Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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是故如来。以方便説。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
2  〔通解〕──このゆえに、如来は方便をもって次のように説く。『比丘よ、まさに知りなさい。諸仏の出現に会うことは、難しいのである』と。それはなぜかといえば、多くの福徳の薄い人は、無量百千万億劫という長い期間を過ぎても、あるいは仏を見る人もあり、あるいは仏を見ない人もあるからである。
 このようなわけなので、私は次のように言うのである。
 『多くの比丘たちょ、仏にお会いできることは難しい』と。
 この衆生たちは、このような言葉を聞いては、必ず、仏には会い難いという思いを生じ、心に恋慕をいだき、仏を渇仰して、善根をうえるようになるであろう。
 このゆえに如来は、実際には滅しないが、しかも滅するというのである。また善男子よ、あらゆる仏は、皆、このように(方便をもって)法を説くのである。これは、衆生を正しく化導するためであるから、皆、真実であって、虚妄ではないのである。
3  〔講義〕「仏と縁を結ぶ人生」が、どれほどかけがえのない、尊極の道であるかを説いています。
 仏の出現には遭遇しがたい。福徳が薄い人は、無量百千万億劫という長い期間を過ぎても、仏に会えるかどうか分からない。──仏縁とは、それほど得がたいものである、と教えています。
 「弟子たちよ、知るがよい。仏に、お会いすることは難しいのである」(諸の比丘よ。如来は見ることを得すきこと難し)──弟子たちに遺言のごとく語る、釈尊の毅然たる姿が浮かんでくるではありませんか。
 仏法では、「師恩」の大切さを説いている。弟子たちが傲りや甘えを乗り越え、屹立した「信仰即人生」の正道を歩めるよう、生命を削って薫陶するのが師匠です。ここは、そうした仏の大思をかみしめるところです。
 弟子たちは、厳粛な気持ちで自らの修行の姿勢を正し、千載一遇の師の教えを全生命をもって受け止めていこうと、真の求道心を起こしたのではないでしょうか。
 その求道心こそ善根を生み、崩れざる幸福境涯をもたらすのです。「薄徳の人」が「福徳の人」へ変わるのです。これが仏の大慈悲です。真の衆生救済です。仏に「頼る人」を作っても、真の救済にはなりません。「求道の人」にして「自立の人」である真の信仰者を作っていくことが、仏法における本当の救済なのです。それでこそ、すべての衆生を救うという仏の願いが叶うのです。
4  末法では唱題こそ最高の善根
 文底から読めば、この仏とは、南無妙法蓮華経如来すなわち日蓮大聖人であられることは言うまでもありません。また、「薄徳の人」とは末法の衆生のことです。
 大聖人は、末法のすべての衆生が「福徳の人」となることを願い、方便として入滅されました。「如来難可得見」(仏にお会いすることは難しい)という道理を、御入滅によって末法の民衆に教えられたのです。
 そして、大聖人に、お会いすることのできないすべての民衆のために、御自身の真実の境地である南無妙法蓮華経の大生命を御本尊として顕し、遺してくださったのです。何と広大な、御本仏の大慈大悲でしようか。
 したがって、「心に恋慕を懐き、仏を渇仰して、便ち善根を種ゆべし」とは、われわれ末法の衆生の姿と読むべきです。「恋慕」「渇仰」の心とは、御本尊への強き「信心」である。また「善根」とは、「御義口伝」に「善根は題目なり」とあるとおり、妙法を唱えることにほかなりません。
5  御本尊に巡りあえたのは不思議なる縁
 私たちが御本尊に巡りあえたことは、御本仏に巡りあえたのと同じであり、不思議なる縁によるものなのです。大聖人は仰せです。
 「夫れ人身をうくる事はまれなるなり、已にまれなる人身をうけたり又あひがたきは仏法・是も又あへり、同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり、まことにまことに過去十万億の諸仏を供養する者なり」と。
 御本尊に巡りあうことができた私どもは、もはや薄徳の人ではありません。すでに過去に無量の仏に出会った大福徳の人であると、御本仏が御断言なのです。
 何と不思議なる、私どもの人生でしょうか。使命でしょうか。このことを教えてくださるために、大聖人は、一人の偉大なる「人間」として、大闘争の御生涯と、荘厳な御入滅の姿を示されたのです。その御振る舞いは、すべて民衆を導くためのものであり、「皆実不虚」(皆な実にして虚しからず)なのです。また、そ
 のことを証明していくのが、創価学会の信心です。
 戸田先生も、「これからのわずか二、三十年あるいは四、五十年の短い生活のあいだを、何百万年、何千万年にも一度おあいしがたい大御本尊に、お目にかかれた喜びで暮らしていけることを感謝し、誇りをもっていきたいと思うのであります」(『戸田城聖全集』5)と述べられている。
 私たちは、この奇しき「仏縁」を深め、「仏勅」を果たしゆく地涌の勇者の生涯を、堂々と歩んでいこうではありませんか。

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