Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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諸善男子。於是中間。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
2  〔通解〕──多くの善男子たちよ。
 (五百塵点劫の久遠の昔から法華経の会座の現在にいたるまでの)この中聞において、私は然燈仏などのことを説いたし、また、涅槃に入るとも述べた。
 このようなことは、すべて方便を用いて区別を設けて説いたことである。
 多くの善男子たちよ。
 もし、衆生が私のもとにやって来ることがあれば、私は、仏眼で、それらの衆生の信などの能力が鋭いか鈍いかを明らかに見て、救うべきところにしたがい、それぞれの所において、自ら異なった名や種々の寿命の長さを説いた。
 さらにまた、明確に『まさに涅槃に入るだろう』と言った。また、種々の方便を用いて如来の真実の妙なる法を説き、よく衆生に歓喜の心をおとさせた。
3  〔講義〕はじめに「中間」とありますが、これは、五百塵点劫の久遠に釈尊が成仏した時と、インド応誕の釈尊の在世の時(″今日″と言われる)の間を言います。この「中間」について詳しく述べている経文です。
 まず、かつて釈尊が″過去に然燈仏などの仏たちが出現した″と説き、また、″それぞれの仏が涅槃に入った(入滅した)″と説いてきた過去仏たちは、すべて方便であると明かしています。
 この直前の経文では、久遠実成の釈尊が裟婆世界に常住し、衆生救済の活動を続けていると説かれました。中間の過去仏の出現や入滅は、その久遠実成の釈尊が衆生を導くために方便として説き、また、現した姿なのです。
 「然燈仏」とは、爾前経では、釈尊が過去世に儒童菩薩として修行した時の師として説かれています。釈尊は、この時の修行によって、然燈仏から、未来に必ず成仏できると記別を与えられます。それが釈尊の今世の成仏(始成正覚)の原因となったとされるのです。
 ここで、とくに「然燈仏」の名が挙げられているのは、過去仏の中でも最も知られた仏であったからです。しかし、然燈仏をはじめとする過去仏が方便であれば、それらの仏のもとでなされた釈尊の歴劫修行も、その結果である今世の始成正覚も、方便となります。すなわち、この経文によって、中間における成仏の原因も、今日における始成正覚の仏果も、すべて方便であると打ち破ったのです。
 これら途中の因果を打ち破ってみれば、久遠の昔の修行が本因です。また、久遠に成仏したことが本果です。この本因・本果こそが真実の成仏の因果であることが、ことに明らかになったのです。
 また、ここでは、「涅槃」が問題になっています。すなわち、然燈仏等が涅槃に入ったというのは、方便であると言われている。
 涅槃とは煩悩を滅した静寂な境地を言うが、爾前経では、さらに身体を滅した時に″完全なる涅槃″に入るとされた。そこから、仏の死である″入滅″を意味するようにもなりました。
 寿量品では、心身の滅却を意味する″完全なる涅槃″なるものは、方便であると強調されていきます。法華経における真の涅槃とは″智慧の完成″なのです。決して心身の滅却ではありません。
 それゆえ、たとえ仏が入滅しても、それは方便であり、完成された仏の智慧は久遠実成の釈尊として、常住すると説かれるのです。なお、この点については、自我偈で「方便現涅槃(方便もて涅槃を現ず)」と説かれるので、後に詳しく述べることにしましょう。
4  仏は慈悲の力で民の苦悩を知って立つ
 次に「諸の善男子よ。若し衆生有って我が所に来至せば‥‥」以下は、中間における久遠実成の釈尊の振る舞いが明されています。
 なぜ久遠実成の釈尊が、中間においてさまざまな仏・菩薩として出現したのか。──それは「感応妙」の原理によるのです。
 経文に「若し衆生有って我が所に来至せば」とあるのは、感応の「感」です。衆生が久遠実成の仏を感じ、求めているのです。そして、「我れは仏眼を以て‥‥」以下は久遠実成の仏の「応」を説いています。久遠実成の仏は、人々の求めに応じて、さまざまな仏・菩薩の姿をとって出現するのです。
 仏の「応」の根底は慈悲です。悩み苦しんでいる人は、生命の奥底で仏法を求めています。仏を感じているのです。仏は、慈悲の力で、この声なき声を聞き取り、立ち上がります。衆生を救うために世に出現するのです。これが感応妙です。
5  苦しんでいる人を見たら、応じて立ち上がるのが仏の慈悲です。創価学会の実践の根底には、この慈悲の心がある。人の苦悩に同苦する心がある。
 だからこそ、真剣さが生まれ、智慧がわき、行動となり、発展があったのです。このことは絶対に忘れではならない。
 また、戸田先生は「人々が仏を感ずる、指導者を欲する、それに応じて仏が出現する」と語っておられた。仏は、深き生命観を体現した真の指導者です。
 人生にも社会にも文明にも、行き詰まりがあります。この行き詰まりを開くのは、生命への深き洞察に根差した哲学です。哲学なき時代の人々の心はさまよっている。──「このままでよいのか。しかし、どうしたらよいか分からない」「幸ぜになりたい。しかし、何が幸せなのか」と。
 広く言えば、この声なき声こそ、仏を感じ、呼び求める声です。私たちは、仏にならい、このような現代人の声に応じて立ち上がり、正義の対話の渦を巻き起こしてまいりましょう。
6  御本尊の功徳とは仏の″無量の大生命力″
 さて、経文には、久遠実成の釈尊が、自分を求める人々を救うために、どのように応ずるのかが詳しく説かれています。
 まず、仏は、衆生の機根が優れているか劣っているかを仏眼で洞察し、どう救うべきかを把握する。そして、それに応じて、種々の国土に出現して、自分について「名字の不同」(種々の異なる名前)や「年紀の大小」(寿命の長短)を説き分けた。つまり、名前や寿命が異なるさまざまな仏・菩薩等として出現したというのです。
 さらに、″これから涅槃に入ろう″と言って入滅した、とも説かれています。本当は、久遠実成の仏の生命は永遠です。しかし、人々を導くための方便として、仮に寿命を種々に区切り、種々の名を名乗って出現し、入滅したのです。
 いわば過去の仏・菩薩は、久遠実成の釈尊の″分身″として現れて、みなを指導してきたのだというのです。仏は永遠の寿命を自在に分かち、人々を教え導くのです。永遠の寿命とは、仏の無量の功徳です。「寿量とは仏の功徳を量ることである」(大正三十四巻一二七ページ)という天台の言葉もある。
 自身の寿命を完全燃焼させながら、あらゆる時代、あらゆる場所で、民衆に功徳を与えきってきた。
 仏が衆生を救うとは、いわば自身の寿命である大生命力を、人々に分かち与えることなのです。
 仏の功徳とは、根本的には「生命力」です。「生きぬく力」です。その仏の寿命(生命力)がじつは無量である、と明かしているのが寿量品なのです。私たちは日々、御本尊からこの無量の生命力をいただいている。功徳をいただいているのです。ゆえに、この御本尊の大功徳を讃嘆すればするほど、わが生命もますます威光勢力を増していく。輝きを放っていく。
7  仏法は最高の「健康」「長寿」の法
 御本尊への信心を根本として、人々の幸福のために祈り、動き、語る──そのリズム正しい繰り返しこそ、わが生命・生活を「長寿へ」「健康へ」「幸福へ」と向かわせるのです。
 私が以前、人生を健康で生きぬくために提案した次の″四つのモットー″も、この″信心即生活のリズム″を分かりやすく述べたものです。①張りのある勤行②無理と無駄のない生活③献身の行動④教養のある食生活、の四項目──。いわば信心は、最高の「健康の法」「長寿の法」でもあるのです。
 以上の経文を、文底の立場から読めば次のように言えます
 まず、「我が所に来至せば」──仏の前に衆生が集うこことは、文底から言えば、御本尊の前に私たちが端座することです。仏は、衆生の機根を見て、それぞれの状態に応じて法を説く──末法で言えば、万人を救済する日蓮大聖人の慈悲の御振る舞いです。
 戸田先生は、この経文について、御本尊が、われわれの信心などを観じ、大きな慈悲をくださるのであると述べられました。
 「諸根利鈍」とは、私たちの立場で言えば、信心の厚薄といえる。信心が深まれば深まるほど、御本尊の無量の功力を顕すことができるのです。
8  さらに、戸田先生は、次のようにも講義された。
 ──大聖人が、入滅に先立たれて、末法の私たちのために御本尊を残された。生きていらっしゃる時には日蓮大聖人と仰せられ、亡くなられては一閣浮提総与の大御本尊と仰せられる。これが「名字の不同」であり、「年紀の大小」である。仏の正体である──と。
 言うまでもなく、大聖人の仏法は、末法万年の大法です。未来永遠にわたって全人類を照らす光源です。「年紀」は無限です。
 また、「種種の方便を以て、微妙の法を説いて、能く衆生をして歓喜の心を発さしめき」とは、妙法蓮華経を説き、御本尊の力によって、大歓喜をわかせることにほかなりません。真剣に妙法を受持して、不幸になることなど、断じてありません。絶対にない。
 戸田先生は、御本尊を拝んで大歓喜がわかなくては真の信心とは言えない、とまで言われました。
 歓喜があれば、功徳の大輪は、ますます大きくなる。
 しかし、「こればかりは『それ、歓喜、歓喜』などと言っているだけでは、歓喜は出てこない。勤行で足がしびれて、『まだ終わらないか、ああ、歓喜、歓喜』──それでは歓喜になりません」とも語られていました。
 勇んで為すのが信心です。真剣に戦っていればこそ心が弾む。仏法に悲壮感はありません。″正義は楽し″です。にぎやかにして楽しく、明るく信念の道を進んでまいりたい。

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