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日蓮大聖人・池田大作

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譬如良医。智慧聡達。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
1  譬如良医。智慧聡達。明練方薬。善治衆病。其人多。諸子息。若十。二十。乃至百数。以有事縁。遠至余国。
 譬えば良医の智慧聡達にして、方薬に明練しく、善く衆病を治するが如し。其の人に諸の子息多く、若しは十・二十、乃至百数なり。事の縁有るを以て、遠く余国に至りぬ。
2  〔通解〕──譬えば、智慧が聡明で、病気の診断と薬の処方に熟練し、多くの病気をよく治すことができる名医がいたとしよう。その人には、たくさんの子どもがいた。十人、二十人、ないしは百人という数である。彼は所用で、遠く他国に出かけていた。
3  〔講義〕ここから、有名な「良医病子の譬え」に入ります。
 方便品に「種種の譬喩もて広く言教を演ベ」とあったように、仏典には、随所にさまざまな譬えが出てくる。仏は、深遠な教えを衆生に理解させるため、巧みな譬え話を使って分かりやすく説いたのです。
 哲人アリストテレスは「譬喩を見つけだすことは、偉大なことのなかでも飛びはなれた最大のものである。なぜなら、譬喩だけ知っていれば、ほかのことなど学ばなくともよいからである。それどころか、譬喩こそは、ある天才の性質のひとつの象証であるし(鶴見俊輔ほか編『定義集』、『ちくま哲学の森』別巻所収、筑摩書房)と述べている。まさしく仏は偉大な対話の天才です。
 分かりやすく譬えによって説いてこそ、人の心を動かすことができる。心が動けば、境涯変革も可能になる。仏の譬えは、その人を何とか変革させよう、幸福にさせようとの慈悲の発露です。また、智慧の結晶なのです。
 法華経は、釈尊の対話の達人ぶりが最高に発揮された経典です。ゆえに、法華経にはじつにたくさんの譬えがある。なかでも「法華七譬」、あるいは「法華七譬」と呼ばれるように、とくに重要なものは七つである。「三車火宅」「長者窮子」「三草二木」「化城宝処」「衣裏珠」「髻中明珠」、そして、これから学ぶ「良医病子」です。
4  仏は人類の″根本苦″を治す医王
 この「法華七譬」のうち「良医病子の譬え」だけが、本門で説かれた譬喩であり、残りはすべて迹門にある。
 寿量品では、「仏の永遠の生命」という究極の教えはすでに説かれました。しかし、それだけでは十分ではない。前段で述べたように、その究極の教えを「自分自身で」実践させ、「自分自身で」体得させることが、仏の最大の目的です。そのための最高の「方便」として、仏は入滅の姿を現すのです。
 その「方便現涅槃」を、譬えの形で表したのが、「良医病子の譬え」なのです。
 また、「良医病子の譬え」は、仏が入滅の時に、後世の人々を救う妙法を説き残すことを示している。滅後末法の衆生に、妙法が自分たちのために説かれたものであることを、理解させようとしたのです。
 譬えは、登場人物の紹介から始まります。
 ──一人の名医がいた。聡明で智慧があり、薬を作り、病を治すことに秀でていた。彼には、たくさんの子どもがいました。十人、二十人、いや百人もいた。医師は所用で、しばらく他国に行っていました。
 この名医は、五百塵点劫久遠実成の釈尊のことです。無限の智慧を具えた仏です。薬を作るとは、教えを説くことです。百人というと、ずいぶん子だくさんに思えますが、これは仏にとって一切衆生が子であることを表したものです。
 しばらく他国に行くというのは、五百塵点劫の釈尊が、過去世において入滅し、その国土からしばらくいなくなったことを譬えています。
 仏は、しばしば「医王」、最上の医師に譬えられます。仏が医師に譬えられるのは、ちょうど医師が患者の状態にしたがって適切な治療法を施すように、仏は、衆生の悩みを解決する最適な方法を知っているからです。
 病気にはさまざまなものがあります。歯痛に風邪薬を飲んでも効かない。腹痛の場合に、目薬を注しても何にもならない。病と薬との関係を熟知しているのが名医です。
 日本人の宗教常識として、「宗教は何でもよい」ということがよく言われます。では、「薬は何でもよい」と考えてもいいでしょうか。それはあまりに自分の人生に無責任な態度ではないでしょうか。その宗教が自分の人生や生き方に、どのような影響を与えているのかを厳密に見極めるべきです。
 しかも、仏はたんなる「名医」ではない。「医王」です。すべての衆生の悩みの奥底に横たわる根本の苦──元品の無明を治療する妙薬を知っている。それが後世のすべての衆生のために仏が残す究極の教法──寿量文底の妙法なのです。

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