生が「世界が滅んで、大火に焼かれる」と見る時も、私の住むこの国土は安穏であり、つねに喜びの天界・人界の衆生で満ちている。
 そこには、種々の宝で飾られた豊かな園林や多くの立派な堂閣があり、宝の樹には、たくさんの花が咲き香り、多くの実がなっている。まさに衆生が遊楽する場所なのである。
 多くの天人たちが、種々の器楽で、つねに妙なる音楽を奏でており、天空からは、めでたい曼陀羅華を降らせ、仏やその他の衆生の頭上に注いでいる。
3  〔講義〕人生の目的は何か。幸福です。宗教の、また信仰の目指すものは何か。やはり人間の幸福です。
 では、幸福とは何か。幸福な人生とは何なのか──。
 その場限りの楽しみなら、世の中にあふれでいる。ただ、おもしろ、おかしく人生を送って、本当に幸福であるなら、それもいいでしょう。しかし、三世永遠の次元から見れば、そんな幸福は、まぼろしのようなものです。最後はむなしい。
 永遠に勝れざる幸福の実現を教えたのが仏法です。戸田先生は「絶対的な幸福境涯」と言われた。この経文で、学ぶところには、その真髄が説かれているのです。
4  御本尊はつねに″わが胸中″にある
 最初の「於阿僧祗劫 常在霊鷲山 及余諸住処」とは、文上から言えば、阿僧祇劫という長遠の間、仏がこの霊鷲山に常住しているということです。また、十方世界のどこにでも出現されるというのです。文底から言えば、私たち衆生がどこにいようと、どんな時でも、厳として、御本尊は私たちの胸中にある。生命から瞬時も離れず、つねに「私たちと共に」「私たちのそばに」あられる。いつも、一緒なのです。「常在」の二字を心に刻んでください。
 この後の「衆生見劫尽」の経文からは、二つの正反対の世界が説かれています。
 「衆生見劫尽 大火所焼時」。これは衆生の生命に映った苦悩の世界です。″衆生は世界が滅びる時が来て大火に焼かれていると見ている″というのです。まさに、苦悩と恐怖に満ちた地獄です。
 ところが、次の「我此土安穏」以下では、様子は一変する。ここには、安穏があり、躍動がある。喜びがあり、輝きがある。にぎやかな音楽があり、豊かな文化があります。これが仏の「大いなる境涯」から見た真実の世界です。
 二つの世界は、じつは「同じ世界」です。同じ世界が、衆生と仏では、全然違って見えている、違って感じているのです。日蓮大聖人は、衆生が見ている大火とは「煩悩の大火」(御書七五七ページ)であると仰せです。焼け滅びているのは、世界ではなく、自分の生命です。それに、恐れおののいている。
 それに対して、仏は″あなたたちは、何を恐れることがあろうか。何を嘆くことがあろうか。真実は、あなたたちが見ているのと、全然違うのだ″と諭すように、こう語り始めるのです。「私の住むこの国土は、永遠に安穏なのだ」と。
 この一言で、仏は、衆生の「小さえ境涯」を破っているのです。一切の衆生を、全人類を「仏の大境涯」に高めたいとの、大慈悲の言葉なのです。
5  境涯を開けば住む「世界」が変わる
 爾前経では、仏と衆生は「違う世界」に住んでいると説かれた。衆生は「こちらの世界」(裟婆世界、此岸)から、長い間修行を積んで、仏の住む「向こうの世界」(仏国土、彼岸)へ渡らねばならないと説いているのです。ところが、法華経寿量品では、仏はこの裟婆世界で、永遠に法を説いている。この世が仏国土だというのです。仏も、衆生も、同じ裟婆世界に住んでいると説くのです。
 御書には「餓鬼はガンジス川を火と見る。人は水と見る。天人は甘露(不死の飲料)と見る。水は一つであるけれども、それを見る衆生の果報(境涯)にしたがって別々である」(御書一〇二五ページ、通解)とも仰せです。見るものの「境涯」によって変わる。さらに言えば、自分の境涯が変われば、住む「世界」そのものが変わるのです。これが法華経の「事の一念三千」の極理です。
 日蓮大聖人は、御自身の受難の御生涯を、こう仰せです。「日日・月月・年年に難かさなる、少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」と。その大難の極限ともいうべき、佐渡流罪の日々にあって、大聖人は悠然と「流人なれども喜悦はかりなし」と叫ばれた。まさに宇宙大の御境涯から、一切を見下ろしておられた。
 牧口初代会長も、「大聖人様の佐渡の御苦しみをしのぶと何でもありません」(『牧口常三郎全集10』)と、獄中生活を耐えぬかれた。さらに、「心一つで地獄にも楽しみがあります」(同前)とも手紙に書かれている。当時の検閲で、削除された言葉です。
 生命の大境涯。ここに人間の極致があります
6  信心の″心″が崩れないのが「我此土安穏」
 今、私は、戸田先生のある日のお姿を思い出します。かつて、小説『人間革命』にも書きましたが、戸田先生の経営する出版社が苦境に陥り、ついに雑誌休刊の事態になった時のことです。当時、私は二十一歳。雑誌『少年日本』の編集長として、情熱を燃やしていた。それが突然の休刊です。ジェット機が急に止まったようなものです。それはそれは、大ショックでした。
 ところが、ふと、戸田先生の様子を見ると、まったく泰然自若、友人と楽しそうに将棋を指しておられた。この危急の時に、「何という先生だろう」──一瞬、理解に苦しみました。しかし、次の瞬間、私は、戸田城聖という人物をひしひしと理解したのです。「先生は健在だ。何も変わっておられない。あの姿は、われ再び戦うとの、闘争宣言なのだ」──その感動は、今も鮮烈です。
 いかなる運命の暴風雨に襲われても、わが大闘争心は微動だにしない。信心の「心」だけは絶対に崩れない。それが「我此土安穏」の境涯なのです。
 私は戸田先生の弟子です。十九歳で、先生のもとに馳せ参じてから、今日まで約半世紀の歴史を刻みました。幾多の嵐を、荒波を越えてきた。ゆえに、絶対に揺るぎません。
 戸田先生は、「御本尊様のあるあなた方の家は『我此土安穏』なんです」と、断言しておられた。また、必ずそうなるのだと教えてくださったのです。皆さまは、何があっても、断じて負けてはならない。どうか、「我が胸中の城は盤石なり」との大いなる気概で、境涯で、堂々の前進をお願いします。
7  生活の城を″心の宝″で荘厳しよう
 「天人常充満」から「散仏及大衆」までは、皆さまも日々読誦していて、楽しくなるような詩句ではないでしょうか。映像的にも、色彩的にも、音響的にも、まことに絢燭たるイメージの競演と言ってよい。法華経の仏の世界とは、こんなにも楽しく、明るく、にぎやかなのです。
 ここのところを講義される戸田先生も、楽しそうでした。また、同志を抱きかかえるような慈愛の声でした。当時は、昭和二十年代から三十年代の初めです。みんな、貧しかった。さまざまな悩みを抱えていた。どちらかといえば「大火所焼時」の姿です。それだけに、朝な夕な「園林諸堂閣 種種宝荘厳‥‥」と読んでいても、おとぎ話にしか思えなかったかもしれません。
 しかし、戸田先生は″この経文は自分に関係ないな、と考えてはいけないよ。貧しくたって、自分の生活を立派に「園林諸堂閣 種種宝荘厳」としていけるんだよ″と教えてくださった。
 ──たとえば、ミカン箱に、小さい木を何本か植えて、毎日、水をやって楽しめば、立派な園林じゃないですか。そして堂閣も、四畳半といえどもわが城なり、こういう確信に立って、宝をもって荘厳する。子どもが優秀な成績をとってきた。それを壁にはって、お父さん、お母さんが楽しめば、子どもの宝をもって荘厳したことになる。宝というのは、皆さんの「心の宝」をもって荘厳できるのです──と。
 このユーモアたっぷりの講義を聞いて、みんな「心」が晴ればれと広がったのです。″今は貧しくても楽しきわが家、それで何の不足があるだろうか。「心の宝」で立派に荘厳していこう、また、わが家を必ず「幸福の宝城」にしていこう″と決意したのです。
8  「心一つで変わる」のが人生の不思議
 たった一輪の花でも、すさんだ空気を一変させる。大事なのは、自分の環境を、「少しでも変えていこう」「よくしていこう」という「心」であり「決意」です。いわんや、真剣な信心の「心」で戦った人の人生が、生き生きと変わらないはずはない。幸福に、裕福にならないはずは絶対にない。それが仏法の方程式です。
 「心一つで変わる」。それは、人生の不思議です。しかし、まぎれもない真実です
 「バラの木が刺をもっていることに腹を立つべきでない。むしろ、刺の木がバラの花をつけるのをよろこぶべきである」(ヒルティ編『心の糧』正木正訳、角川文庫)という言葉もあります。見方一つで、こんなに変わる。明るく、美しく、広やかになる。
 大聖人は「一心の妙用」(御書七一七ページ)と仰せです。御本尊を信じる「一心」、そこに不思議にして偉大なる力、働きが出る。わが胸の「一心」という根本のエンジンが動き出せば、ただちに三千諸法の歯車も動き出す。全部、変わっていく。善の方向へ、希望の方向へと動かしていけるのです。
 また、たとえば、わが地域の会館、研修道場を荘厳することも「種種宝荘厳」です。守る会の皆さま、地域の皆さまが、いつもいつも、真心を込めて清め、色とりどりの花や木を育てて、美しく荘厳してくださっている。その真心こそが最高の「宝」なのです。しかも、この法城には、心清き地涌の同志が、喜々として集い、真剣に正しき人生を求め、希望と勇気の歌を奏でている。そういう「天人」の集まる楽園です。経文どおりの姿です。
 さらに言えば、わが創価学会それ自体が、この経文に合致しているのです。いい人が集まり、いつも明るい。元気で、にぎやかだ。まさに「天人常充満」です。学会の前進が、皆さまの明るく、はつらつたる前進が、わが家庭を、地域・社会を、世界を、この大切な地球を、「種種宝荘厳」の楽土へと変えているのです。
 仏の「大いなる境涯」に包まれた時に、自身も、周囲の人々も、そして国土も、すべて「幸福」と「希望」の光に輝いていく。それが「事の一念三千」の南無妙法蓮華経の力です。すなわち、ここにはダイナミックな「変革の原理」が説かれているのです。
 この大法に則って、現実社会の真っただ中で戦い、日本を、全世界を、幸福の「楽土」としていく。それが広宣流布の運動なのです。
9  「人間は楽しむために生まれてきた」
 法華経は「衆生の心」に問いかけます。また、衆生が自ら問い、考えることを促します。「いったい、私たちは『何のために』この世に生まれてきたのか」と。人間は苦しむため、悩むために生まれたのか? 否です。宿命に泣くために生まれたのか? 否、絶対に否です。
 戸田先生は、「衆生所遊楽」の経文を通して、いつも言われた「人間というのは、世の中へ楽しむために生まれてきたのです。苦しむために生まれてきたのではないのです」(『戸田城聖全集』2)。この世に遊びに来た、楽しみに来たのだと。「衆生所遊楽」──衆生の低い人生観、幸福観をひっくり返す、すばらしい言葉です。
 もちろん、この「遊楽」とは、享楽的な″うわべの楽しみ″ではありません。それらは、現実の荒波の前では、あまりにもむなしい。しかも、裟婆世界は「堪忍世界」。苦悩と恐怖の充満する、この世を生きることが、″堪え忍ぶ″ことが、どれほど大変か。自身の境涯が低ければ結局、敗北です。
 しかし、仏の眼で見るならば、また衆生が胸中の「仏の境涯」を開くならば、この裟婆世界が即、「衆生の遊楽する」楽土となる。いわば、この世の舞台で、私たちは「楽しく生きぬく」という人生の劇を演じているのです。
10  自在で楽しい遊楽の人生を開け
 日蓮大聖人は仰せです。「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」──深く妙法に則っていく時、この世の「苦楽ともに」、楽しみ切っていける醍醐味の人生を生きていけるのです。
 また、この「遊楽」を、あえて分ければ、「遊」は人生を自在に生きていくこと、「楽」は人生を心から楽しむこと、と言えるかもしれない。いずれにせよ、根本は自身の生命の境涯です。
 自然にも劇がある。厳冬を越えてこそ春の喜びも大きい。季節の変化があるから一年は美しい。
 人生も同じです。山もあれば、谷もある。しかし、強い生命力と豊かな智慧があれば、険しい山があるから「山登り」が楽しめるように、波があるから「波乗り」が楽しめるように、あらゆる人生の苦難も全部、楽しみながら、乗り越えていける。何ものにも揺るがぬ「常楽我浄」の自身となり、人生となるのです。
 その自在にして金剛不壊の境涯を、戸田先生は「絶対的な幸福境涯」と言われたのです。さらに、大聖人は、この遊楽について、「われらの色法と心法、依報と正報が、ともに一念三千の当体であり、自受用身(自ら広大な法の楽しみを受け用いる身)の仏であるということではあるまいか」(御書一一四三ページ、通解)とも仰せです。
 真実の幸福とは、自らの「身も心も」、また「自分も、環境も、他の人々も」、ともに信心の功徳に潤う幸福です。自分の幸福だけでなく、「自他共の幸福」を祈り、行動していく。これが、法華経の心です。皆さまこそ、最高の幸福の道、遊楽の人生を歩んでいるのです。
 「諸天撃天鼓」。天界の人々が「天の鼓」を打ち鳴らしているというのです。
 この「天鼓」とは、もとは、雷鳴に由来する。インドでは、カミナリは恵みの雨を告げる天の「喜びの音楽」だったようです。一つの次元から言えば、これは最高の幸福に弾む「喜びの心」を表しているともいえるでしょう。
 「常作衆伎楽」。天界の人々がつねに、さまざまな伎楽を奏でている。戸田先生は、この経文をこう教えてくださいました。
 「常に音楽がなっているというのは、なにもラジオではありません。これはお父さんが帰ってきて、『ああ、きょうは愉快だったよ、こうだよ』、奥さんは『お父さん、きょうは隣の猫がニャンと鳴いたのよ』、坊やは『学校の先生が歩いていたよ』、そうして、一家が笑いさざめいて暮らせるとすれば、常に伎楽を作しているのではないでしょうか。
 ところが、おやじが、破れ太鼓みたいな声で怒鳴り出し、女房がキーキーいって、子供がオーッと泣く。これはいい音楽ではありません」(『戸田城聖全集』6)
 私たちの瞬間瞬間、一日一日の生活が、自分の「常作衆伎楽」になっている。全部、生命の境涯のとおりの音楽になっているのです。同じ生きるのなら、私たちは、希望と幸福の「妙音」を奏でていきたい。見事な人生を勝ち取ったという「凱歌」を歌いたい。
11  妙法の音声で民衆凱歌の時代を
 創価学会には、人生を生きぬく歓びの声、希望と確信ある声が、つねに響いています。まさに「諸天撃天鼓 常作衆伎楽」の姿です。一つ一つが人々を幸の音色で包む「経」であり、「声仏事を為す」(御書七〇八ページ)姿なのです。
 大聖人は「南無妙法蓮華経は師子吼の如し」と仰せです。日々、私たちが唱えるその大音声は、悲哀と嘆きの「哀音」を破り、民衆の凱歌の時代を確実につくっているのです。
 「雨曼陀羅華」心を喜ばせる曼陀羅華が、天から降り注ぐというのです。妙法の世界に降る天華です。これは、妙法に住する人、すなわち、地道に信心を貫いた人が、必ず、幸福と福徳の花に包まれ、諸天にも祝福されていくことを示しているのではないでしょうか。
 また、たとえば、子どもが何かで頑張った時、「よくやったね」とほめてあげる。それで喜び勇んで行えば、さらに力が出る。「心を喜ばせる」ことが「雨曼陀羅華」に通じていくのです。
 「散仏及大衆」。福徳の花は、仏にも衆生にも、平等に降り注ぎます。何の差別もありません。
 ここからも分かるように、仏も衆生も同じ「裟婆世界」の大地に立っている。永遠の幸福を実現する舞台は、私たちが生きている「今、ここに」あるのです。

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