Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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諸善男子。如来所演経典。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
2  〔通解〕──多くの善男子よ、如来が述べる経典は、みな、衆生を救い悟らせるためである。あるいはわが身を説き、あるいは他の身を説き、あるいはわが身を示し、あるいは他の身を示し、あるいは自分の事を示し、あるいは他人の事を示す。このようにして説くすべての教えは、みな、真実であって、うそではない。
3  〔講義〕これまで釈尊が述べてきた爾前経は、みな衆生を救うために説いたものであり、さまざまな立場で説いた教えは、すべて偽りではなかったと強調しています。
 「或は己身を説き、或は他身を説き」等とありますが、ここは「或」という字が六回出てくるので、「六或」といいます。
4  仏界に十界のすべてが具わる
 大聖人は、この文を「仏界に十界すべてが具わっている」ことの文証とされています(御書二四〇ページ)。すなわち「己身」「他身」等とは、久遠実成の仏が説き示した十界のさまざまな境涯や振る舞いを指します。
 また大聖人は、この六或の経文を引かれ、こう仰せです。
 「十方の諸仏や過去七仏などの仏、上行菩薩をはじめ地涌の菩薩、文殊師利などの菩薩、舎利発などの二乗、大梵天王、第六天の魔王、帝釈天王などの諸天、阿修羅玉、一切世間の国々の主といった人々は、いずれも教主釈尊でないものはない。たとえば、釈尊は天の一つの月であり、諸仏・菩薩等は万の水に浮かぶ影である」(御書一一八七ページ、通解)と。
 こうした十界の姿は、皆、衆生を「度脱」させる(救い悟らせる)ための方便です。それらは現実に人々を利益してきた姿であり、久遠実成の仏の慈悲の表れであって、決して虚妄ではないのです。何と壮大な仏の境涯でしょうか。
5  「末法の経典」に説かれた御本仏の御境涯
 ここで出てくる「如来の演ぶる所の経典」とは、末法で言えば、日蓮大聖人の御書です。
 ″末法の経典″である御書には、御本仏の「六或」が説かれているのです。
 端的に述べてみると──
 或は己身を説き=日蓮大聖人が、御本仏の境涯を説かれた。
 或は他身を説き=大聖人が、菩薩から地獄までの九界の境涯を説かれた。
 或は己身を示し=日蓮大聖人が、御本仏の御姿を示された。
 或は他身を示し=大聖人が、九界の凡夫の姿を示された。
 或は己事を示し=大聖人が、御本仏のなすべき事柄を示された。すなわち、伊豆流罪、佐渡流罪をはじめとする「四度の大難」などのなか、厳然と妙法を流布され、また多くの門下を激励し、御書を認めるなど、令法久住・広宣流布の戦いを示されたこと。
 或は他事を示し=大聖人門下が、弘教に励み、御供養を差し上げ、功徳を受けた姿など。──と考えることができます。
 このように、御書に説かれる大聖人御自身の御振る舞いや、門下の信心の姿などに、御本仏の「六或」がすべて説き示されている。そのことごとくが、民衆を救う「度脱」のためのものであり、偽りはないのです。末法万年の民衆を救う御本仏の偉大なる″境涯の書″それが御書です。そして、御書の一節一節は、すべて南無妙法蓮華経という「一法」を教えるための御言葉となっている。
 戸田先生は、述べられている。
 「大聖人は(中略)南無妙法蓮華経ということだけを、ごらんになり、お説きになったのであります。
 『大聖人様、いちばん肝心要の説法を聞かせてください』
 『よしよし、そこへすわれ。南無妙法蓮華経、終わり』
 大聖人の三一十年間の説法は、たった一言なのであります。ゆえに、われわれが御本尊を信じて題目を唱え、折伏をやれば、かならず救われるのであります」(『戸田城聖全集』5)と。
 この人類を救う″根源の一法″を行じているのが、皆さま方です。
6  信心の労苦は″仏・菩薩の振る舞い″と輝く
 大聖人は仰せです。「只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」と。
 大聖人の御精神を拝し、「慈悲」の行動に励む皆さま方の毎日──それは、現実には悩みや労苦の連続であるかもしれない。皆さんのその尊い苦闘を、私はだれよりも深く知っているつもりです。
 しかし、一切を「或示己身。或示他身」という「仏・菩薩の振る舞い」と輝かせていけるのが、この信心です。悩んだ分、戦った分だけ、功徳は全部、自分に返ってくる。
 「皆な実にして虚しからず」です。仏法には、絶対に無駄はありません。ある時は悩み、ある時は凱歌の声を響かせながら、どうか私と共に、広宣流布の栄光のストーリーを演じきっていこうではありませんか。

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