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日蓮大聖人・池田大作

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自我得仏来。所経諸劫数。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
2  〔通解〕──私(釈尊)が仏に成ることを得て以来、これまで経過したところの多くの劫の数は、無量百千万億載阿僧祇である。(その間)つねに法を説き、無数億という数え切れないほど多くの衆生を教化して、仏道に導き入れてきた。そのようにして今に至るまで数限りない劫を経てきているのである。
3  〔講義〕阪神・淡路大震災(一九九五年)から、一年を越えました。あまりにも多くの尊い命が失われました。あまりにも多くの方々が苦しまれた。二度と、こんなことがあってはならない。
 被災されたすべての皆さまに、復興に向けて懸命に戦っておられる皆さまのご苦労に、胸奥より、深く深くお見舞い申し上げます。亡くなられた方々のことは毎日、真剣に追善させていただいております。これからも、回向してまいる決心です。″関西魂″は不滅です。兵庫、頑張れ! 関西、頑張れ!
 私は声を限りに叫びます。題目を送ります。送り続けます。
4  「仏を得る」とは自らの仏の働きを表す
 法華経は「蘇生の経典」です。「妙とは蘇生の義」です。妙法には希望がある。勇気がある。確信がある。今、関西の皆さまは、妙法の、生命の「偉大なる力」を証明してくださっている。皆さまの姿が、全世界の希望なのです。
 さあ、「蘇生の経典」の希望の一節を学びましょう。ここから自我偈の経文に入ります。先にふれたように、自我偈は、仏「自身」のことを説いた経典です。戸田先生は、よく言われていました。
 「自我得仏来(我れは仏を得て自り来)」を、「我」すなわち釈尊が仏になってから、と読むのは″文上″の読み方であって、″文底″から拝するならば、もっと深い意味が説かれているのだ、と。
 そして、「仏を得る」ことについて、恩師は「仏という境涯は外から来るものではない、われわれの生命の中に自ら躍動するところの仏の働きを、明らかに表すに過ぎないのである」と教えてくださったのです。
 すなわち、文上の読み方では、この一句は、釈尊が始成正覚を破って久遠実成を明かし、仏の「永遠の生命」を宣言した意義を再び説いたことになります。しかし、文底から読むと、これは「本有無作三身」を教えられた経文になるのです。
 「御義口伝」に″この一句は無作三身を習う文である″と仰せです。「無作三身」という根源の仏の生命を説いた経文であり、それが私たちの生命にも久遠から具わっていることが示されている、と読むのが文底の意味なのです。
5  久遠の仏は十界本有、ありのままの姿
 寿量品が明かした永遠の生命のもとでは、仏界も、九界も本有常住です。大聖人は「自我得仏来」とは「自(九界)も我(仏界)も得た仏が来た」という意味である、と仰せです。
 文底から言えば、久遠に成仏した仏とは、九界から仏界に″成った″仏ではなく、九界も仏界も″ともに得ている″仏である。これを「十界本有」と言います。
 「本有」とは「もともと有る」「もともと具わっている」ということです。また、「はたらかさず・つくろわず・もとの儘」の生命の本性です。これを「久遠」とも「無作」とも言うのです。
 本来の、真実の、ありのままの生命の姿です。「ありのまま」とは、言わば、「本来の生命の力」を一〇パーセント開いていく、生かしていくということにほかなりません。
 たとえば、厳しい冬を越えて、瑞々しい若芽が萌えてきます。新緑の葉を必死で伸ばし、朝の光にキラキラと輝いている。その姿に、わずかの手抜きもありません。ふざけたり、いじけたり・なんかしない。一瞬一瞬、命の限り生きている。それでいて肩ひじ張っているわけではない。どこまでも「自分らしく」生き切っている。だから輝いている。しかも、周囲と絶妙に調和している。
 ロマン・ロランはつづっています。「自分は自分の充実を得た! 自分は自分を獲得した」「どんな所有がそれに匹敵するだろう?」(『魅せられたる魂』3、宮本正清訳、『ロマン・ロラン全集』7所収、みすず書房)
 いわんや、妙法を知った私どもは、「本有の自分自身」を聞き、永遠にわが生命を輝かせていける。どれほどすごいか。どれほど幸福か。
6  「三身如来は自得なり」と読む
 この「自我得仏来」の一節を講義される戸田先生の姿は、忘れられません。まさに名講義でした。
 「みんな、『自』と『得』に、丸をつけてごらん」
 会場に、少し、しわがれた先生の声が響きます。みんな、手にしたエンピツで「丸」を付ける。興味津々の顔の人がいる。なにをやらせるのかと、不可解そうな人もいる。先生は、その様子を楽しむように見回され、続けて言われた。
 ──この二つの字を合わせると「自得」となって、「我仏来」が残ります。この我仏来の「我」は法身如来、「仏」は報身如来、「来」は応身如来であり、三身如来を表しているのです。つまり、「自我得仏来」とは、この三身如来を自ずから得たるものなり、自得なりと読むのが、大聖人の読み方になっているのです、と。
 「三身如来は自得なり」。そう言われて、みんなハッとしたものです。よく意味も分からず読んでいた「ジガトクプッライ」の一句から、「自得」の二字がくっきりと浮かび上がり、仏とは自ら得るもの、本来、自分の胸中にあるものだと教えていたのかと、ストンと納得できたのです。
 先生の講義には、私たち衆生が本来仏である、妙法を唱える凡夫こそが仏であることを、なんとしても教えたいとの熱誠がありました。また、それこそが日蓮大聖人の御心であります。「御義口伝」の自在の″活釈″″人間釈″──それはすべて、この一点に注がれた大慈大悲の結晶なのです。
7  広布へ戦う その行動に「無作の仏」
 ここで「三身」について、もう一度、ふれておきましょう。
 法身如来とは、常住不変の真理である妙法そのものです。これが自己の本体なので、「我仏来」の「我」にあたります。報身如来とは、その妙法を悟る仏の智慧であり、悟りの報いとして具わる仏の功徳です。本来の自分を悟った覚者を仏というので、報身如来を「仏」の字にあてるのです。応身如来とは、衆生救済の働きであり、その根底は慈悲です。衆生のところに現れ来るので、これが「来」にあてはまります。
 この三身が「久遠の釈尊」の一身に具わっているのです。永遠の法に住して、永遠に衆生を救うために、無量の智慧を使い、無量の功徳を生じさせていく。この永遠に衆生を救う仏が「久遠の釈尊」なのです。
 そして、わが生命に本有の三身──無作の三身如来を「自得」されたのが大聖人の御境涯なのです。無作三身とは、要するに、妙法の力によって自分も楽しみ切り、他の人をも救っていく生命本来の力です。この「自他ともの幸福を願う本当の自分」を知る以上の喜びはありません。これほどの安心もありません。
 「御義口伝」には、大聖人に連なる私たちもまた、無作三身如来であることが説かれている。「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり」と仰せです。私たちも妙法を唱え、自行化他にわたって実践していくとき、大聖人と同じ境涯──無作三身如来を「自得」できるのです。
 地涌の菩薩として、苦難と戦っている人、広宣流布のために真剣に戦っている人──その人の胸中に無作三身如来の生命が現れるのです。
8  偉大な仏の境涯も信の一字で得られる
 あの友が苦しんでいる! そう思ったら、じっとしてなんかいられない。見て見ぬふりなど絶対にできない。自分も大変なのを振り捨ててまで、まわりの人のために働いていく。そんな庶民の英雄の集いが学会です。
 あの阪神・淡路大震災のときの、同志の皆さまの活躍が、まさにそうでした。「負けたらアカン!」。それが皆さまの心でした。だれもが大変な状況でした。しかし、その命を振り絞っての行動が、一言が、励ましが、どれほど多くの人々の希望となり、勇気となっていったことでしょうか。
 また、悩める友のために、時間のたつのも忘れて御本尊に向かっていく、あの真剣さ。苦しむ友の顔を見ると「大丈夫、絶対に乗り越えられるから!」と励ましてやまない、あの大確信。だれに命令されたわけでもない。また、言われたからといってできるものでもない。世間体や形式や外見にとらわれていたら、生命本有の力は出ません。本気で人々のため、広宣流布のために生きているからこその姿です。
 その「心」、その「一念」、その「振る舞い」のなかに、「三身如来」が生き生きと現れていくのです。生命本来の無限の力がわき上がってくるのです。そうでなければ、いったいどこに現れるのか。だれが「三身如来」だというのか。皆さま方の人生こそ、「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり」と仰せどおりの人生になるのです。
 私どもは、この三身如来の境涯──求めても得られない、否、あまりにも偉大すぎて、求めることさえ思いもよらない仏の大境涯を、自得できる。「信」の一字によって、「妙法を持ちぬく」ことによって、「自ずから得る」のです。まさに経文どおりの「無上宝来不求自得(無上の宝聚は 求めざるに 自ら得たり)」(法華経二二四ページ)ではありませんか。
 私たちの胸に「最高の宝」はあります。苦難に立ち向かう勇気、限りない希望、燃え上がる情熱、汲めども尽きぬ智慧──全部が、自分の「本有の宝」です。それを確信して戦った人が仏です。その人自身が、「最高の宝の集まり」(無上宝聚)となるのです。生々世々、大長者であり、大満足の人生となるのです。
 結局、「自得」とは、だれかから与えられるものではありません。自ら得るものです。この三世にわたる「自身」の自在の大境涯を、信心で自ら勝ち取るのです。また、必ず勝ち取っていけるのです。これが自我偈の真髄であり、寿量品の結論なのです。

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