Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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父見子等。苦悩如是。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
2  〔通解〕──父(良医)は、子どもたちがこのように苦しんでいるさまを見て、さまざまな薬剤調合の方法によって、色も香りもよき味もみなことごとく具わっている、良き薬草を求め、き、ふるい、調合して、苦しんでいる子どもたちに飲ませた。そして、このように教えた。
 『この大良薬は、色と香りとよき味のすべてを具えている。お前たち、この薬を飲みなさい。そうすれば、すぐに苦悩が除かれ、また数々の病気にわずらわされることはなくなる』と。
3  〔講義〕父である良医が、毒薬を飲んで苦悩する子どもたちの姿を見て、薬を調合し与える場面が描かれています。
 子どもが苦しんでいる姿を見て、その苦悩を取り除こうとしない親はいません。「苦しいだろう。もう少し頑張れ。今、お父さんが薬を飲ませてあげるから」と、薬草を石臼ですりつぶす作業ももどかしく、急いで薬を調合する父の必死の姿が眼前に浮かぶようです。
 それと同じく、一切の人々の苦悩を、わが苦悩と受け止め、同苦していくのが仏です。真の「同苦」は「抜苦」であり「与楽」です。たんに、哀れみを向けるだけのものではない。一緒になって悩み、具体的に、その苦悩を取り除き(抜苦)、真の安らぎと幸福を与える(与楽)まで戦うのが仏です。
4  大聖人の教えは衆生を思う″厳父の愛″
 法華経には「私(釈尊)は衆生の父である。彼らの苦難を抜き、無量無辺の仏の智慧という楽を与えるのである」(法華経一七三ページ、通解)とあります。
 釈尊の慈悲は、衆生の苦悩に無条件に同苦する悲母のごとき愛であるとともに、その苦悩を除き、真の安楽を与えるまで、徹底して戦う慈父の厳愛でもあった。
 その、仏の「厳父の愛」が説かれているのが法華経です。爾前経には悲母の愛の面のわずかが説かれているにすぎません。
 伝教も、″爾前経はわずかばかりの仏母の義は有るけれども、ただ愛だけがあって厳の義を欠いている″と述べている(『法華秀句』)。しかも、「悲母の愛」だけでは、根本的な苦悩の原因を取り除くことはできない。
 「厳父」「悲母」の両方の徳性を具えてこそ、仏はすべての衆生を救うことができる。とくに末法は、釈尊の時代と比べて、はるかに濁悪の世であり、人々の貪・瞋・癡の三毒も強くなる時代です。それだけ人々の「苦を抜く」ことが難事になる。ゆえに、大聖人は、「末法の厳父」として、人々の生命の奥底を揺さぶる対話を続けられたのです。
 戸田先生は「この南無妙法蓮華経の教えは厳父の愛であります。賞罰厳然としているのであります。母親の愛ではないのですから、叱るところは叱る、愛するところは愛する、また徹底的に救ってくれる、これが父の愛であります」(『戸田城聖全集』5)と教えてくださいました。
 もちろん、ここでいう「厳父」「悲母」とは、仏の徳性を示す譬えであって、家庭における父母の役割を固定的に論じたものではありません。実際には、″うちはお母さんのほうが偉く、強い″という家庭も多いでしょう。
 譬えの中で父は、選りすぐった薬草を調合して、色も香りも味もすぐれた大良薬を作り、子どもたちに与えます。これは、抜苦与楽の慈悲でいえば、「抜苦」であるとともに「与楽」にあたります。
5  色香美味とは「三大秘法」の御本尊
 釈尊が人々に与えた、「色・香美味、皆悉な具足せる」の法とは、法華経の智慧です。苦を抜くだけではない。父が子に全財産を譲るように、仏の智慧という幸福の種子を衆生に与えるのです。
 その究極が南無妙法蓮華経です。大聖人は、末法の全人類のために、色も香りも味も具足した良き法として三大秘法の南無妙法蓮華経を残されました。
 色も、香りも、味もそろっていれば、人々は安心して薬を飲むことができます。そこで、天台は、この「色香美味」を、仏教実践の基本となる戒定慧にあてはめ、色が戒、香が定、味が慧であると説明しています。
 「擣篩和合」とは、薬草をすりつぶして、その成分を調合することです。いわば、″生粋のエキス″を抽出することです。釈尊は、一切の説法の結論を法華経に集約された。大聖人は、一切の仏の因行(修行)と果徳(仏の功徳)を「擣篩和合」して、三大秘法を顕された。
 大聖人御自身、「皆悉具足」について、「皆悉の二字万行万善・諸波羅蜜を具足したる大良薬たる南無妙法蓮華経なり」と仰せです。
 また「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」とも仰せられている。
 薬は飲んでこそ、その効用を発揮します。天台の立てた理の一念三千は、譬えてみれば、末法の衆生のために調合された薬ではない。末法の衆生は、そのままでは飲むことができない。どう単純に、明快にするか。だれもが飲める(実践できる)ようにするか。これが「良医」としての仏の仕事です。
 さて、子に薬草を飲ませる時、父は語ります。「この大良薬は、色も香りも味もすばらしいよ。みんな、飲みなさい。ただちに苦しみがなくなり、また、体が丈夫になるよ」と。
 文底から見れば、御本尊の功徳が示されている一節です。御本尊は苦しんでいる人にとって大良薬です。祈りとして叶わざるなく、罪として減せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなし、という大功徳が具わっています。「皆悉な具足せる」です。受持した人は、速やかに苦悩が除かれるだけでなく、患いのない幸福境涯が現出するのです。
 戸田先生は、この父の言葉は″仏の約束″であると講義されています。すなわち、文底から読めば、この経文は、日蓮大聖人が末法のあらゆる人々に対して、誰人も必ず幸福になれると宣言されている一節になります。
6  「苦しみがなければ楽しみの″味″は出ない」
 大聖人は「御義口伝」で、「されば題目の五字に一法として具足せずと云う事なし若し服する者は速除苦悩なり」と仰せです。
 どんな人も幸福になる資格がある。とくに、最も苦しんでいる人は、最も幸せになる権利をもっている。いちばん苦労した人は、人一倍、境涯を開くことができる。それが、信心の妙です。そして、最も苦しんでいる人と共に歩むのが仏法者です。
 いつの時代にも、社会のひずみの影響を受けて、最も苦しむのは庶民です。愚かな指導者に率いられる民衆ほど、悲惨なものはありません。偉大な人は、必ず「民衆こそ宝」という視点を忘れません。
 ヴィクトル・ユゴーが『レ・ミゼラプル』を著した時、序文の扉に自ら「地上に無知と悲惨とがあるかぎり、本書のような書物も、おそらく無益ではないだろう」(斎藤正直訳、潮出版社)と書いたことは有名です。
 「この世から悲惨の二字をなくしたい」──それは、戸田先生の叫びでした。
 戸田先生は、庶民と共に歩まれた不世出の民衆指導者です。寿量品のこの経文の講義の時も、戸田先生は、あの独特のユーモアを交じえての口調で語りかけられました。「裟婆世界というところは、ほんとうは、われわれが遊びにきたところなのであります。楽しむためには、苦しみというものがちょっぴりなくては、楽しみの味は出てこない。(中略)今の世の中は遊ぶどころの騒ぎではないでしょう。苦しみだらけであります」(『戸田城聖全集』5)と。
 受講者は、この大良薬さえあれば、荒波を越え、悠々たる境涯を確立できることを教えられた。魂の指導者のこうした闊達な話が、戦後の混乱期にあって、どれだけ不安の暗雲を吹き払い、心に陽光を注いできたことか。これが本当の指導者です。悩める人、疲れている人がいれば、戸田先生は、ご自分がどんなに、お疲れであっても、全魂を注いで激励されました。戦う人、病める人を、大生命力で包んでいくのが学会です。
 皆さま方も、その精神で行動されてきた。不幸な人を見ると黙ってはいられない。自分のことはおいても激励せずにいられない。″こんなに幸せになりました″という喜びの報告を聞けば、どんな疲れもすべて吹き飛んでしまう。──こうして作られたのが創価学会です。庶民の心が築いた幸福の大城です。この尊き地涌の連帯は、誰人も破壊することはできません。
7  ″妙法の大良薬″を人類は渇望
 「権力者は、仏塔や寺院を破壊することができても、仏法を破ることはできない」と、大聖人は洞察されている(御書一八二ページ、三三七ページ等、趣意)。心を外から破ることは不可能です。美しき心のスクラムがある限り、妙法の世界は絶対に不滅なのです。
 毒によって苦しんでいる子どもたちのように、今は、三毒がますます強い時代になってしまった。現代の行き詐まりは、「心の変革」を人類が忘れたところにあります。それが二十世紀の教訓です。あらゆる分野で、「心の毒」を除く哲学が求められている。″妙法の大良薬″を、全人類が渇望しているのです。
 大聖人は、妙法を実践する大聖人の一門こそ「大良薬の本主」(御書七五五ページ)であると仰せです。今、私たちの抜苦与楽の慈悲行こそ、二十一世紀の「心の復興」「人間の復興」の偉大なる先駆となっていることは間違いありません。

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