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日蓮大聖人・池田大作

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自我偈の意義  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

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1  新世紀の「旭日」は昇りました。日本の空に、世界の空に、また、私たちの胸中の大空に。
 学会は世界の太陽です。ゆえに、皆さま方、お一人お一人が太陽の存在です。皆さま自身の輝きが、一家を照らし、地域を照らし、世界を照らすのです。
 太陽は自ら燃えています。灼熱の″火の玉″です。日蓮大聖人は仰せです。仏の胸には、″大いなる火″が、赤々と燃えているのだ、と(御書一〇四三ページ)。それは、苦しみに端ぐ一切衆生の真っただ中に飛び込み、その苦悩を焼き尽くす「大慈悲の炎」です。すべての人を救済しようという「大智慧の光」です。
 仏の炎は永遠に燃え続けます。消えることは断じてありません。大聖人はこうも仰せです。たとえ須弥山を流すほどの大水でも、この仏の胸中に燃える大火だけは絶対に消すことはできない、と。(同ページ)
 仏が未来永遠に人々を照らし続ける、その光源が寿量品です。そして自我偈には不滅の大慈悲の炎、大智慧の光がある。いよいよ、その自我偈の講義に入りましょう。はじめに、自我偈の意義について語っておきたいと思います。
2  自我偈とは生命の自由の讃歌
 まず、自我偈の「偈」とは何かこれは、サンスクリットの「ガーター」の音写です。「偈他」とも「伽陀」ともいいますが、要するに「詩」のことです。
 つまり、「詩」をもって仏の教えを述べたり、仏・菩薩の徳を讃嘆したものを「偈」というのです。「偈」は、口唱しやすく、覚えやすい経典です。そして、「自我得仏来」で始まる偈なので、「自我偈」と呼び慣わしています。
 イギリスの詩人シエリーは、「偉大な詩とは、英知と歓喜の永遠にあふれる泉である」(「詩の擁護」上田和夫訳、『世界文学体系』96所収、筑摩書房)と言いました。
 この自我偈こそ、まさに英知と歓喜の永遠に涸れることなき源泉です。生命の真の自由の讃歌です。この自我偈を読誦する功徳は、広大無辺です。
 日蓮大聖人は、自我偈について、法華経二十八品の″魂″であると仰せです(御書一〇四九ページ)。そして、「全宇宙の諸の仏は、自我偈を師として仏に成られたのである(したがって自我偈は)世界の人の父母のようなものである」(御書一〇五〇ページ、通解)と讃嘆しておられる。法華経・寿量品を持つ人は「諸仏の命を続ぐ人」(同ページ)です。三世十方の諸仏と同じ「命」が、私たちに滾々と通い流れる。
 したがって、自我偈を持つ人を敵とすることは、三世のすべての仏を敵とすることにも等しい、とも仰せられている。これほど、大聖人が讃嘆されている自我偈には、いかなる「仏の命」が込められているのか。先に学んだ寿量品の長行の最後に「重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく」とありました。自我偈には、寿量品の長行で説かれたことが、繰り返されています。いわば、どうしても衆生に分からせたい、伝えたいという仏の「心」が、偈文を生むのです。
 それでは、自我偈は長行のたんなる繰り返しかというと、そうではありません。より深く未来を志向し、より強く仏の慈悲が込められた経文です。
3  ″皆を仏に″との大慈悲の経文
 長行では、釈尊の「永遠の生命」が明かされました。過去の久遠の成道を明かし、現在に至るまで、裟婆世界でつねに衆生を教化し続けてきた姿が示されている。そして、未来に向けても、仏の生命は「常住不滅」であることが説かれています。
 しかし、自我偈は、この未来に向けての「常住不滅」の四文字を、さらに「広く」うたっている。さらに、大きく讃嘆している──天台は、こう釈しています。(大正三十四巻一三五ページ)
 自我偈には、いつ、いかなる時にも、衆生が求める時に、仏は必ず出現し、その国土は仏の楽土となることが、詳しく説かれています。また一方、仏は常住不滅なのに、なぜ人々は見ることができないのか、どうすれば見ることができるのか──このことも説かれている。いわば、自我偈には、仏と、仏を求める弟子の絆が、三世永遠の師弟の絆を深く結びつける「鍵」が示されていると言えましょう。
 前にも述べたように、寿量品は、弥勒菩薩が発した質問に答える形で説法が始まります。しかし、寿量品全体は、今、目の前にいる弥勒菩薩たちだけのために説かれたものではない。むしろ、明確に「未来の人々のために」「私たちのために」説かれた教えです。したがって、寿量品の真の対告衆は、釈尊滅後、なかんずく末法の一切衆生です。なかでも、自我偈こそ、未来の全人類へ向けたメッセージと言えましょう。
 また、自我偈の最後の一節には、ご存じのように、「衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得しめんと」と、仏が願い続けていることが説かれています。なんとしても、万人の胸中に真実の幸福の境涯を確立させようとの仏の慈悲が、自我偈全体にみなぎっている。自我偈の一句一句に、「皆を仏に」との仏の慈悲が、込められているのです。
 文底から言えば、万人が妙法の当体であり、「皆が仏」です。その真理に目覚める功徳を讃嘆したのが自我偈です。
 自我偈は、長行で明らかにされた「真理への道」「真実の幸福への道」を、すべての人が歩めるように、私たち一人一人に深く呼びかけている経文なのです。
4  仏の広大で永遠の生命を明かす
 大聖人は、法華経の文字は、一文字一文字が「金色の釈尊」(御書一〇二五ページ)であると仰せです。そして、自我偈の意義をさらに分かりやすく述べておられる。すなわち、″この自我偈の金色の文字は全部で五百十字ある。この一つ一つの文字が、私たちが読誦した時に、太陽となり、仏となり、いかなる世界をも照らし、全宇宙をも照らす。あらゆる人を救うことができる″(御書一〇五〇ページ、趣意)と。
 自我偈は、全人類を照らす経文です。この人類の至宝である経文を、私たちは毎日、朝に晩に読誦しているのです。その大功徳は計り知れません。
 また、私たちは、自我偈を読誦しているだけでなく、自我偈の実践者であり、証明者でもあります。自我偈の功徳を全人類に伝え、弘めているのです。日蓮大聖人、三世十方の諸仏の讃嘆は間違いありません。なんとすばらしいことでしょうか。なんとありがたいことでしょうか。
 さて、一文字一文字が仏であるということは、言い換えれば、自我偈は、仏の生命自体を表しているということです。
 大聖人は、「御義口伝」で、「自我得仏来」の最初の「自」と、終わりの「速成就仏身」の「身」を合わせて「始終自身なり」(御書七五九ページ)と仰せです。すなわち、自我偈とは、終始一貫して、仏の「自身」、仏の生命を説いたものであるとの御指南です。
 大聖人は、また、この「自」と「身」の間に説かれる自我偈の全文は、すべて「自身」の活動、振る舞いを意味しているとされている。
 そこで、「御義口伝」には「自我偈は自受用身なり」(同ページ)と仰せです。自受用身とは、「ほしいままに受け用いる身」と読み、宇宙全体を「自身」と開き、宇宙根源の妙法の力を自在に受け用いる身」のことです。つまり、自我偈は、大聖人御自身の自由自在の御境涯を表している経文だと仰せられているのです。
 あたかも大宇宙を自在に遊戯するごとく、一切の障りもなく、しかも永遠に続く金剛不壊の幸福境涯──その広大にして、永遠なる生命を説き明かしたのが自我偈なのです。また、この「自受用身」とは「出尊形の仏」とも言います。すなわち、色相荘厳に飾られた「尊形」を出た、凡夫のありのままの姿です。
5  仏の境涯の詩、″大いなる自身″の讃歌
 戸田先生は、自我偈について、「仏自身の経文であり、われわれ自身の経文なのです」(『戸田城聖全集』2)と言われていました。いわば、自我偶偈偉大なる「自身」を讃嘆した、三世にわたる「自身」の自在の境涯をうたった詩なのです。
 大聖人は「一人を手本として一切衆生平等」と仰せです。自我偈も、久遠の本仏の「自身」のことをうたっていると同時に、私たち「自身」のことを賛嘆しています。
 「『自分自身』をわたしは歌う」(『草の葉』上、杉木喬・鍋島能弘・酒本雅之訳、岩波文庫)──アメリカの民衆詩人ホイットマンの″人間賛歌″は、こんな言葉で始まります。彼は、力強く、確信に満ち満ちて、うたいました。
 「どんな人びとの内部にも、ぼくは、ぼく自身の姿を認める、誰も、ぼくよりぬきんでる者はなく、ひとりとして大麦のひと粒ほどに劣る者もいない」
 「ぼくは堅実にして健全」「ぼくは不滅」「ぼくは荘厳」「ぼくはありのままに存在する、それだけでたくさんだ」(同前)
 彼も、「人間自身」のなかに、「自分自身」のなかに、神聖にして尊極の光を見ていました。まさに自我偈に通ずる心です。こうした本来の「大いなる自分」に気づく道を教えたのが、仏法なのです。
6  戸田先生は教えた「自らの命に生きよ」
 釈尊は、「弘教の旅」を開始してまもないころ、森で出会った青年たちに、「自分を探せ」と教えています。「自分を探せ!」「真実の自己を知れ!」「自分の足下を掘れ!」。そこに「幸福の泉」がある。「希望の道」がある。ゆえに、戸田先生は、いつも「自らの命に生きよ」「自己自身に生きよ」と言われていた。
 「貧乏して悩むのも、事業に失敗して苦しむのも、夫婦げんかをして悲哀を味わうのも、あるいは火ばちにつまずいて、けがをするのも、結局、それは皆自己自身の生活である。
 すなわち、自己自身の生命現象の発露である。かく考えるならば、いっさいの人生生活は、自己の生命の変化である。ゆえに、よりよく変化して、絶えず幸福をつかんでいくということが大事ではないか。
 されば、自己自身に生きよ‥‥いや、自己自身に生きる以外にはないのだ、ということを知らなければならない。あの人が、こうしてくれればよいのだとか、この世の中がこうであればしあわせなのだといって、他人に生き、対境に生きるということは間違いではないか」(『戸田城聖全集』1)
 どこまでいっても、「自分」から逃げることはできない。幸福も、不幸も、人生の一切は、この「自身」の二字に納まってしまう。結局、どうしても逃れられない、この「自身」というものを、いかに鍛え上げ、いかに荘厳していくのか。ここに、人生の勝負がある。
 風向きしだいで、右往左往するような弱い「自身」であってはならない。反対に、正邪を深く見極め、確固たる自分自身をもつ人は、つまらない世評には紛動されないものです。屹立した「自分」です。「われ本来仏なり!」、その本当の「自分自身」が、どれほどすごいか、どれほど偉大か──自我偈は、それを讃嘆しているのです。
7  「生命の詩」を口ずさみ、ヒマラヤのごとく堂々と
 ネパールを訪問した折(一九九五年)、カトマンズ郊外のヒマラヤの見える丘で、地元の村の子どもたちと語り合いました。皆、利発で、かわいかった。曇りなき、輝く瞳をしていました。私は、子どもたちに語りました。
 「仏陀は、偉大なヒマラヤを見て育ったんです。あの山々のような人間になろうと頑張ったのです。堂々とそびえる勝利の人へと、自分自身をつくり上げたのです」
 ヒマラヤのごとく堂々たる自身を築け──これが仏法の心です。また、必ず、そうした「勝ち誇る自分自身」になれるのです。さあ、楽しく、歌を歌いながら、快活にが″生命の詩″を口ずさみながら、悠々と、堂々と前進しましょう! 最高の自分の人生のために、人びとの幸福のために、世界の平和のために。
 その皆さまの「振る舞い」そのものが、三世永遠に輝く「大いなる自分自身の賛歌」なのです。

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