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日蓮大聖人・池田大作

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自従是来。我常在此。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
2  〔通解〕──(釈尊)は、五百塵点劫の久遠の昔に成仏して以来、つねに、この裟婆世界にあって説法し、人々を教化してきた。また、他の百千万億那由佗阿僧祇という無数の国土においても、衆生を導き、利益してきた
3  〔講義〕最初に、釈尊が、五百塵点劫の久遠に成仏して以来、つねに、この裟婆世界で説法し、衆生を教化し続けてきたと説かれています。裟婆世界は本来、久遠の仏が常住する浄土(浄らかな国土)である──これは、まさに画期的な教えでした。戸田先生も、「ここへきて仏法がひっくり返ってしまったのです」と述べらていた。
 爾前経では、この裟婆世界は穢土(煩悩に汚れた国土)であり、仏が住む浄土は他にあるとされました。たとえば、西方の極楽世界には阿弥陀如来がおり、東方の浄瑠璃世界には薬師如来がいる等と説かれた。法華経迹門でも、基本的に、この爾前経の説がまだ踏襲されています。
 このように、爾前経では、″裟婆世界は穢土、他の国土が浄土″と差別を設ける。この考え方を初めて明確に打ち破ったのが、寿量品の経文なのです。
4  裟婆即寂光の法理を明かす
 この経文では、裟婆世界こそ久遠実成の仏が住む本国土であることを明かしています。
 仏が住む国土を「寂光土」と言います。ゆえに、この経文では「裟婆即寂光」の法理が明かされているのです。
 経文には次に「亦た余処の百千万億那由佗阿僧祗の国に於いても、衆生を導利す」とあります。久遠の釈尊は裟婆世界以外の無数の国土でも衆生を導いてきたということです。これは、他の国土の仏も、じつは久遠実成の釈尊の垂迹であり、分身だったと明かしているのです。
 大聖人は「開目抄」で次のように仰せです。
 「寿量品で久遠実成が明かされた時、すべての仏は釈尊の分身になる。爾前・迹門で、十方の世界を浄土、この裟婆世界を穢土と説かれていたのを逆転させて、この世界が本土であり、十方の浄土はむしろ垂迹の穢土となる」(御書二一四ページ、趣意)と。
 裟婆世界は、久遠の仏が縦横に活動し、衆生を救済する本土なのです。したがって、この裟婆世界とは別に浄土を求めても、すべて本土以外の垂迹の浄土を求めていることになる。つまり、影や幻を求めるようなもので、空しいのです。
 裟婆世界とは別に、爾前経の寂光土が説かれた理由は何か。それは、現実生活の欲望にとらわれた衆生に求道心を起こさせるためです。爾前経の寂光土は、方便の浄土にすぎなかったのです。
 寿量品では、現実世界とは別な所に理想的世界を立てる考え方が、打ち破られたとも言えます。人には、この現実を離れて、どこか違う世界に行けば幸福になれると考える″現実逃避的な生命″があります。幻の幸福は、どこまでも幻にすぎません。寿量品は、その迷妄を打ち破っているのです。
 大聖人は「御義口伝」で、こう仰せです。
 「ここを去つてかしこに行くには非ざるなり(中略)今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野せんごくこうや皆寂光土みなじゃっこうどなり」と。
 今、妙法を受持している人がいる所こそ「寂光土」なのです。「裟婆即寂光」こそ真実です。
 しかし、一方で、裟婆世界とは、「堪忍世界」とも呼ばれるように、衆生が苦悩に耐え続けなければならない世界を言います。このような世界が即ち寂光土であるというのは、どういうことでしょうか。
 それは、寿量品で「裟婆世界=堪忍世界」の意味が大きく転換したことを示しています。すなわち、衆生が苦悩や悲しみに耐え続けなければならない″悲劇の場″から、仏があらゆる困難を耐え忍んで衆生を救い続ける″民衆解放の舞台″に変わったのです。
5  この世界こそわが使命の仏国土
 文底から言えば、この″舞台″で活躍するのは、久遠実成の釈尊だけではありません。すでに述べてきたように、久遠実成を″元初の生命に立ち返ること″ととらえるのが、文底の意です。
 戸田先生は「是れ自従より来、我れは常に此の裟婆世界に在って、説法教化す」の経文を引き、「大宇宙即御本尊ということであり、南無妙法蓮華経の生命は、久遠以来、大宇宙と共にあるということです」と語られたことがあります。
 元初の生命に立ち返れば、裟婆世界即大宇宙なのです。自在な振る舞いの大舞台なのです。われら凡夫も、妙法を受持して元初の大生命を開けば、裟婆世界の困難を悠然と耐えつつ、民衆解放に生き切る使命の勇者としての本地を顕すことができるのです。最も大変な場所に飛び込み、最も苦しんでいる人々を抱きかかえ、友と語り、友を守るそして「裟婆即寂光」の″希望の革命″を起こしていく。そこに地涌の勇者の人生がある。仏法者の精神が光る。
 大聖人は、こう仰せです。「本化弘通の妙法蓮華経の大忍辱の力を以て弘通するを娑婆と云うなり、忍辱は寂光土なり此の忍辱の心を釈迦牟尼仏と云えり」と。
 本化、すなわち地涌の菩薩として、南無妙法蓮華経の大生命にもとづく大忍辱の力で、妙法を弘通していく姿こそ「娑婆=堪忍」なのです。そして、その忍辱の姿にこそ、寂光土があるのです。私たちが、勤行・唱題によって、宇宙大の本源の生命を胸中に涌現し、悩める人々のために裟婆世界の現実に入っていく姿こそ、「裟婆即寂光」なのです。尊極の本源的な生命に目覚めるならば、苦しみと宿命に満ちた現実の穢土は、歓喜と使命に満ちた浄土に変わるのです。
6  「浄土」の真の意味──仏国土を清浄に
 「厭離穣土・欣求浄土」という言葉が、古くから日本で使われてきました。この苦悩の現実社会を厭い離れ、死後の極楽往生を願う──仏教は長い間、そのような逃避的、消極的、厭世的な宗教と考えられてきたのです。
 しかし、「現実から離れた浄土」という考えは、衆生の機根に合わせて仮に説かれた方便にすぎません。一時の慰めにはなっても、真実の幸福をもたらす教えではありません。
 日蓮大聖人は「守護国家論」のなかで、「法華経を修行する者は、いずれの浄土を願ったらよいのか」という問いに答えて、次のように述べられています。
 「法華経二十八品の中心である寿量品に『我常に此の裟婆世界に在り』とある。(中略)この文のとおりであるならば、久遠実成の本地を顕した完全な仏は、この裟婆世界にいる。だから、この裟婆世界を捨てて、その外にどこの国土を願う必要があろうか」(御書七一ページ、通解)
 ″浄土は裟婆世界に求めよ″と仰せなのです。この現実社会こそ、本来、浄土なのです。
 そして、その本来の浄土を実現していくために努力していくことにこそ、仏教の精神があるのです。
 仏教は、決して、人里離れた山林にこもり、自分だけの悟りを目指すような宗教ではない。また、現世をあきらめて、死後の幸せのみを期待するような宗教でもありません。
 「浄土」という語には、「浄仏国士」つまり「仏の国土を清浄にする」という積極的、実践的な意義が込められています。本来、ここに「浄土」の意義があるのです。日本の仏教では、この本義が完全に消え去り、浄土は「死後の世界」「あの世」になってしまいました。「浄土」とは、すなわち「土を浄める」ことです。環境を変革する行動であり、建設なのです。
7  「立正安国」の精神に仏法の正統
 経典には、国土変革のための具体的な行動さえ説かれている。
 たとえば、釈尊は「不毛の土地に木々を植え緑豊かな園林となし、川に橋をかけ、乾燥地に井戸を掘り灌漑池を作り、道に旅人たちのための休息所をつくる──このような人の功徳は日々増大し、真理に立つことができる」(『ブッダ 神々との対話』中村元訳、岩波文庫、参照)と言っています。
 この釈尊の精神を、国家の政治理念として実行したのが、アショーカ大王でした。
 正法時代の大論師・竜樹も、当時の王に「病人、孤児、貧しき人を保護せよ」「災害、凶作、疫病などで荒廃した地域で、人々の救済活動を行え」「人を権力で不当に拘禁してはならない」(「ラトナーヴァリー」瓜生津隆真訳、『世界古典文学全集』6所収、筑摩書房、参照)などと諌言しています。
 仏教における「浄土」の本義は、大聖人の「立正安国」の理念と実践にのみ生きている、と言わざるをえない。現実の国土の変革──この精神こそ仏法の正統なのです。
 戸田先生も「わがこの裟婆世界は安穏、平和のところでなければならない。原子爆弾がとんだり、爆弾が飛行機からふったりしてはならないのである。人殺しだの、餓死だのということが、妙法流布の世界にはあってはならない」(『戸田城聖全集』3)と語られていた。
 皆さんも、勤行の時に世界平和、全民衆の幸福を御祈念されている。また、来る日も来る日も、友の悩みを聞き、広布の実践に励まれている。まことに尊い「浄仏国土」の実践なのです。
 創価学会は、仏の使いとして菩薩道を行じている。″わが地域を、そしてこの国を、また全世界を、常寂光土と光り輝かせていこう″──こう決意して進むなかに、「裟婆世界説法教化」の姿があるのです。

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