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日蓮大聖人・池田大作

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如是。我成仏己来。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
1  如是。我成仏己来。甚大久遠。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。諸善男子。我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数。
 是の如く我れは成仏してより己来、甚だ大いに久遠なり。寿命は無量阿僧祇劫にして、常住にして滅せず。諸の善男子よ。我れは本と菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命は、今猶お未だ尽きず、復た上の数に倍せり。
2  〔通解〕──このように、私(釈尊)が成仏してからこれまで、じつに久遠の時が経過している。
 その寿命は無量阿僧祇劫(五百塵点劫)という長い時間であり、この世界に常住して滅することがない。善男子たちよ。私が、もと菩薩の道を実践して成就したところの寿命は、今なお尽きていない。
 さらに、先に述べた数、すなわち五百塵点劫に倍して続くであろう。
3  〔講義〕ここからは、未来に向けてのメッセージです。寿量品は、五百塵点劫の久遠という過去のことを説いているように見えます。しかし、その真意は未来にあるのです。
4  寿量品は″未来へのメッセージ″
 大聖人は、寿量品が説かれたのは″釈尊滅後の衆生のため″であり、なかんずく″末法のため″であると言われている。(御書三三四ページ)
 また、寿量品の久遠成道について、「過去のことを説いているようであるが、滅後をもって本意とする。過去のことは先例として説かれているのである」(御書三三五ページ、通解)とも述べられています。
 天台も、この部分について″未来にわたり仏の偉大な功徳力が常住し衆生を利益していくことが明かされている″(大正三十四巻一二九ページ)と説明している。
 このように、未来の衆生を救うことに寿量品の本意があるのです。このことを経文に即して確認してみましょう。
 まず「是の如く我れは成仏してより巳来、甚だ大いに久遠なり。寿命は無量阿僧祇劫にして」とあります。
 これは、寿量品冒頭からこれまでに至る説法の趣旨を要約しています。すなわち、釈尊が仏になってから五百塵点劫という時が経過した。そのうえで、久遠の仏について「常住にして減せず」と明かしています。
 「常住不滅」──これこそ未来に向けた言葉です。三世にわたって常住する仏だからこそ、求道心がある人に対しては、いつ、どこにでも出現するのです。衆生救済の活動は、久遠の過去から釈尊在世の現在、そして釈尊滅後の未来へと貴かれているということです。三世永遠なのです。
 末法の衆生を救うために、三世にわたって常住する真実の仏を明かしたのが寿量品です。無仏の世、法減の世と思われた末法にも、真実の仏は常住しているのです。この点から見ても、仏法において「末法」を説くのは、いわゆる″終末論″を言っているのではないことが明らかです。否、人々の不安をあおる終末論など、仏法にあるはずがない。仏法は、人間に生命の根底からの安心を与える教えなのです。
5  ″わが「菩薩の寿命いのち」は永遠″と明かす
 続いて「我れは本と菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命は、今猶お未だ尽きず、復た上の数に倍せり」と説かれています。この文では、寿量品が未来のための教えであることがさらに明瞭になります。
 すなわち、釈尊が久遠において菩薩道を実践して成就した寿命は、五百塵点劫の間、存続してきただけでなく、さらにこれから、未来に向かって五百塵点劫の数に倍して続くと説かれている。
 言い換えれば、久遠の仏の救済活動は、五百塵点劫に倍する長遠の時間にわたって、さらに続けられていくのです。未来の衆生の救済こそ寿量品の本意であることが、これで明らかです。
 さて、未来に向けられたこれらの経文には、「本因妙」「本果妙」という重要な法門が明かされています。本因・本果とは、久遠における成仏の因果のことです。成仏の因となったのは久遠の菩薩道で、これが本因です。その結果、成仏したことが本果です。
 「本因」とは、成仏の根本原因です。幸福の本源です。久遠に、おいて釈尊が実践した修行にそれがあるのです。それが″妙″であり、不可思議なので「本因妙」と言います。
 この本因妙は、文上では、「我れは本と菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命は、今猶お末だ尽きず、復た上の数に倍せり」の文で表されています。
6  本源の生命開く本因妙の仏法
 この文で「成ぜし所の寿命は、今猶お未だ尽きず」とあるのは、釈尊が久遠の昔に菩薩道を修行して開いた智慧の寿命が、無量であり、尽きることがないということです。菩薩道、つまり利他の実践こそ、智慧を磨き福運を開く道です。「他の人のために」との豊かな心にこそ、尽きることなき智慧が開かれるのです。
 修行する釈尊は、九界と仏界に立て分ければ、九界の衆生です。その九界の生命に、本来、無量の智慧の寿命が具わっているのです。それが九界の生命の究極の姿であり、″妙″と言われるゆえんなのです。だれもが持っている、本源の妙なる生命を開くのが、仏法の目的です。
 また、「本果」とは、久遠の仏が本因の修行によって得た真実の仏の境涯のことで、それが思議し難く″妙″なので「本果妙」と言います。天台はこれを、常楽我浄の境地を究めることだと述べている(大正三十四巻七七ページ)。晴れわたった大空のように広々として清らかであり、しかも、何ものにも揺るがぬ不動の幸福境涯なのです。
 文上では「我れは成仏してより己来、甚だ大いに久遠なり。寿命は無量阿僧祇劫にして、常住にして滅せず」の文が本果妙を明かしています。ここで、久遠において本果を成就した仏が常住不滅だと説かれています。要するに、寿量品の本因・本果の法門とは、久遠の仏においては、本果である仏界の生命だけでなく、本因である九界の生命も常住であることを明かしているのです。
 九界の生命も常住しているがゆえに、成仏した後も、九界の衆生を救う菩薩行が続けられるのです。久遠における真実の成仏とは、本果を得て、本因の菩薩行が止まるのではありません。九界の生命を断じて、どこか別の仏の世界に去ってしまうのでもありません。
 九界も仏界も常住する──この久遠の仏の一身において示された生命の真実の姿に、未来の衆生を救済するために残すべき成仏の根本原理、すなわち十界互具・一念三千の法理が明かされているのです。大事なのはこの点です。
 大聖人は「開目抄」で、「本因・本果の法門」について次のように仰せです。
 「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし
 この「無始の九界」「無始の仏界」とは、それぞれ本因・本果のことで、それが久遠の仏の一身において互具しているのです。その十界互具・一念三千の生命が常住不滅なのです。
 ただし、文上では、悟りを開き示した仏(本果)の生命に、本果だけでなく本因もあることを述べている。つまり文上は、あくまで本果が表です。
 これに対して、大聖人の仏法では、本因を表に立てます。九界の凡夫が中心です。救うべき末法の衆生とは凡夫だからです。そのために本因妙を表す「我本行菩薩道」の文が、再び注目されなければなりません。すなわち、久遠において凡夫の釈尊が菩薩道を実践して無量の智慧の寿命を成就した、その原動力はそもそも何であったか。──それこそが南無妙法蓮華経にほかならないのです。南無妙法蓮華経は「我本行菩薩道」の文の底に秘されているのです。
 大聖人が「開目抄」で「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり」と仰せの「寿量品の文の底」とは、まさに「我本行菩薩道」の文底にほかなりません。
7  信心の″一念の妙″で輝く未来を実現
 久遠の凡夫・釈尊は、南無妙法蓮華経を修行して成仏しました。「因果倶時・不思議の一法」と言われるように、本因・本果は南無妙法蓮華経の一法に具わっています。そして、「因果一念」と言われるように、南無妙法蓮華経の一法を信ずる一念に、本因・本果は具わるのです。
 この「一念の妙」が、大聖人の「本因妙の仏法」の極意です。また、一念三千の究極です。凡夫の一念にも本因・本果がともに具わるのです。一念が変われば、一切が根底から変わるのです。
 本因・本果を一念の生命に見る文底仏法の生命観は、私たちに大変に重要な生き方を教えます。すなわち、つねに生命本源の出発点に立って、未来への新たな前進を開始することを教えるのです。
 私たちは瞬間瞬間、幸・不幸や苦・楽を感じて生きています。その現在の一瞬の生命は、過去の原因によってもたらされた結果です。このことは、比較的たやすく分かります。しかし、現在の一瞬の生命は、未来への原因でもある。このことは理屈のうえでは至極当然のようでいて、実際の生き方のうえでは気づきにくい。いかなる未来を実現するかは、現在の一念によるのです。戸田先生は言われています。
 「瞬間に起こった生活の事実を、たえず未来の原因とする、あるいは原因でなければならぬと決定するのが、本因妙の仏法であります」
 「御本尊様をしっかりと信じまいらせた生活は、日常の事件を清らかな久遠の因として活動するのであり、また御本尊様の功徳によって、はかりしれない生命力が涌くのでありますから、それが結果となるときには、かならずよい結果が生ずるはずなのであります」(『戸田城聖全集』3)
 本因・本果は、われわれの一念に具しているのです。因果倶時です。ゆえにわれわれは、生活のうえに起こるいかなることも、よしんばそれがどんなに不幸な結果であったとしても、信心の一念によって、久遠の本因──幸福の根本原因としていける。清らかな本源の生命から出発していけるのです。それによって、揺るがぬ幸福境涯へと生命全体が向かっていく。これが「本因妙の生き方」です。
8  末法の本尊は「本因妙の釈尊」である日蓮大聖人
 本因妙の心は、″人間の尊厳を開く実践″にあります。このことを端的に示しているのが、寿量品の「我本行菩薩道」の文です。
 「我」とは、先に述べたように、久遠において菩薩道を実践した「凡夫の釈尊」です。われわれと同じ人間です。決して人間を超えた何者かではない。久遠とは生命の本源であり、生命の本源に立ち返った久遠の凡夫が「本因妙の釈尊」です。
 この「本因妙の釈尊」を本尊とするのが、大聖人の仏法なのです。久遠における「本因妙の釈尊」は、すなわち末法の御本仏日蓮大聖人であられる。久遠即末法です。
 このことは大聖人の次の仰せから明らかです。
 「今日蓮が修行は久遠名字の振舞に芥爾計も違わざるなり
 「久遠の釈尊の修行と今日蓮の修行とは芥子計も違わざる勝劣なり
 すなわち″今、末法における日蓮大聖人の修行は、久遠における名字凡夫の釈尊の修行と少しも変わることがない″と仰せです。
 名字とは名字即のことで、妙法を信受する凡夫の位をいう。日寛上人も本因妙の釈尊即大聖人、久遠即末法と拝する理由について、行位全同──「行」と「位」がまったく同じだからである、と言われている。(六巻抄八八ページ)
 「行」は修行であり、妙法受持の実践です。また「位」とは名字凡夫の位です。つまり行位全同とは、人間として妙法を受持しぬく実践が、久遠と末法ではまったく同じであるということです。
 妙法を受持する「人間としての実践」が妙であり、不可思議であるといえる。そこに、成仏の本因・本果、すなわち幸福の根本原理が具わるからです。それが本因妙ですそれゆえ、末法においては、本因妙の釈尊即日蓮大聖人を本尊と拝すべきなのです。
9  不軽菩薩が歩んだ″人間の尊厳″を開く道
 久遠の菩薩道とは何か──その一端を示すのが不軽菩薩の実践です。不軽菩薩は、釈尊が過去世に菩薩の修行をしていた時の名で、威音王仏の滅後悪世に出現した、と法華経では説かれている。
 この不軽菩薩について、大聖人は「我とは本因妙の時を指すなり、本行菩薩道の文は不軽菩薩なり」と仰せです。不軽菩薩の実践は、「本因妙の釈尊」の菩薩道に当たるのです。
 不軽菩薩は、会う人ごとに「我深く汝等を敬う」と唱えて礼拝した。それは、すべての人が仏になれるからです。人間への最も深き共感にもとづく実践です。「人を敬う」という″人間の尊厳″を開く無上道の実践が、久遠の菩薩道に通ずるのです。不軽菩薩は、この信念の実践をひたすら貫いた。
 しかし、世は濁世です。この不軽の実践の偉大さが分かるはずもない。否、偉大なものには冷笑を浴びせかけ、自らの小賢しさを恥ずかしげもなくひけらかし、尊大ぶる人間が多いのが濁世です。そうした愚者たちが、信念を屈しない正義の人に対して、迫害をもって報いるのです。
 不軽は杖で打たれ、石をもって追われるという迫害を受けました。しかし、この時の不軽の行動がおもしろい。すなわち、追われた不軽は少し逃げる。しかし、逃げ去るのではありません。杖や石が届かない所に来ると振り返って、また「我深く汝等を敬う」と言って礼拝を行うのです。
 不軽の行動は柔軟です。服従するのでもない。何がなんでも立ち向かうのでもない。卑屈さもない。気負った英雄主義も悲壮感もない。しかし、その柔軟さの中に強靭さがある。どんなに迫害を受けても、決して信念を曲げません。信ずる哲学を捨てません。どこまでも不退なのです。
 妙法受持とは、一面、″信念の実践″の異名です。それが成仏の因となり、不軽菩薩は後に、釈迦仏となって生まれたのです。
10  「大善は菩薩の行にあり」と牧口先生
 軽やかに、粘り強く、そして人間の中へ──この不軽の実践こそ、成仏の本因、すなわち久遠の菩薩道に通ずる、と私は思う。人間の中で妙法を語り、讃嘆する実践が、自身の妙法への信を深め、ついには本果へと至る。実践こそ妙なのです。
 牧口先生は言われました。
 「いかなる生活法でも生活しないものには分からないごとく、大善生活法は菩薩行をしない中小善の生活者には分からないはずである。行をしなければ本当の信心は起こり得ないであろう」と。
 菩薩行を実践してこそ本当の信心が分かる。「行」があってこそ、信心の深き意義と無量の功徳を体得できるのです。
 「本因」の生き方──それは、民衆の中へ、作業着を着て飛び込んでいく実践者の人生です。特別に着飾る必要など何もない。赤裸々な人間として、無作の振る舞いで、人々に安心を与え、心田に幸福の種を植え付けていく。それが本因の菩薩行です。
 大聖人は、本因妙の仏です。御本仏であられるが、あくまでも凡夫の立場で菩薩道を実践された。終始一貫して、凡夫として戦われた凡夫即極。これが大聖人の仏法の精髄です。
 竜の口の発迹顕本後も、色相荘厳の仏のような特別な姿を現したわけではない。しかし、胸中には久遠元初の法が赫々と輝いておられる。末法万年のために御本仏としての振る舞いを行じられている。「人間」としての究極の姿を示された。これが大聖人の発迹顕本です。
 私たちの仏道修行は、本果を高く仰ぎ見る修行ではない。受持即観心ですから、瞬時にして仏界を涌現することができる。
 その仏界の生命を基底としつつ、あえて、九界に向かうことが本因の菩薩道なのです。いわば、仏界を基調に、現実の九界の社会に飛び込んでいくのです。
 すなわち、勤行・唱題という自行と妙法流布の化他行とを絶えず往復する。この連続行動の中に、仏界を顕す要諦があるのです。したがって、本因妙の仏法は、絶えず、現実生活、時代社会を志向した生き方、実践の中にこそある。ゆえに、大聖人の仏法では、信心即生活、仏法即社会が法理の中核に位置づけられているのです。
11  ″いよいよこれから″と連続行動を
 これまでも、さまざまな機会に語ってきましたが、日淳上人は、本因妙の精神について、こう述べられている。
 「仏様の御化導の上の姿の判別にのみ用いて自分の生活様式の範であることに気がつかぬなら本因下種の御教は死んでいる」(『日淳上人全集』)と。
 私もそのとおりだと思う。現実生活から遊離した仏法談義はそれ自体、御本仏の御心を断っている
 日淳上人はまた、「本因下種とは常に此れからだという心持ちであることであるといって差支えあるまい」(同前)とも述べている。
 私も、いつも語ってきました。「いよいよ」の心に、大聖人の本因妙の仏法の魂がある、と。「今だ」「これからだ」と、どこまでも「現在」から「未来」へと挑戦し続ける。それが本因妙の人生です。皆さまにもこの生き方を会得していただきたい。「本因妙」の赫々たる″太陽″が昇れば、宿業等の過去の因果は″星辰″のごときもので、急速に光を失っていくのです。
 この講義の中でも一度、ふれましたが(本巻一八七ページ参照)、戸田先生は、何度も教えられていた。──妙法に帰依しゆくとき、途中の因果が、みな消え去って、久遠の凡夫が出現する、と。
 「久遠の即夫」とは、地涌の菩薩の異名です。地涌の菩薩は、苦悩の衆生を救うために、自ら、悪世に生まれてくる。自ら、「因位」の立場に立って、願って宿業を持って生まれてくる。それは、宿業転換のドラマを演じ、仏法の偉大さを証明するためです。
 それゆえ、私たちは、一人一人の宿業の違いはあっても、信心を根本に広宣流布に邁進しているとき、すべてが転重軽受、宿命転換となっているのです。「地獄の苦みぱつときへて」と仰せです。妙法を受持した以上、もはや罪障も罪障ではない。
 御本尊を受持すれば、仏の因行も果徳も、すべて私たちの身のうえに得ることができる。過去の罪障は、すべて仏界の大境涯を開きゆくカギとなる。煩悩は即菩提であり、苦難は即安楽と開けるのです。
12  本因妙の精神は「無限の希望」「永遠の向上」
 仏界にも苦悩の九界が具わり、また九界の現実に即してしか仏界も顕れない。十界互具という生命の実相が現れるのです。
 大切なことは、苦難があっても、絶対に、ひるまぬことです。嘆きや疑い等の弱き心を持つてはならない。「これからだ」という強き一念が、一念三千の法理に則り、三千次元に回転して、崩れぬ幸福の大境涯をもたらすのです。
 苦しみにつけ、喜びにつけ、一心にただ一生成仏を願ぃ、妙法を唱えていく。何があろうとも、そのたびに一歩また一歩、強き心で広宣流布へと勇んで進んでいく。その強盛なる「信心」を貫く人こそ、瞬間、瞬間、かぎりなく御本仏の大慈悲に生命が包まれゆく人なのです。ここに「本因妙の仏法」のすぼらしき醍醐味があります。
 釈尊は、こう語っている。
 「過去を追うな/未来をいたずらに願うな/過去は、すでに捨てられたのである/また未来は未だ到達していない/現在のことがらを、現実の中でよく見極め/揺らぐことなく、また動ずることなく/それを明らかに知った人は/その境地をいちだんと高めよ/ただ今日まさに為すべきことを心を尽くしてなせ」(一夜賢者経)と。
 大切なことは、今、この瞬間です。現在の一念です。決意です。過去の業因業果の呪縛を自らの内発の力で断つことが、確たる幸福への軌道に乗ることになるのです。永遠の幸福境涯、最高の人生を目指して、つねに生命の本源から出発していくのが「本因妙」の信心です。本因妙の精神とは、「無限の希望」「永遠の向上」にあるのです。
 ゆえに、私たちは、毎日、つねに本源の出発点に立ち戻り、そこから新たに前進を開始するのです。勤行・唱題は、毎日、久遠元初の世界に立ち返る秘法です。毎日が久遠元初からの出発です。永遠に原点から出発し続ける信心──これが「本因妙の仏法」なのです。

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