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日蓮大聖人・池田大作

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譬如五百千万億。那由佗。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
1  譬如五百千万億。那由佗。阿僧祗。三千大千世界。仮使有人。抹為微塵。過於東方。五百千万億。那由佗。阿僧祇国。乃下一塵。如是東行。尽是微塵。諸善男子。於意云何。是諸世界。可得思惟。校計知其。数不。弥勒菩薩等。倶白仏言。世尊是諸世界。無量無辺。非算数所知。亦非心力所及。一切声聞。辟支仏。以無漏智。不能思惟。知其限数。我等住。阿惟越致地。於是事中。亦所不達世尊。如是諸世界。無量無辺。
 譬えば五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を、仮使い人有って抹して微塵と為して、東方五百千万億那由佗阿僧祗の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて、是の微塵を尽くさんが如し。諸の善男子よ。意に於いて云何ん。是の諸の世界は、思惟し校計して、其の数を知ることを得可しや不や」と。
 弥勒菩薩等は倶に仏に白して言さく、
 「世尊よ。是の諸の世界は無量無辺にして、算数の知る所に非ず、亦た心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞・辟支仏は、無漏智を以てするも、思惟して其の限数を知ること能わず。我れ等は阿惟越致地に住すれども、是の事の中に於いては、亦た達せざる所なり。世尊よ。是の如き諸の世界は、無量無辺なり」と。
2  〔通解〕──(釈尊が菩薩たちに語られる)
 譬えば、ある人が、五百千万億那由佗阿僧祇という無数の三千大千世界を、すり砕いて細かい塵とし、その塵を持って東の方へ行き、五百千万億那由佗阿僧祇という無数の国を過ぎるごとに、その塵を一粒ずつ落としていく。このように、東へ行き、この塵をすべて落とし尽くしたとする。善男子よ。この間に通り過ぎた世界の数は、どれほどあると思うか。考えたり、おしはかったりして、その数を知ることができるかどうか」
 弥勒菩薩らが、ともに次のように仏に申し上げた。
 「世尊よ。今言われた多くの世界は、無量無辺であって、計算して知ることもできず、また、心の力の及ぶところでもない。
 一切の声聞や縁覚が、その汚れなき智慧をもって考えても、その数を知ることはできない。また、私ども菩薩は不退転の位にいるけれども、このことについては、少しも知ることができない。
 世尊よ。このような多くの世界は、ただ無量無辺であると申し上げるしかない」
3  五百塵点劫の成道を明かした釈尊
 〔講義〕釈尊が、どれほど長遠の昔に成仏したかを示すために、譬えが説かれていきます。これにより、いわゆる「五百塵点劫」が明かされます。
 初めに「五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界」とあります。
 「五百千万億那由佗阿僧祇」とは、「五×百×千×万×億×那由佗×阿僧祗」という数です。しかも、「那由佗」や「阿僧祇」は、数えることのできない″無数″を意味する。無数に無数をかけ合わせるのですから、だれも算出できるはずがありません。
 また、「三千大千世界」とは、古代インド人の世界観における″全宇宙″を意味します。これ自体、広大な広がりをもっている。「一世界」には、太陽があり、月があり、世界の中心には、想像を絶する高さをもつ須弥山があります。それを十億集めたのが三千大千世界です。
 しかし寿量品では、「五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界」と言って、広大な宇宙観をもはるかに凌ぐ膨大な数の世界を提示しているのです。
 そのうえに経文では、この広大無辺な世界を、すべてすり砕いて細かな塵とせよ、と説きます。この塵の数は、さらに測り知れない。「微塵」とは、これ以上砕けない最小の物質です。現代で言えば、原子や素粒子に当たるかもしれない。
 その無数の塵を、今度は、東方へ向かって運び、五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎるごとに一粒ずつ落とす。二粒以上落としては、いけないのです。そのようにして、この微塵がことごとく無くなったとする。その間に通り過ぎた国はいくつあるか、と釈尊が弥勒らに尋ねます。もはや、だれにも答えられないことは明白です。
 この問いかけを受けて、寿量品の対告衆の代表である弥勒菩薩が答えます。″通り過ぎた世界の数は、計算することもできないし、心の力の及ぶところではありません″
 「心力の及ぶ所に非ず」とは、煩悩を断じたとする声聞・辟支仏(縁覚)の二乗の智慧でも、不退転の位に入った大菩薩の境涯でも分からないということです。たんなる数や時間の長さの問題ではなく、じつは境涯が問われているのです。すでに一分の無明を断じているとされる不退の大菩薩でも分からない──これは、最も根源的な″元品の無明″を打ち破らなければ、寿量品の久遠は分からないということです。
 寿量品の冒頭で「信解」が強調された意味もことにあります。日蓮大聖人は「元品の無明を対治たいじする利剣は信の一字なり」と仰せです。
4  広大な境涯を開く随自意の譬喩
 爾前経でも、無量の数を説くことはあります。しかし、寿量品では、たんなる抽象的な数として「無数」を説いているのではない。微塵にして、その塵を落としていくというように、一見、具体的に考えられそうな譬えを用いて、イメージを想起させたうえで、その思索を畳みかけるように次々と打ち破っていきます。同じ「無数」と言っても、弥勒たちにとってみれば、実感が違うし、心の深まりが異なる。
 ここで説かれている譬喩は、爾前経のような随他意(仏が九界の衆生の心に随う)の譬喩ではありません。衆生の狭い境涯を開き、仏の広大な境涯へと引き込んでいく随自意(九界の衆生を仏界に随わせる)の譬喩なのです。釈尊の説法を聴きながら、弥勒をはじめとする大衆は、大宇宙を自在に舞いゆくような仏の大境涯に、ぐいぐい引き込まれていく思いがしたことでしょう。

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