Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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其諸子中。不失心者。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
1  其諸子中。不失心者。見此良薬。色香倶好。即便服之。病尽除愈。余失心者。見其父来。雖亦歓喜。問訊求索治病。然與其薬。而不肯服。所以者何。毒気深入。失本心故。於此好。色香薬。而謂不美。
 其の諸の子の中の心を失わざる者は、此の良薬の色・香倶に好きを見て、即便すなわち之れを服するに、病は尽く除とり愈えぬ。
 余の心を失える者は、其の父の来れるを見て、亦た歓喜し問訊して、病を治せんことを求索もとむと雖も、然も其の薬を与うれども、肯えて服せず。所以は何ん、毒気は深く入って、本心を失えるが故に、此の好き色、香ある薬に於いて、而も美からずと謂えり。
2  〔通解〕──この医師の子どもたちの中で、正気を失っていない者は、薬の色や香りがよいのが分かって、すぐにこれを飲んだところ、苦しみはすべて除かれ癒えた。
 正気を失った、他の子どもたちは、父親が戻って来たので喜び、病を治してほしいと求めた。しかし、その子どもたちは決して、薬を飲もうとしない。毒気が深く入って正気を失っていたため、このすばらしい色や香りの薬を、『美味しくない』と考えたからである。
3  〔講義〕人は皆、幸福になりたいと願っています。また、互いに仲良くしたいとだれもが思っている。不幸になりたい、他の人と憎み合いたいと思っている人などいない。しかし、現実はそうではない。時として、些細なことにこだわって、判断を誤り、不幸の坂を転がり落ちることがある。取るに足らないことから対立し合ぃ、戦争を引き起こすこともある。
 日蓮大聖人は、こう仰せです。「魚は命が惜しいために、池が浅いことを嘆き、池の底に穴を掘って住むが、餌にだまされて釣針を飲む。鳥は木の低いことを恐れ、上の方の枝に住むが、餌にだまされて網にかかる」(御書九五六ページ、通解)と。
4  ″価値観の顛倒″を正す仏法の英知
 皆、必死に幸福を求めているのに、肝心なところで幸福とは逆の方向に足を踏み出してしまう。そうした、物事を正しく判断できない「顛倒(転倒)の生命」「愚痴(おろか)の心」を譬えられた御文です。この「顛倒の生命」を、智慧の光明によって、正しい方向へ、幸福の方向へと導いていくのが仏です。この段では、「良医病子の譬え」から、このことを学んでいきます。
 毒薬を飲んでしまった子どもたちの中には、「本心」をまだ失っていない子どももいました。その子たちは、父の調合した薬が、色も香りもすばらしいことを見て、すぐにこれを服します。病はことごとく癒えました。
 大聖人は、「本心」とは「法華経を信ずる心」(御書一〇八一ページ)であると仰せです。また、「仏性の本心」(同ページ)とも仰せである。「本心」とは「仏性」のことにほかなりません。迷いの凡夫であっても、法華経を信ずることができるのは、胸中に「仏性」があるからなのです。
 譬えでは、続いて、この「本心」を失った子らについて説かれています。
 本心を失った子どもたちも、父が帰って来たのを見て大喜びし、「治してほしい」と、父に願います。しかし、肝心の薬を与えても、どうしても飲まない。毒があまりに深く入ってしまって、本心を失っていたからです。毒が深く入って本心を失うというのは、深い迷いによって仏性の力が現れないことです。幸福を求めながら、しかも幸福の原因が目の前にあるのに、それに気づこうとしない。
 「好き色、香ある薬」を良薬と認めることができず、「美味しくない」と思っているのです。つまり、妙法を信じないだけでなく、否定しようとする。まさしく、善と悪、正と邪を取り違える「顛倒の衆生」です。
 「御義口伝」には、「毒気深入とは″権教謗法の執情″が深く入った者である。このために法華経の大良薬を信受することができないのである」(御書七五五ページ、趣意)と仰せになっている。「権教謗法の執情」とは、低い教えに執着し、勝れた教えを劣っていると非難する、顛倒した判断、姿勢を言います。広げて言えば、向上の心を忘れて低い生き方に執着し、逆に、高い志を持って真剣に生きる人々を批判する態度にも通じるでしょう。
 戸田先生は、譬如良医の経文について、「これらの経文を一応すらすら読んで見ると釈尊の時代のことを述べているように感ずる。しかし、よく見つめると末法今日をさしている予言書であることが分かる」と述べています。まさに、この経文は、今の日本社会の顛倒の姿を映し出していると言えましょう。
 治療を求めているが、結局、薬を拒絶して飲まない──。つまり、だれもが真剣に生きようと心の底では願っている。しかし、ひたむきさ、勇気、善意、知性など、人間精神の「善なる力」が衰弱してしまっている。それは、社会に確固たる「哲学」「思想」がないからです。だから、価値観が定まらず、善と悪、真と偽、無私と私欲、崇高なものと卑しいもの、とを顛倒してしまうのです。
5  われらは「常楽我浄」の大道をさっそうと
 仏法では、享楽的な現実が永遠に続くと錯覚することを「四願倒」と言います。すなわち、享楽を追い求める次元での「常・楽・我・浄」です。利那的な快楽、お金や世間的な名声などが、″永遠に続く″″楽しい″″自分らしい″″すばらしい″と思い込んでしまう生き方です。
 こうした考えにとらわれる人たちのために、釈尊は初め、「無常・苦・無我・不浄(空)」を説き、享楽への執着を厳しく批判したのです。そして、方便の教えによって、その人の境涯を高めたあと、法華経に来て、最終的に、真の崩れざる「常・楽・我・浄」を示すのです。
 たとえば、同じ「楽」でも、「今が楽しければよい」という四顛倒の「楽」では、生命の輝き、張りは生まれません。しかし、広布の活動で得られる「楽」には、本当の愉快さ、生命の奥底からの喜びがある。次元がまったく違うのです。
 「あの人は、どうしているだろうか」「この人は元気だろうか」と、いても立ってもいられず、次々と友の激励に出かける。一面では、確かに大変です。しかし、対話を続けるうちに、苦悩にうちひしがれていた友の顔に笑顔が戻る。友が宿命の荒波を乗り越え、蘇生していく。この時の喜び、手応えには、どんなドラマも色あせてしまうほどの人生の醍醐味がある。これが、真の「常楽我浄」の生き方です。
 学会は学会らしくいきましょう。誇りをもって、「常楽我浄」の人生を満喫しましょう。はつらつたる生命の輝き、正しい価値観、生命尊重の思想、菩薩の行動を周囲に、毅然と広げていく。そこにこそ、願倒の社会を転換していく道が開かれるのです。
6  父作是念。此子可愍。為毒所中。心皆顛倒。雖見我喜。求索救療。如是好薬。而不肯服。我今当設方便。令服此薬。即作是言。汝等当知。我今衰老。死時已至。是好良薬。今留在此。汝可取服。勿憂不差。
 父は是の念を作さく、
 『此の子はあわれむ可し。毒の中る所と為りて、心は皆な顛倒せり。我れを見て喜んで、救療を求索むと雖も、是の如き好き薬を、而も肯えて服せず。我れは今当に方便を設けて、此の薬を服せしむべし』と。
 『汝等よ。当に知るべし、我れは今衰老して、死の時己に至りぬ。是の好き良薬を、今留めて此に在く。汝等は取って服す可し。差えじと憂うること勿れ』と。
7  〔通解〕──父は考えた。
 『この子たちはかわいそうだ。毒のために皆心が顛倒している。私が帰って来たのを見て喜び、治療を願っているのだが、この良薬をどうしても飲もうとしない。私は今、方便を用いて、この薬を服させよう』
 そして、子どもたちに言った。
 『いいか、私は、すっかり老い、死ぬ時がやって来た。このすばらしい良薬を、ここにおいておくから、取って服すとよい。苦痛が癒えないと、心配することはない』
8  〔講義〕
 どうしても薬を飲まない子どもたちを見て、父は思いました。「この子たちこそ、あわれむべきだ(此子可愍)」と。
 すごい言葉です。一人たりとも救わずにはおくものかとの大慈悲心が伝わってきます。しかし、父は決して力ずくで薬を飲ませようとはしませんでした。「強制」では、人々の心の奥にひそむ「顛倒の命命」を変えることはできない。人々が″自分で″薬を手にして、″自分で″飲むことが大切なのです。
 なぜならば、そこにこそ、顛倒の命ではなく、自分のおかれている状態をまっすぐに見る「正見」の生命が、すでに生まれているからです。
 「自発の力を生み出してほしい」──子を思う慈悲ゆえに、父は強制ではなく智慧を使います。
 「どうすれば、自ら薬を飲むだろうか。よし、方便を使って、この子どもたちに薬を飲ませよう」
 この方便とは、自分がまもなく死ぬと告げることです。父は「私は、表え老いてしまった。死ぬ時が来たようだ。良薬をここにおくから、飲むとよい。苦しみが治らないと不安になることはない。絶対に治るから」と語るのです。そして、旅に出て、自分が亡くなったと人に告げさせる。
 父は、本当は死んでいません。亡くなったと子どもたちに思わせた。それによって、「父親に何とかしてもらいたい」という依存心や顛倒の生命を、打ち破ろうとしたのです。
 「方便」が、仏の慈悲の現れであることは何度も述べました。つねに仏が存在していては、衆生は甘えてしまう。それでは、衆生を仏と同じ境涯まで引き上げるという目的は達成できません。そこで仏は大慈大悲を起こし、最高の方便として入滅の姿を示すのです。
9  「今留とは末法なり」「日本国なり」
 「今留在此(今留めて此にく)」とは、一往は釈尊が、滅後の衆生のために、法華経を一閻浮提(全世界)に残すということです。
 これを文底から読むとどうなるか。
 「御義口伝」には「今留とは末法なり此とは一閻浮提の中には日本国なり」と、仰せになっています。日本は「一闡提(正法を求める心がない者)が生み広げた国」(御書九五九ページ、趣意)です。もったいなくも大聖人は、この一闡提の国に出現されました。そして、末法の顛倒の衆生のために、南無妙法蓮華経の大法を残されたのです。
 また、「汝可取服。勿憂不差」について、大聖人は「汝」とは末法の一切衆生であると仰せです。そして「取る」とは、南無妙法蓮華経を受持することです。「服す」とは唱題です。大聖人は、「服することにより、無作の三身があらわれ、始成正覚の病が癒える」(御書七五六ページ、通解)と述べられています。
 ″始成正覚の病″とは、釈尊が今世で始めて仏になったという考え方にこだわることです。仏と衆生とは隔絶した存在であると思っている限り、私たちは、自身の中にある偉大な生命に気づかない。
 妙法は、人々に「自分も、もともと仏であった」ことを教える大法です。仏の偉大な生命が胸中にあらわれれば、すべての苦悩は太陽に照らされた朝露のように消え去るのです。そうすれば、「勿憂不差」です。心配はいりません。絶対に幸福になる、そう仏が断言しているのです。

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