Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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作是教已。復至他国。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
1  作是教已。復至他国。遣使還告。汝父已死。是時諸子。聞父背喪。心大憂悩。而作是念。若父在者。慈愍我等。能見救護。今者捨我。遠喪他国。自惟孤露。無復恃怙。常懐悲感。心遂醒悟。乃知此薬。色味香美。即取服之。毒病皆愈。其父聞子。悉已得差。尋便来帰。咸使見之。
 是の教を作し己って、復た他国に至り、使を遣わして還って告ぐらく、
 『汝が父は己に死しぬ』と。
 是の時、諸の子は、父の背喪せるを聞いて、心は大いに憂悩して、是の念を作さく、
 『若し父は在さば、我れ等を慈愍して、能く救護せられん。今者、我れを捨てて、遠く他国に喪したまいぬ。自ら惟るに孤露にして、復た侍惜無し』と。
 常に悲感を懐いて、心は遂に醒悟し、乃ち此の薬の色・香・味の美きを知って、即ち取って之れを服するに、毒の病は皆な愈ゆ。
 其の父は、子の悉く己にゆることを得つと聞いて、いで便ち来り帰って、威く之れに見えしめん。
2  〔通解〕──このように(残していく良薬を飲むようにと)言い残して、また他国に行き、使いを遣わして、次のように子どもたちに告げさせた。
 『あなた方の、お父さんは、すでに亡くなりました』と。
 この時に多くの子どもたちは、父が亡くなったと聞いて、大いに嘆き悲しみ、次のように思った。
 『もし父がおられたならば、私たちを慈しみ、あわれんで、守り救ってくださったであろうに。今は、私たちを捨てて遠い他国で亡くなられてしまった。自ら考えると、みなしごであり、頼るものがなくなってしまった』と。
 つねに悲しみを抱き、ついに心が目覚めたのである。そして、この薬の色も香りも味わいも良いことが分かり、すぐさま取って飲んだところ、毒の病はすべて治ったのである。その父は、子どもたちが皆、すでに治ったと聞いて、すぐに帰って来て、皆の前に姿を現された。
3  〔講義〕自分の後のことをどうするか。このことを、つねに考えているのが真の指導者です。「今」のことは当然として、つねに「未来」を想い、「後世」のために完壁に手を打ってこそ、優れたリーダーといえるのです。
 自分の時代さえよければそれでよいというのは、厳しく言えばエゴである。苦しむのは、後に残された民衆です。社会です。これは、あらゆる分野に通じる指導者論の精髄といってよいでしょう。いわんや仏は、「一切衆生の」「三世永遠の」幸福のために立ち上がった指導者中の大指導者です。自身の滅後の衆生をどう救うかは、仏にとって最大の課題であり、使命なのです。
 この段で、学んでいく「遣使還告」等の経文は、まさにこの一点について明かした釈尊の遺言です。
 良薬を残して旅に出た良医は、使いを遣わして、子どもたちに告げさせた。
 「あなた方のお父さんは旅先で亡くなりました」
 子どもたちに衝撃が走った。悲嘆に暮れた彼らは、ついに目を覚まし、亡き父の残していった良薬が「色香味美」であることを知り、それを取って服用した。こうして、苦しんでいた病は、ことごとく癒えたのである──と。
 ここでのポイントは、良医である父が、自ら姿を隠すことによって、子どもたちに良薬を服させた、という点にあります。
 自分がそばにいる限り、子どもたちは「色香味美」の良薬を口にせず、ますます苦悩に沈むばかりである。そこで、他国で亡くなったという「方便」を用いて、ようやく薬を服させて、愛するわが子らを救うことができたのです。「良医」とは、言うまでもなく釈尊自身です。「諸子」とは、釈尊滅後の衆生です。
 「自らおもんみるに孤露にして、復た侍怙無し」──父の悲報を聞いた子どもたちの嘆きとは、仏を失った衆生の、岬くような心の声ではないでしょうか。それはまた、よるべき哲学の住を失った現代人の渇いた姿にも通じるといってよい。
4  地涌の菩薩は人類を救う″誉れの使者″
 では、「良薬」とは何か。それは仏の残した法です。天台は、「是好良薬。今留在此」の所で「経教を留め在く」(大正三十四巻一三五ページ)と釈している。
 つまり、この「良医病子の譬え」が示しているのは──
 「仏(良医)は、入滅(亡くなる)という方便を用いて、滅後の衆生に、自分の残した法(良薬)を信じさせる(服させる)」という、いわば寿量品全体の主題そのものなのです。
 さて、そこで問題となるのが、「遣使還告」の文です。父の良医が遣わした「使い」とは、いったいだれをさしているのでしょうか。
 この「使い」は、良医の意を体し、子どもたちに父の死去を伝える役目です。「何とかわが子を救いたい」という父の心を託されて、子どもたちに良薬を飲ませるための″要″の役割を果たしています。もし、この「使い」がいなければ、子どもたちは病によって命を落としていたかも知れません。
 じつは、この「使い」こそ、仏法上、最も大切な″使命の人″をさしているのです。なぜなら、仏の滅後、だれが民衆に正しい仏法を伝えるのか。希望なき時代に、希望の法を弘めゆく「如来の使い」はだれなのか。このことを示したのが、「遺使還告」の文であるからです。
 この点について、日蓮大聖人は、「地涌千界末法の始に必ず出現す可し今の遣使還告は地涌なり」と明快に述べられている。「遣使還告」とは、釈尊滅後の弘教を担う地涌の菩薩のことなのです。仏の教えが隠没した末法濁世に、さっそうと登場し、妙法という「是好良薬」を弘めゆく、希望のメッセンジャーなのです。
 大聖人御自身、一往・文上の御立場では、この地涌の菩薩のリーダーである上行菩薩の再誕として、妙法弘通に挑まれました。
 しかし再往・文底では、大聖人こそ、末法万年の民衆を救う南無妙法蓮華経の「大良薬」を残された御本仏であられることは言うまでもありません。大聖人こそ、一切衆生の「父」であり「良医」なのです。したがって、大聖人の御聖訓どおりに広宣流布に進む私たちも、「遣使還告」の存在です。
 一往は地涌の菩薩として、再往は御本仏の本眷属として、最高の妙法を語り伝え、実証していく「如来の使い」。それが皆さま方の誉れある″位″なのです。
 これほど正法を弘め、これほど多くの人々を救ってきた民衆運動は、仏教史上、他にはありません。何よりその「事実」が、「姿」自体が、「仏の使い」である皆さまの尊貴さを証明しているではありませんか。
5  大聖人の御遺命″門下よ続け 世界広布へ″
 大聖人は、門下に呼びかけられている。「妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり、わたうども和党共二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝ぐれ天台・伝教にもこへよかし」と。
 世界広宣流布の先駆を、私が切った。わが門下よ、続け! 迦葉・阿難、天台・伝教をも越える、偉大な使命を果たしゅけ!──こう仰せなのです。
 この御本仏の心を体して、妙法を全世界に伝えゆくのが、私どもの「遣使還告」の使命です。
 「使い」がいなければ、良医も子どもたちを救うことはできなかった。と同じく、今、病める時代を救えるのは、妙法の大良薬を持つ地涌の民衆運動しかありません。ともどもに、この栄光の「地涌の人生」を、誇り高く進んでいこうではありませんか。
6  諸善男子。於意云何。頗有人能。説此良医。虚妄罪不。不也。世尊。仏言。我亦如是。成仏已来。無量無辺。百千万億。那由他。阿僧祇劫。為衆生故。以方便力。言当滅度。亦無有能。如法説我。虚妄過者。爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言。
 「諸の善男子よ。意に於いて云何ん。た人の能く此の良医の虚妄の罪を説くこと有らんや不や」と。
 「不なり。世尊よ」と。仏ののたまわく、
 「我れも亦た是の如し。成仏してより己来、無量無辺百千万億那自信阿僧祇劫なり。衆生の為めの故に、方便力を以て、当に減度すべしと言う。亦た能く法の如く我が虚妄の過を説く者有ること無けん」と。
 爾の時、世尊は重ねて此の義を宣べんと欲して、偏を説いて言わく、
7  〔通解〕──「多くの善男子よ、どう思うだろうか。(いま述べてきたような方便を用いた)この良医に虚妄の罪があると説く人がいるだろうか、いないだろうか」
 (菩薩たちが答えて)「いるはずがありません、世尊よ」
 そこで仏が言われるには──
 「私もまた同じである。私は成仏してからすでに無量無辺百千万億那由佗阿僧祇劫も経っている。(しかし)衆生のためを思うゆえに、方便の力をもって、まさに滅度するであろうと説くのである。
 したがって、私がうそをついたと言って、型どおりに、その罪をいう者はいないであろう」
 その時、世尊は、重ねてこの意義を述べようとして、次のように偈を説かれた。
8  〔講義〕
 「良医病子の譬え」を説き終えた釈尊は、「さて、この良医はうそつきと言えるだろうか」と、弟子たちに問いを投げかけています。
 「どう思う?」「決してうそとは言えないだろう?」と。
 そして、弟子たちが同意するのを待って、「私も同じです」と、良医に重ね合わせる形で、自身の心境を語り出しているのです。このへんも、釈尊と弟子たちの心通うやりとりの雰囲気が伝わってくるところです。決して一方的ではない。独断的ではない。こうした心の指導者が、今の社会にはいなくなってしまった。
9  われらは戦うただ「民衆のために」
 方便の滅度を説いた釈尊の「心」──それは、「衆生の為めの故」という一語に尽きる。「ただ民衆のためのゆえ」に、無量の寿命がありながら、方便力をもって自身の入滅を示すというのです。
 この慈悲の心は、説法の場に連なった大衆の胸奥に、深く深くしみわたっていったにちがいない。師の心を、心で受け止めた民衆にとって、「虚妄の過」であるはずがありませんでした。以前に学んだように、仏語は「皆な実にして虚しからず」なのです。
 これが、「方便」と「虚妄」の根本的な違いです。見極める基準です。すなわち、民衆への深い慈悲から出たものか否か。また実際、民衆の人生の向上に資するものか否か──これが眼目です。
 一つの参考ですが、ドイツの哲学者ヤスパースは、社会一般の指導者論として、次のように論じています。
 「民主主義者も独裁者も、両者ともに民衆に呼びかける。(中略)誰れが成功をかちとるかは、ただその時々の民衆が判決をくだしうるのであるが、このことは、民衆が自分自身についても判決をくだすのと同じなのである」(『歴史の起源と目標』重田英世訳、『ヤスパース選集』9所収、理想社)と。
 民主主義者も独裁者も、形の上では、民衆に呼びかける点で同じなのです。
 ですから、彼らの言葉が真実であるか偽りであるかを見極めるのは、あくまでも民衆自身になる。それは、民衆が、自分自身の進む方向を決める選択にほかならない。ゆえに、どこまでも民衆自身が聡明になるしか道はありません。そして、この「民衆のために」(衆生の為めの故に)──わが身を削って真実を語り、行動しぬくのが仏法者なのです。
 虚飾渦巻く現代にあって、「為衆生故」の行動をまっすぐに貫いているのが創価学会です。このことを確信し、また堂々と証明しながら、私どもは、楽しく前進していこうではありませんか。

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