Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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爾時仏告。大菩薩衆。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
2  〔通解〕──その時に仏は、大菩薩衆に次のように告げられた。
 「多くの善男子よ。
 今まさに、はっきりと、あなた方に宣べ語ろう。
 この多くの通り過ぎた世界、すなわち細かな塵を置いた世界も、置かなかった世界も、ことごとく、また砕いて塵として、その一粒の塵を一劫として数えよう。
 私が成仏してから、現在に至るまでの時聞は、また、これよりも百千万億那由佗阿僧祗劫も多いのである。
3  〔講義〕ここで釈尊は、″今、はっきりと宣言しよう″と述べて、「五百塵点劫」の久遠を明かしています。まず、先に述べた微塵を置いた国も、置かなかった国も、全部の国土を集めて、それをまた塵にしなさい、と言うのです。
 そして今度は、この無数の塵の数を時聞に置き換えます。すなわち、″最終的にすりつぶした塵の「一粒の塵」を「一劫」として数えよう″と。劫とは長大な時間の単位です。
 最後に釈尊は、その測り知れない時間よりも、さらに百千万億那由佗阿僧祇劫も前に、自分は仏に成っていた、と明かすのです。これが「五百塵点劫」です。
4  五百塵点劫は始成の成仏観を打破
 五百塵点劫は、無限長遠の過去ではあるが、有限な時間のようにも見えます。なぜなら五百塵点劫の時点で釈尊が成仏したとされ、″始まり″があるように説かれているからです。しかし、その本質は″無始″なのです。なぜなら、五百塵点劫が説かれるのは、″ある時に始めて仏に成った″とする始成正覚の成仏観を破るためだからです。
 問題は成仏観です。無明を打ち破ってみれば、生命は本来、無始無終であり、その本来の生命をありのままに開くことが成仏なのです。
 大聖人は「観心本尊抄」で、妙法を受持するわれらの「己心の釈尊」は、「無始の古仏」であると仰せです(御書二四七ページ)。この文底の趣旨を明らかにしたのが「久遠元初」です。「久遠元初」とは、生命の本源、大宇宙の本源という意味です。その本源の生命こそ久遠元初自受用身如来の生命であり、即南無妙法蓮華経です。「久遠とは南無妙法蓮華経なり」と仰せです。
 戸田先生は言われた。
 「日蓮大聖人の生命というもの、われわれの生命というものは、無始無終ということなのであります。これを久遠元初といいます。始めもなければ終わりもありません。大宇宙それ自体が大生命体であります。(中略)
 大宇宙ですから、始めもなければ終わりもないのであります。このままの地球だけなら、始めも終わりもあるのであります(『戸田城聖全集』5)と。
 私たちの生命は、創造神のような″作者″によって作られた″作品″ではない。宇宙と共に実在し、宇宙と共に無限に続きゆくものです。あえて言えば、生命自体が作者でもあり、作品でもあるのです。
 文底から言えば、寿量品を聞いたすべての衆生は、煩悩を断じてしだいに成仏に近づくという在り方を転じて、ただちに南無妙法蓮華経の大生命を信受したのです。五百塵点劫は、この元初の大生命に立ち返らせるための″巧みな譬喩″なのです。

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