Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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所以者何。如来如実知見。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

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10  無作の三身は「信の一字」に具わる
 戸田先生は、一瞬一瞬の生命や現象が、すなわち如来であると言われていた。また、命を生み出し、命を育む働きは、宇宙に本然的に具わる「慈悲の行業」である、と見ぬかれていました。
 そして、この慈悲の行業をつねに行おうとしている宇宙が、「時」を感じて、冥伏している仏界を顕現させる、それが仏の出現であると教えられていた。
 では、この無作の三身を、われらはどうすれば覚知できるのか。
 大聖人は仰せです。
 「此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり
 「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり
 「信心」にこそ、無作の三身が現れるのです。尊極の妙法も、仏の無量の智慧も、衆生を救済する慈悲の働きも、すべて「信心」に納まる。だから「信心」に徹する人に智慧が現れないわけがない。
 戸田先生は、言われていた。
 「大御本尊様を信じまいらせて題目を唱うるとき、信は因となり、口唱は果となって、この信行具時にして仏果をえ、われわれの生命のなかに、久遠無作三身如来の御生命がヒシヒシと流れつたわってくるのである。
 また、「大御本尊の大功徳は、すべて、われわれ凡夫の一日一日の生活のなかに、ほとばしり出ているのである。われわれ凡夫は、ひたすらに、御本仏の大慈悲心、大智慧カを信じまいらせることによってのみ、御本仏の眷属として、即身成仏と開覚されるのである。これ以外に、『仏』というものは絶対にない」(『戸田城聖全集』3)と。それほどすごい御本尊なのです。「信心」に生き切った人は、それほど偉大な幸福境涯になれるのです。
 しかも、「無作」である。飾らず、繕わず、自分らしく悠々と仏の境涯を開いていけるのです。だから「信心」に徹することが大切なのです。「無作の三身」──それは、平凡にして偉大なる「信心の王者」の異名なのです。

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