Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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以諸衆生。有種種性。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
1  以諸衆生。有種種性。種種欲。種種行。種種憶想。分別故。欲令生諸善根。以若干因縁。譬喩言辞。種種説法。所作仏事。未曾暫廃。
 諸の衆生は、種種の性、種種の欲、種種の行、種種の憶想分別有るを以ての故に、諸の善根を生ぜしめんと欲して、若干の因縁・譬喩・言辞を以て、種種に法を説く。作す所の仏事は、未だ曾て暫くも廃せず。
2  〔通解〕──衆生には、さまざまな性質、さまざまな欲求、さまざまな行い、さまざまな観念や判断の違いがあるため、すべての衆生に諸の善根を生ぜしめようと望んで、多くの因縁を説明し、多くの譬えや言葉を用いて、さまざまに教えを説く。その仏の行いは、いまだかつて瞬時も止まったことはない。
3  〔講義〕仏の″利他の智慧″が説かれています。「一人」ももらすまい、落とすまい、この仏の慈悲の誓願なのです。三界の実相を如実知見する仏の智慧は、そのまま千差万別の衆生を一人一人、温かく見守る″慈愛の眼″なのです。
4  万人の幸福へ仏の闘争は止まず
 また、一人一人の個性を大切にする″民主の眼″でもある。久遠の仏とは、「一人」と対話し、心を通わせる仏です。永遠の生命であるがゆえに、いつでも、だれのところにも出現するのです。ゆえに、万人を幸福に至らしめる仏の闘争は止むことはない。仏は、休みなく、人々の苦悩を取り除こうと真剣に考え、行動し続ける。その仏の慈悲の営みが、久遠以来、現在まで続いて絶えることがないと明かしているのが、この経文です。
 救うべき衆生は無数です。また個性豊かである。ゆえに、その救済に徹する仏は長寿なのです。智慧も深いのです。功徳も無量です。「人のため」であればこそ、無量の功徳がある。「自分だけのため」の人には決して知り得ない、偉大な生命力が涌現してきます。
 経文に「諸の衆生は、種種の性、種種の欲、種種の行、種種の憶想分別有るを以ての故に」とあります。釈尊は、ある経典(聖求経)で、衆生の機根が千差万別であることを、美しい譬えを用いて語っている。
 「蓮華には青いものも、赤いものも、白いものもある。水中で繁茂するものも、水面に達するものも、水面から出るものもある」
 機根や気質は、人それぞれ違う。それが自然です。実相です。違っていることが、生きている証明とも言える。皆、同じであれば、ロボットです。
 仏は、この「違い」や「異なり」を尊重します。「百人」いれば「百人の喜び」がある。「千人」いれば「千人の苦悩」がある。「一切衆生の異の苦」と「同苦」するのが仏です。ゆえに、仏は、一人一人の異なった性質や欲求の違いを的確にとらえ、多彩な譬えや言葉を駆使して教えを説く。そして、最終的に、一仏乗の法を聞ける機根にまで人々を高めるのです。
 たとえば、釈尊の時代に須利槃特と言う仏弟子がいた。彼は物覚えが悪く、仲間が行う修行が十分にできなかった。とうとう実の兄からも、「お前など、いくら修行しても無駄だ。さあ家に帰れ」とまで言われた。須利槃特は、追い出され、がっくりして一人去ろうとする。すると、そこに近づいて来る人がいた。釈尊です。
 仏は、優しく須利槃特の手を取って連れ戻した。そして釈尊は足拭きの布を渡した。須利槃特は、ほこりまみれだった。「このほこりまみれの布を、清らかなものと想像してごらん」と釈尊は語った。
 仏教の教えの中に、「清潔」とか「不潔」とかいう外面的な差別にとらわれるな、というのがある。真の″清らかさ″は心の中にこそある、と教えています。須利槃特は理論では理解できなかったが、師の優しさが込められている布を見ては、「あの時の感動」を忘れずに「足拭き布は清らかだ」と思い続けた。修行が楽しくなり、やがて清らかな天眼を持つ一流の修行者となった──。(『仏弟子の告白』中村元訳、岩波文庫、参照)
5  妙法を語ることは最高の「仏事」
 仏は、決して、どのような人も見捨てない。他のだれが見捨てようと、仏は智慧を自在に発揮してその人を救うのです。
 「若干の因縁・譬喩・言辞を以て、種種に法を説く」──仏は対話の名手です。座談の達人です。哲学者ヤスパースが釈尊を「言葉を自在に使う人」(『佛陀と龍樹』峰島旭雄訳、『ヤスパース選集』5所収、理想社)と評したように、仏は縦横自在に法を説き、確信の響きで、すべての人々を救う。
 その対話の目的は、人々の心に「善根」を生じさせることです。どの人にも等しく幸福を得させることのできる究極的な因は、南無妙法蓮華経にほかなりません。妙法は最高の善根です。したがって、この妙法を友に教えていくことは、まさしく最高の仏の行い、「仏事」となるのです。
 経文では、その仏の行いは「未曾暫廃」──瞬時も、たゆむことはない、と述べている。仏には、休みがない。地上の悲惨を根絶するまで止むことはない。
 釈尊は、こう語っている。「昼も夜も、私には悔いがない。寝ているときにも、私の心は一切衆生を救いたいという思いで満たされている」と。
 ゆえに、仏は地の涯であろうと、そこに救うべき「人」がいる限り、歩み続ける。釈尊が弘教のために訪れた町や村は数え切れない。ある研究によれば、舎衛国には、なんと九百回以上も説法に出向いている。摩訶陀国の首都・王舎城には百二十回以上、跋耆国ばつぎこくの首都・毘舎離には四十九回、故郷の迦毘羅城には三十一回、憍賞弥国には十九回、という説法の記録があるという。(『原始佛教聖典の成立史研究』、『前田恵學集』別巻1所収、山喜房佛書林)
 それぞれが何百キロメートルも離れているのです。もちろん、交通手段は徒歩以外にはない。死の直前の弘教も、二百五十キロメートルにも及んでいる。この仏の「未曾暫廃」の姿こそが、弟子たちに「生きることの偉大さ」「生命の崇高さ」を確信させたのではないだろうか。
 一般に、仏教というと、「瞑想する仏」「座す仏」という静的なイメージがあるが、実際の釈尊は違う。″歩く釈尊″″行動する釈尊″のダイナミックな姿こそ、真実の釈尊である。仏とは間断なき闘争者の異名です。仏は行動し続ける。民衆の幸福を築くために。あらゆる権威から民衆を解放し自由にするために。その姿こそが「未曾暫廃」なのです。
6  未曾暫廃──「日蓮一度もしりぞく心なし」
 日蓮大聖人も、釈尊以上の「未曾暫廃」の忍難弘通の御生涯であられた。
 建長五年(一二五三年)、南無妙法蓮華経を一閻浮提に向かって高らかに宣言されてから、全民衆の幸福と平和を願う闘争は休みなく続けられた。とりわけ文応元年(一二六〇年)に時の権力者への諌暁の書「立正安国論」を著されて以来、権力からの弾圧は熾烈を極めた。
 繰り返し襲う迫害。松葉ヶ谷の法難、伊豆流罪、小松原の法難、竜の口の法難と佐渡流罪等々。いかなる大難にも大聖人は、「日蓮一度もしりぞく心なし」「今に至るまで軍やむ事なし」と、悠然と立ち向かわれた。晩年の身延山中の御生活も、隠遁などの言葉とはほど遠かった。粗末な草屋に住されながら、門下に法華経などの講義を続けられた。
 傲慢な権力者や人々をたぶらかす宗教者には烈火のごとき言論戦を挑まれ、苦悩に沈む民衆には春風のごとく温かな御手紙を送り続けられた。その御著作、御消息文(手紙・書簡など)は現存する物だけでも類まれな数であると言われています。
 まさしく、大聖人の「仏事」は瞬時も休むことのない「未曾暫廃」であられた。「日蓮生れし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし」と仰せの御生涯であられた。そればかりではありません。大聖人は、御本尊を顕され、大慈悲行を永遠たらしめられた。末法万年の衆生を救済する道を開かれた。
 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが流布るべし」と仰せです。これ以上の「未曾暫廃」はありません。なんとありがたいことでしょうか。
 この「未曾暫廃」の経文について、戸田先生がユーモアを交えて講義されたことがあります。
 「われわれに日曜日がありますが、御本尊様には日曜日がないんですよ。御本尊様が『今日は休みだ』なんていったら都合が悪いでしょう。夜中に腹痛を起こして、御本尊様を拝んでも、御本尊様が寝ていて起きてこないなんていったら困るじゃないか」と。また、「われわれみたいなものが、みなさんのために一時間や二時間働くことは、これは当たり前のことなんです。それでも仏様の働きからみれば、何億分の一、何千万億分の一しか働いていないことになる。そう思うと励まされます」とも述べられていた。
 戸田先生は、会合や指導に出かける時、よく「未曾暫廃」の言葉を語られていた。疲れが重なり、かなり体が弱っておられた時も「仏が『未曾暫廃』であられたのだから、使命に生きぬく私も頑張らなければならない」と、出かけられた。この言葉は、いまだに私の耳朶に焼きついていて離れません。
 私も同じです。大聖人門下として、戸田先生の弟子として、瞬時も休むことなく、広宣流布のために祈り、行動してきました。仏法は精進行です。創価学会は、この「未曾暫廃」の精神があればこそ、今日の大発展があったのです。広布の指導者には停滞はありません。
 といっても、指導者は、皆に疲れがたまり、休むべきところを、無理させるようであってはならない。価値的に、リズミカルに、楽しく──それが「未曾暫廃」の秘訣です。また、どうすれば皆が希望に燃えて進めるのか。この一点に心を配り、少しも気を緩めない。その一念が仏の「未曾暫廃」に通じる心です。
 汲々とではなく、悠々と戦いましょう。私たちにとっての「未曾暫廃」とは何か。それは、勇気凛々と戦うことです。いかなる波浪や逆風にも、″戦う心″で立ち向かうことが、この経文に通じていく。その心が、わが生命を健康へ、長寿へと向かわせていくのです。人々のため、社会のために使命を果たしぬこう──こう決めるのが″如来寿量″の「未曾暫廃」の生き方なのです。

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