Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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為度衆生故。方便現涅槃。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
2  〔通解〕──(仏は)衆生を救おうとする故に、方便を用いて涅槃のすがたを現ずるのである。しかし、じつは入滅していない。(裟婆世界)に住して法を説いているのである。私はつねにここにいるが、諸の神通力によって、顛倒の衆生に対して、近くにいるけれども見えなくしているのである。
3  〔講義〕五百塵点劫の久遠に成仏した釈尊は、三世永遠にわたって衆生を救済し続ける仏です。そのように永遠の生命をもっ仏が、なぜ入滅するのか。その答えが、「為度衆生故 方便現涅槃(衆生を度せんが為めの故に 方便もて涅槃を現ず)」です。仏の涅槃(死、入滅)も、衆生を救うための方便(手だて)だと説かれているのです。
4  仏の入滅は「顛倒の衆生」のための方便
 涅槃とは、本来、煩悩を克服した静寂なる境地をいいます。さらに小乗教では、煩悩という心の次元だけでなく、身体の影響からも脱却する死をもって、完全なる涅槃であるとしました。そこから、仏の入滅(死)も涅槃と呼ばれたのです。
 しかし寿量品では、そのような仏の入滅、涅槃の姿は方便として現したものであり、慈悲と智慧による衆生救済の永遠なる活動こそ真実であるとするのです。そのように、絶えざる衆生救済の活動にこそ真の安定がある。慈悲と智慧に生ききる仏の境涯にこそ絶対の安らぎがあり、真の静寂があるのです。
 譬えて言えば、静止しているコマは倒れますが、勢いよく回転するコマは安定しているようなものでしようか。
 真実の涅槃とは、心身の断滅ではありません。智慧の完成なのです。智慧の完成とは、慈悲と一体となって働く無限の智慧であり、具体的には永遠の衆生救済の活動となって現れるのです。経文に「神通力」とあるのも、根本的には、永遠の仏の生命に具わる慈悲即智慧の働きなのです。
 そして文底から言えば、これが、われわれの生命の本来の姿でもある。すなわち無作本有の三身如来です。その本来の自己を忘れている人々を「顛倒の衆生」と言います。
5  仏は一切衆生を「吾が子」と見て導く
 「顛倒(転倒、逆さま)の衆生」──それは、仏から見れば、まだ分別のつかない子どものようなものです。
 たとえば、いたずらっ子が、いつも見守ってくれる親を、うとましく思ったり、不自由に感じたりすることがある。ところが、いったん、親の姿が見えなくなると、どこに行ったのかと泣き叫び、探し求める。
 それと同じように、顛倒の衆生は、仏が入滅して初めて仏のありがたさが分かる。仏にとっては、一切衆生は皆「吾が子」です。仏は、じつに親のように、子どものことをよく分かって、さまざまな手を尽くす。諸の方便を用いるその最大の方便が、仏の入滅なのです。
 本当は、仏はつねに人々のそばにいて見守っている。「常住此説法(常に此に住して法を説く)」です。しかし、わざと姿を見えないようにする。これを「雖近而不見(近しと雖も見ざらしむ)」と言います。なぜ仏は、わざわざそのようにするのでしょうか。それは、衆生を本来の自己に目覚めさせ、自立させていくために必要だからです。
 これも、子どもの例で言えば、赤ん坊に″いないいない、ばあ″をして、あやすようなものです。また、子どもは″かくれんぼう″が好きです。これらは、子どもの心理の発達のうえから考えると、じつはとても大事なこととされる。目の前にはいなくても、どこかにいる。必ずまた会える──。このような安心と信頼を育てるからです。
 こうした心情が育まれていけば、自立の力が生まれます。いわば、心の中に親が住んでいる。目には見えないけれども、心には確固として信頼できる人がいる──。この原理は、大人になっても同じです。他のだれが見ていようがいまいが、″あの人″だけは分かってくれている。″あの人″だけは自分を信頼してくれている。この絶対の安心が、乙の不動の信頼が、大きな励みになり、何よりも力になる。だからこそ、伸び伸びと自由に、思う存分、活動できる。
6  ″つねに仏と共に″の人生は強い
 今世だけではない。三世にわたって衆生を見守ってくれる「親」が、寿量品に明かされている「永遠の仏」なのです。とはいえ、自らの心に厳然と具わる仏も、顛倒の衆生には見ることができない。そこで、日蓮大聖人が御自身の仏の生命を御本尊として御認めくださったのです。この御本尊を鏡として自身の心の御本尊を見ることができるのです。
 大聖人は「阿仏房御書」にこう仰せです。
 「阿仏房、あなたはそのまま(御本尊として認めた、法華経に説かれる多宝如来の)宝塔です。宝塔はそのまま、阿仏房、あなたです」「また自身がそのまま三身即一身の本覚の如来なのです。このように信じて南無妙法蓮華経と唱えなさい。そうすれば、ここがそのまま宝塔の住所です」(御書一三〇四ページ、通解)と。御本尊に祈る自身は、そのまま御本尊と等しくなる。御本尊という鏡に照らせば、自身の仏界が自ずと浮かび上がってくるのです。
 御本尊は、大聖人の御魂をそのまま認められた仏の生命そのものであられる。仏は御本尊として厳然と常住している。けれども、「信」が、なければ、紙や木にしか見えないでしょう。しかし、尊い仏の生命なのです。
 「御義口伝」には「常住此説法」の「常住」について、「法華経の行者のいる所である」と述べられ、「此(ここ)」とはこの苦難に満ちた「裟婆世界」であると仰せである(御書七五六ページ)。信心根本に苦難を乗り越えて、正しい人生を歩む行動の人のところに、仏は常住するのです。
 また「常住此説法」の「説法」について、「末法においては南無妙法蓮華経の唱題の声が自受用身の仏の声であり説法である」(御書七五六ページ、趣意)と示されています。御本尊に題目を唱える私たち自身に、自受用身の仏(妙法の功徳を自ら受け用いる慈悲即智慧の仏)の生命が涌現するのです。
 すなわち、信心根本の人には、仏の智慧がはたらき、仏の功徳が自ずと具わる、と仰せなのです。″どんな苦悩も御本尊と一緒なら乗り越えられる″との絶対の確信があれば、無限の希望の光が降り注ぎ、無限の力が涌き上がるのです。これほど強い人生はありません。
7  妙法の同志は来世も広布の陣列へ
 戸田先生は、この「方便現涅槃」が「生命は永遠であると説きながら、なぜ死ぬのかという問題」を明かしたものであると語られました。すなわち、「生死不二」という永遠の境涯から見れば、死は方便であることを教えられた。
 戸田先生は、死をよく睡眠に譬えられた。長く起きていて疲れたら眠る。ぐっすり眠って起きれば、元気が戻る。長く生きていて疲れたら死ぬ。そして元気になって新たな人生を始める。死は、次の生のための充電期間なのです。
 妙法に生きた人は、すぐに生まれて、来世も広宣流布の陣列に戻ってくる。最高に充実した願いどおりの使命の人生で活躍できる。ゆえに、死を恐れることもなければ、諦めて開き直ることもない。この真実をしっかと見つめて、堂々と、また悠然と生きて生きて生きぬくのが、仏法者の生き方です。今世も生きぬき、三世を生きぬくのです。
 ただし、戸田先生も強調されていましたが、永遠の生命といっても、″生まれ変わる″のではない。過去世から今世へ、また今世から来世へ、生命自体は連続している。因果の理法は三世永遠である。生命に刻まれた善悪の因はそのままでは消えない。
 戸田先生は、私たちの生命は死後、宇宙に冥伏する、溶けこむのだ、と教えられた。
 ──溶けこんだけれども、他と混じり合ったりはしない。それぞれが独立していて、生前の行いに応じて、いろいろな喜びや悲しみを感ずる。それは夢の中で、泣いたり笑ったりしているようなものである。そして、何かのきっかけで夢から覚めるように、縁に応じて再び生まれてくるのである──と。
 だから、″来世があるから今世では手を抜こう″というわけにはいかない。また″今世の、一回限りの人生だから、好き勝手をしよう″というわけにもいきません
 宿命を根本的に打開するのが大聖人の仏法です。真に「永遠の生命観」に立てば、まず「今世」が変わるのです。
 御本尊に祈る時、生命の奥底からの変革が起こる。強く清らかな生命力が、ふつふつと涌き上がる。宿命の鉄鎖を断ち切り、生命本来のすがすがしく、たくましい仏界の姿が現れるのです。
 つねに「新たな命」として生きる──それが、私どもの「人間革命」の生涯なのです。

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