Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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所以者何。如来如実知見。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

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2  〔通解〕──(如来が説いたことにはうそはなく、すべて真実であるといったが)その理由は何であろうか。如来は如実に三界の相を知見しているからである。生や死というが、この三界から退き去ることも、この三界に出現することもない。また世に在る者、減度した者という区別もない。
 この三界のありさまは、真実でもない。そうかといって虚妄でもない。このようであるということもない。またこのようではないということもない。如来は、三界を、三界の衆生が見るようには見ていない。このようなことを如来は明らかに見ていて、誤りがないのである。
3  〔講義〕仏法の眼目ともいうべき偉大な生命観が明かされています。人類の境涯を高める鍵が、この経文にあります。
 生と死──人間にとって、これほど身近なものでありながら、これほど深遠な謎もないでしょう。寿量品には、この謎に対する本源的で、しかも最も納得できる答えがある、と私は確信する。この経文は、その答えの一つです。
 日蓮大聖人は「先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と、生死の問題が仏法の最も重要な課題であることを明かされています。戸田先生も「仏法の解決すべき問題の最後は死の問題であります」(『戸田城聖全集』5)と、よく言われていた。生死の問題にどう応えるか。そこに、二十一世紀の宗教の重要な要件があると思う。
4  仏の智慧は「生も死もない」と見る
 この経文には、三界の衆生の姿をありのままに知見する仏の智慧が説かれています。
 方便品では、仏の智慧は「諸法実相」として説かれましたが、この経文では、さらに具体的に、衆生の「生死」に焦点をあて、「生死不二」の実相を知見する仏の智慧が説かれているのです。
 最初に「所以は何ん」とあります。これは、久遠の仏がさまざまな姿を現し、さまざまな教えを適切に説いて、誤りなく衆生を導いていけるのは何故か、という意味です。
 これに対して、まず「如来は如実に三界の相を知見す」(仏は、三界の姿をありのままに知見しているからである)と答えています。「三界」とは、欲望の世界(欲界)、物質世界(色界)、精神世界(無色界)の三つで、六道の凡夫が生死流転する世界とされます。いずれも、生命に対する無知(無明)に支配された″迷いの世界″であり、この無知こそが、人間の不幸と苦悩の根源なのです。
 久遠の仏とは、永遠に衆生救済の活動を続ける仏です。この仏が、三界の相を如実に知見するのは、衆生を「生死の苦」から救うためです。「如来如実知見」とは、久遠の仏が衆生を救済するための智慧を表しているのです。
 そして、その智慧によって知見された三界のありのままの姿が、次のように明かされています。
 「生死の若しは退、若しは出有ること無く、亦た在世及び滅度の者無く」
 ──三界には生も死もなく、退くことも、出現することもない。したがって、世に在る者と滅度した者という区別もない──と。
 「生も死もない」とは驚くべき教えです。私たちは、通常、生と死は人間の厳然たる事実であると考えているからです。しかし、この経文は、生死の事実を否定するものではありません。その事実を認めながら、より深い生命観から、生死をとらえ直すことを教えているのです。
5  生死とは妙法の奏でる一大リズム
 考えてみれば、ここに説かれているのは、久遠の仏の姿そのものです。久遠の仏は、真実には無始無終の生命であり、裟婆世界に常住しているのです。したがって、生死も、退出も、在世・減度の区別も、本来はありません。しかし、衆生救済のための方便として出現し、入滅していくのです。
 この経文では、その久遠の仏の生命の在り方を、そのまま三界の衆生に当てはめていると言っても過言ではありません。そうなのです。三界の衆生と久遠の仏とは、生命の本源の姿に、おいては同じなのです。それが、三界のありのままの姿なのです。
 日蓮大聖人は、このことを明確に明かされています。「如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり」と。
 如来も三界の衆生も「十界本有」──十界を本来具えている大生命体として一体なのです。したがって、寿量品の如来とは、三界の衆生にほかならないのですまた、このように見るのが如実知見であると仰せです。
 言うまでもなく、この本有の大生命体こそ南無妙法蓮華経であり、大聖人の御生命の当体であられます。それを大聖人は、十界を具足した御本尊として顕してくださったのです。このように見るとき、われらの生死も「本有の生死」(御書七五三ページ)であると、深くとらえなければなりません。すなわち、われらの生死は、本有の大生命体における生死であり、大生命体の変化そのものなのです。
 ゆえに、大聖人は「妙は死法は生なり」とも、「生死も唯妙法蓮華経の生死なり」とも明かされています。すなわち、生死とは、宇宙根源の妙法が奏でる一大リズムにほかならないのです。したがって、宇宙のあらゆる現象も生死の二法であり、妙法のリズムを奏でていると大聖人は仰せです。そのように宇宙をありのままに見るのが如実知見です。
 われわれの生命は、宇宙と共に本有常住であり、無始無終です。それが、ある縁を得ては生を現し、やがて大宇宙に冥伏し、休息していくのです。それがわれわれの死です。死によって生命が断絶するのではありません。死とは、ある意味で、生き生きとした次の生のための方便とも言えましょう。
 生命そのものは、「無有生死」であり、「生死不二」です。「常住不滅」なのです。このことを見極めれば、生を軽んずることもなく、いたずらに死を恐れることもなくなります。焦らず、怠らず──″今この瞬間″を正しく見つめ、不断の向上の道を歩んでいける。これが、「如実知見」の人生です。
 アメリカの思想家エマーソンは、確信を込めて語っている。
 「意味があるのは、私たちの生きる深さであって、生活の表面的なひろがりなどでは断じてない。私たちは永遠へと突入してゆく。(中略)そして、まことに、思想の速度がすこしでも加われば、思想の力がすこしでも増してゆけば、人生は巨大な長さをもつもののように見えて来る」(『生活について』小泉一郎訳、『エマソン選集』3所収、日本教文社)と。
 大切なのは、「生きる深さ」です。「思想の力」です。この人生を真に深く生き切る人には、一日が十日にも、一月にもなる。一年が十年、百年の価値をも生んでいけるのです。これこそが、その人の真実の「寿命」です。表面的な時間の長さで決まるものではありません。
 私も、その覚悟で生きてきました。戦ってきました。これからも戦っていく決意です。だから、私は何があっても恐れません。一切を悠々と、師子王の心で乗り越えていけるのです。
6  三世の生命観に立てば″大安心″の境涯
 三世の生命観に立てば、生死という根源的な苦悩も乗り越えていくことができます。仏のような大安心の境涯に立てます。そうなれば、何も怖いことはありません。
 仏が目指した永遠の価値創造の戦い──一切の人々の幸福と世界の平和実現のために、尽くしていける自分になれるのです。皆さまもまた、そういう堂々たる人生を歩んでいける仏子なのです。
 経文ではさらに、久遠の仏が如実知見する三界について、こう説いています。
 「実に非ず虚に非ず、如に非ず異に非ず、三界の三界を見るが如くならず」──真実でも虚偽でもない。また、このような在り方であるとも言えず、それとは異なる在り方であるとも言えない。如来は、三界を、三界の衆生が見るようには見ていない。
 要するに、仏は円満な中道の智慧で三界を如実に知見するのであって、衆生が三界を見るときのような偏った見方をとらない、ということです。
 文底から言えば、「如実知見」している「如来」とは、日蓮大聖人です。大聖人こそ、久遠元初から常住する慈悲と智慧の生命──寿量品の文底に秘沈されている南無妙法蓮華経の大生命の当体なのです。そして、私たちが拝する御本尊は、大聖人の慈悲と智慧の御生命そのものです。
 戸田先生は、このように講義されていました。
 「御本尊を拝みまいらせて、御本尊の生命をこちらへいただくと、われわれのこの生命それ自体が、南無妙法蓮華経というものなのですから、御本尊の力が、グッとこっちへ出るのであります。そうすると、世の中のことをみても、大きなあやまりがなくなるのであります。(中略)信ずることによって、御本尊のお力をいただいて、世の中をわたるのに、間違いないようにしていこうというのが、われわれの主張なのであります。御本尊を信じて、間違いのない人生を送ろうではありませんか」(『戸田城聖全集』5)と。
 「間違いなき人生」──悪縁に満ちた現代において、これほど難しいものはありません。また、これほど大切なことはありません。私たちは、御本尊を拝する信心に、仏の慈悲の心と如実知見の智慧をいただいて、わが人生を正しく歩むことができるのです。
7  人々を幸せに──慈悲の一念が智慧を生む
 時代は動いています。世界も日本も、根底から変動しつつあります。この大変動の時代にあって最も大切なものは何か。──ただ一つだけ答えを挙げるとすれば、それは「智慧」以外にはありません。
 個人にあっても、団体にあっても、時代・社会を洞察し、生き生きとした智慧を発揮すれば、いかなる激動にも流されません。変化を「発展へ」「勝利へ」「価値創造へ」と転じていけます。反対に、硬直化した旧思考の人は取り残されます。変化への対応を誤れば敗北です。今は、そういう厳しい時代でもある。決して甘く見てはいけない。だからこそ、幸福のため、勝利のために、「如実知見」の智慧がますます大事になってきているのです。
 端的に言えば、「知識」は過去であり、技術です。「智慧」は未来であり、哲学です。時代を動かすのは人の心です。「知識」は、参考にはなっても、未来を導く力にはなりません。
 これに対して、「智慧」には人の心を魅了し、時代を開く力があります。「時」を知り、「時」を作る要諦は「智慧」です。
 信心は、無限の智慧の宝庫です。大聖人は、信心について「一念三千の宝篋ほうきょう」であると言われている。妙法を信ずる心は、一念三千という仏の智慧を納める宝箱なのです。ゆえに、私どもは、いかなる変化、激動にも驚く必要はない。信心という胸中の宝箱に仏の無限の智慧を持っているからです。無限の智慧があれば、どんなことがあっても、変化即勝利、激動即発展のリズムで、悠然と、適切に乗り切っていけます。
 「如来如実知見。三界之相」とは仏の智慧を説いています。「三界の相」すなわち「現実世界の実相」を、ありのままに見るのが仏の智慧です。
 なぜ仏は三界の実相を如実知見するのか。それは、言うまでもなく、三界の衆生を苦悩から救うためです。仏の智慧の根源は慈悲です。慈悲から起こる智慧、慈悲と一体の智慧が仏智です。
 苦しんでいる人がいたら救わずにはおくものか──この強い慈悲の一念が、この現実世界を根底まで見通す仏の智慧を生むのです。慈悲の一念があればこそ、不幸と分裂の現実世界に即して、一念三千という「妙法の世界」、「調和の世界」を如実知見できるのです。
 仏とは「智慧を命とする人」です。寿量品には「智慧を命とする仏」の寿命が無限であると説かれているのです。「衆生を救うために無限に活動し続ける智慧」こそ、久遠の仏の本質です。したがって、寿量品の仏の中心的な意義は「智慧」すなわち「報身如来」にあります。
 報身とは、仏道修行の結果(報い)として得られた仏の威徳です。その功徳の中心が、現実世界を妙法の世界と如実知見する仏の智慧です。仏は、その智慧によって、妙法による真実の安楽を自ら受け、用い、楽しみ切っていけるのです。このような仏を「自受用報身」とも言います。
8  寿量品の仏の特色は「報中論三」
 この意味から、天台は寿量品の仏の特色を「報中論三」と位置付けました(大正三十四巻一二九ページ)。すなわち、報身を中心として、その中に法身如来・報身如来・応身如来の三身が論じられているのが寿量品であるとしています。
 「法身如来」とは、常住不変の真理である「妙法」そのものをいいます。仏の智慧とは、第一義的には、妙法を覚知する智慧です。仏の悟りにおいては、智慧と妙法は一体です。妙法を離れて智慧はありません。
 このように智慧と一体の妙法をわが身とする仏を「法身如来」といいます。妙法は時間的には永遠であり、空間的には広大無辺です。大宇宙のリズムとして、仏がこの世に出現していようがいまいが関係なく、働き続けています。
 そのことを示しているのが「無有生死」以下の経文です。──生も死もない。世間でいう真実でも虚偽でもない。これこれのものと同じであるとも、異なるとも言えない──とあります。要するに、妙法の世界は、三界の衆生の世間知では、つかみ切ることができないのです。
 生も死も含め、一切の現象を包み込むのが宇宙根源の妙法です。その妙法をありのままに知見し、そのままわが身としている仏、いわば宇宙そのものをわが身とする仏が「法身如来」です。
 しかし、仏の智慧で妙法を説き示さなければ、だれも生命本然の妙法の力を存分に活用することはできません。本当の意味で妙法が働くのは、仏が出現し智慧を働かせて妙法を説き示した時です。仏の智慧が起こるのは、衆生が仏を求める時です。人々の求道心を感じて、それに応じて仏が現れてくるのです。
 衆生の心、機根に応じて現れてきた仏が「応身如来」です。仏の智慧が具体的に仏・菩薩の姿形をとって出現して、人々を教え導くのです。その姿は、寿量品では、以前に学んだ「或説己身。或説他身‥‥」等のいわゆる″六或″の経文に示されています。
 皆が最も納得する姿形で、皆が最も安心する振る舞いをして、衆生を導いていくのです。その根底には、仏の智慧が働いています。報身如来が息づいているのです。″人々を幸せにしたい″との慈悲から発する智慧──それが仏を出現させる根源の力です。このように寿量品では、報身を中心に久遠の仏を説き、しかも、その一身に法・報・応の三身が一体となって具わっていることを明かしています。これを天台は「一身即三身・三身即一身」と言っています(大正三十四巻一二九ページ)
 三身一体で常住する仏──要するに、寿量品の仏は、深き境涯から発する「慈悲」と「智慧」の光で、永遠に衆生を照らすのです。仏の深き″人格の光″は不滅です。それが、衆生を導く力なのです。
9  「一身即三身・三身即一身の仏」とは日蓮大聖人
 文底から言えば「一身即三身・三身即一身」の仏とは、南無妙法蓮華経如来すなわち日蓮大聖人です。
 文上の久遠の仏においては、修行の結果として成就した報身の一身に三身が具わることが示されました。これに対して、文底においては、凡夫の一身に三身が本来、具わっているのです。これを「無作の三身」といいます。「無作」というのは、この大宇宙に本来、三身の徳が具わっており、作り改める必要がないからです。したがって、また、凡夫の姿を改めることなく、この仏身を成就することができるからです。
 そして、この「無作の三身」こそが究極の仏身です。寿量品の本意は、釈尊滅後の一切衆生を救うことにあります。この救済を可能にするために、寿量品の文底に、究極の「無作の三身」が秘沈されているのです。ゆえに、大聖人は、″寿量品ではいったい、何が説かれているのか″という問いを立て、次のように答えられています。
 「われら凡夫は、無始以来、生死の苦悩の底に沈んで、仏道の到達点を夢にも知らなかった。しかし、寿量品では、その衆生の世界を無作の三身となして、一念三千の極理を説いているのである」(御書一二八〇ページ、通解)と。
 大宇宙を如実知見すれば、宇宙には、本来、三身の徳が具わっているのです。それが生死の苦悩に沈む衆生の世界の実相なのです。この宇宙は、物質を生み出し、星々を生み出し、そして地球上には、山河や大海を生み出し、やがて生命をも生み出してきました。そして、数億年をかけて種々の生命体を次々と生み出し、ついには人類を生み出したのです。これらはすべて無作三身の働きだと言うこともできるでしょう。
10  無作の三身は「信の一字」に具わる
 戸田先生は、一瞬一瞬の生命や現象が、すなわち如来であると言われていた。また、命を生み出し、命を育む働きは、宇宙に本然的に具わる「慈悲の行業」である、と見ぬかれていました。
 そして、この慈悲の行業をつねに行おうとしている宇宙が、「時」を感じて、冥伏している仏界を顕現させる、それが仏の出現であると教えられていた。
 では、この無作の三身を、われらはどうすれば覚知できるのか。
 大聖人は仰せです。
 「此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり
 「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり
 「信心」にこそ、無作の三身が現れるのです。尊極の妙法も、仏の無量の智慧も、衆生を救済する慈悲の働きも、すべて「信心」に納まる。だから「信心」に徹する人に智慧が現れないわけがない。
 戸田先生は、言われていた。
 「大御本尊様を信じまいらせて題目を唱うるとき、信は因となり、口唱は果となって、この信行具時にして仏果をえ、われわれの生命のなかに、久遠無作三身如来の御生命がヒシヒシと流れつたわってくるのである。
 また、「大御本尊の大功徳は、すべて、われわれ凡夫の一日一日の生活のなかに、ほとばしり出ているのである。われわれ凡夫は、ひたすらに、御本仏の大慈悲心、大智慧カを信じまいらせることによってのみ、御本仏の眷属として、即身成仏と開覚されるのである。これ以外に、『仏』というものは絶対にない」(『戸田城聖全集』3)と。それほどすごい御本尊なのです。「信心」に生き切った人は、それほど偉大な幸福境涯になれるのです。
 しかも、「無作」である。飾らず、繕わず、自分らしく悠々と仏の境涯を開いていけるのです。だから「信心」に徹することが大切なのです。「無作の三身」──それは、平凡にして偉大なる「信心の王者」の異名なのです。

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