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日蓮大聖人・池田大作

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唯仏与仏。乃能究尽。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
1  唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。
 唯だ仏と仏とのみ乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。所謂る諸法の、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」と。
2  〔通解〕──ただ仏と仏とのみが、よく諸法の実相を究め尽くされているのである。それは、いわゆる、諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等である」と。
3  〔講義〕いよいよ、方便品の最も大事な「諸法実相・十如是」の文に入ります。釈尊が、方便品の冒頭から「甚深である」「難解である」と讃嘆してきた仏の智慧とは、いったい何なのか。それを説き示そうとしています。
 仏と仏とのみが究め尽くした諸仏の智慧とは、「諸法の実相」であり、実相とは、具体的には諸法の相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等の「十如是」であると明かしているのです。
 諸法実相の「諸法」とは、十界の正報(主体)と依報(環境)、つまりすべての衆生とその環境世界です。森羅万象、あらゆる物ごとや現象のことです。また「実相」とは、読んで字のごとく真実ありのままの姿です。
 「諸法の実相」とは、「あらゆる現象の真実ありのままの姿」と言えます。
 そして、その「実相」の内容を示したのが、以下に続く十如是です。そこで、この経文を「十如実相」の文と言います。
4  十如是とは何か
 まず、十如是のそれぞれの意味を簡単に述べてみると──。
5  如是相=外に現れた姿
 如是性=内なる性質
 如是性=相・性を合わせた全体
 如是力=潜在的な力
 如是作=力が外に向かって働きかける作用
 如是因=物ごとの起こる直接的原因
 如是縁=因を助ける間接的原因や条件
 如是果=因と縁によって生じた結果
 如是報=結果が事実となって外に現れ出ること
 如是本末究竟=第一の相から第九の報までが関係し合って一貫していること
 ──こう説明できるでしょう。
 このうち相・性・体の三如是は諸法の″本体″です。力・作・因・縁・果・報の六如是は諸法の″働き″を表しています。そして、この相から報までの九如是の一貫性を本末究竟等が示しています。もちろん、それぞれに「如是」(若くの如き=このような)という語がついているように、本来は言葉で表し難い仏の知見を、「あえて言い表すとこのように表現できる」ということです。
6  ここで、例を通して述べてみましょう。あなた自身という存在は「諸法」の一つです。あなたの顔立ちや背格好などは、諸法であるあなたの「如是相」です。
 また、外には見えないが、あなたの心の中にあるもの、たとえば「気が短い」とか「気が長い」とか、「優しい」とか「おとなしい」とか、いろいろな性格、性分は、あなたの「如是性」です。この如是相と如是性から成り立っているあなたの心身の全体、つまり、あなた自身が、「如是体」なのです。
 そして、あなたの生命は、さまざまな力(如是力)を持っているし、それが外に向かってさまざまな働き(如是作)を起こします。
 また、そうしたあなた自身の生命が原因(如是因)となり、内外の助縁(如是縁)が加わって、あなた自身の生命に変化が起こり(如是果)、それがやがて現実の報い(如是報)として現れます。しかも、この九つが一貫して欠けることなく、あなたという生命、あなたの境遇を織りなしている(如是本末究竟等)。これがあなたの「十如実相」です。
 私という人間も、また皆さん自身も、この十如是というありかたで生きている。皆さんの中で「私には如是相がない」という人はいないでしょう。それでは″透明人間″です。同じように「性格がない」という人もいないし、「何の力もない」「働きもない」という人だっていないのです。さらに、如是相は私だが、如是性はAさんで、如是体はBさんで‥‥」などということもありえない。すべが一貫して(本末究竟等)、あなた自身のかけがえのない生命を成り立たせているのです。
7  そして十界のそれぞれが、境涯に応じた十如を具えています。
 たとえば地獄界の人は、暗くふさいだ、苦悩に打ちひしがれた如是相をしています。その如是性は、苦しみや瞋りにまみれていますから、如是力・如是作も、周囲を暗く沈ませるものとなるでしょう。
 また天界の人の如是相は、にこにこした明るい表情でしょうし、如是性は、それこそ″天にも昇る″ような気持ちで、何を見ても楽しいものでしょう。そういう人は、他人をも何か伊き浮きさせる如是力・如是作を持っています。
 このように、十界の境涯に応じた相・性・体・力・作・因・縁・報があり、すべてが本末究竟して等しいというのが実相なのです。
 戸田先生は、「ここに、かりにドロポウがいるとする。そのドロボウは、如是相から如是報まで、こごとくドロボウであるのであります。それが本末究竟等、一貫しているわけであります」(『戸田城聖全集』5)と教えられていました。
8  真実を見極める仏の智慧
 諸法のありのままの「実相」を究めるというのは、ただ物ごとの表面だけを見るのではない。こうした生命の広がり、奥行きをあますことなくとらえきるということです。人間だけに限りません。路傍に咲く一輪の花にも、美しき相があり、性質があり、その体がある。また力・作・因・縁・果・報の、どれ一つも欠けることがない。そして全体として、花という生命を織りなして一貫している。
 さらに、無生物も同様です。小さな石ころも、大空も、月も、星も、太陽も、潮の香りを運んでくれる海も、峨々たる山々も、喧騒の街を見下ろす都会のビル群も、家や車や一つ一つの調度も──。ありとあらゆる存在が、十如是という様式で存在しているのです。
 これが仏の究めた諸法実相の智慧です。すなわち、「諸法」を見れば、仏はその「実相」が分かる。人々の姿を見れば、その人の境涯が分かり、本来、仏であることが分かる。自然を見れば、その尊い輝きを感じとることができる。また社会の現象を見れば、その意味を鋭く見ぬくことができるのです。
 このように、あらゆる事物の本質を見極めるのが諸法実相の智慧と言ってよいでしょう。
 仏法では、人間の境涯によって五眼(肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼)があると説きます。菩薩や仏界の眼である法眼・仏眼で、すべてを見ていくのが「諸法実相」の智慧です。もちろん″見る″というのは一例であって、″聞く″ことも″嗅ぐ″ことも、″味わう″ことも″触れる″ことも、″感ずる″ことも、すべて「真実ありのまま」でなければならない。
 「現象は過ぎ去る。ぼくは法則を探す」(イジドール・デュカス『ロートレアモン全集』渡辺広士訳、思潮社)──フランスの詩人ロートレアモンは、こうつづっています。移ろいゆく現象に即して、その真相を深く、鋭く見ていく眼。これを究めた人が仏です。
 日常生活のちょっとしたことでも、思い違いや見間違い、偏見や憶測などによって、失敗や損をすることが多いのが、凡夫というものです。
 まして、人生や社会の根本問題になれば、「真実を見る」ことがどれほど難しいか。同じ「諸法」を見ていても、仏はそこに「実相」を見るが、凡夫はそうならないのです。これは一つの譬えですが、大科学者ニュートンは、木から落ちるリンゴを見て万有引力の法則を発見したと伝えられています。落下するリンゴ(諸法)を見て、地球上のすべてのものに引力が働いているという真理(実相)を見いだしたのです。これなどは、諸法実相の智慧の一分に通ずると言えるでしょう。
 いくらリンゴが落ちるのを見ても、そとに何の洞察もなければ「実相」は見えません。ニュートンの発見によって、人類に新しい世界が開け、大きな利益がもたらされたのです。いわんや、諸法の実相を見極めるという仏の智慧が、人生の幸福や人類の向上にとって、どれほど大切であるか、計り知れません。
9  諸法に即して実相が
 しかし、現象の「奥に」実相を見いだすというと、現象と離れて法則がどこかに実在しているような印象になります。そうではありません。諸法と実相の関係について言えば、両者はあくまでも一体です。諸法に即して実相を見、実相は諸法としてしか存在しないと的確に見るのが仏の眼です。決して別々には存在しないのです。
 譬えて言えば、刻々と変化してやまない「諸法」は″波″であり、「実相」とは、″海″そのものにあたると言えるでしょう。波は海から生じ、波がしらはすべて海水です。また波として現れない海はない。両者は一体です。また、実相をか″鏡面″に、諸法を″像″に譬えることもできると思う。鏡面は、あらゆるものを像として映し出します。光がある限り、像の映らない鏡面はありません。また、映っている像も、鏡面を離れてはありえないのです。
 さらに、これを生命という観点から見ると、諸法とは個々の生命であり、実相とは仏が覚知した宇宙大の生命そのものを指すとも言えます。個々のどんな小さな生命の中にも、宇宙生命そのものを見るのです。
 言い換えれば、あらゆる衆生は仏が悟った妙法の当体であり、仏性を具していると見るのです。それが仏の諸法実相の智慧です。諸法に即して実相を見る仏の眼とは、一切衆生を救い、成仏させていこうという慈悲の眼でもあるのです。
 大聖人は、「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命とかれて三千大千世界にてて候財も・いのちには・かへぬ事に候なり」と仰せです。一人の命、一つの生命は、全宇宙の宝よりも尊い──これは、諸法に実相を見る仏法のすばらしい生命観と言えましよう。生命というのは不思議です。その不思議なる生命の真実の姿を究め尽くしたのが、仏の智慧なのです。何と広大にして、深遠な英知でしょうか。
 この仏の眼から見れば、この世界、この宇宙は、「生命が輝く世界」です。「万物が歌う世界」です。ありとあらゆるものが、かけがえのない個性をもち、価値をもつ世界であることが実感できる。「生命への感動」「生きる喜び」に満ちた境涯──それが仏知見なのです。
 そして、後に述べるように、文底の立場から言えば、諸法実相とは御本尊のことです。御本尊を持つ私どもにとっては、すべてを「仏法の眼」「信心の眼」で見ていくことが諸法実相の智慧となるのです。
10  宇宙のすべてが妙法蓮華経の姿
 十如是の経文に即して、「ものごとの実相を究めた仏の智慧」について述べましたが、日蓮大聖人は「諸法実相抄」で、この十如実相について、根本の意義を、ずばりと教えてくださっています。
 「諸法実相抄」は、門下の最蓮房が、方便品の「諸法実相乃至本末究竟等」の経文について質問したことに答えられた御手紙です。最蓮房は、天台宗の学僧であたといわれ、教学を熱心に勉強していました。
 同抄で大聖人は、冒頭から端的に仰せです。
 「答えて云く下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・ことごとく一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」──答えていうと、(諸法実相の文は)下は地獄から、上は仏界までの十界の依報と正報の当体が、ことごとく一法ものとさず妙法蓮華経のすがたであるという経文である──。
 十如実相の文が示しているのは、千変万化するすべての生命(諸法)が、ことごとく南無妙法蓮華経の姿(実相)であるということである、と。
 全宇宙が妙法そのものなのです。森羅万象が妙法の歌であり、舞踏であり、劇であり、詩であり、きらめきであり、生死であり、苦楽であり、流転であり、前進であり、本来、歓喜の中の大歓喜なのです。その諸法の実相を現実に自覚し、実現していくための信心です。自由自在の大境涯を開いていけるのです。
 十如是に「本末究竟等」とあるのは、如是相から如是報までの九如是が、地獄界なら地獄界として等しいという意味だけではありません。「妙法蓮華経のすがた」として等しいという、より根本的な意味があることを大聖人は明かされているのです。一切を「妙法蓮華経のすがた」としてとらえるのが、「諸法の実相」であり、仏の智慧なのです。
 別の御書にも、「此の十如是と云は妙法蓮華経にて有けり」と明言されています。
 南無妙法蓮華経は、十界の生命(諸法)に即して顕現してやまない宇宙根源の法(実相)です。この根源の妙法を悟られたのが仏であり、その仏の生命を大聖人は御本尊として顕されたのです。ゆえに十如是は、究極するところ御本尊を示しているのです。
 戸田先生は、次のように講義されました。
 「この十如是というものは、御本尊のお姿というものを、略して説いていることになるのであります。そこで、方便品は大事なのであります。表からいえば、十如是だけです。これは教相の面であります。日蓮大聖人の御内証、観心の目からみれば、りっぱにこれは御本尊になるのであります」(『戸田城聖全集』5)と。
 すなわち、文底から読むならば、「諸法実相」とは「御本尊」にほかならないのです。
11  諸法実相の仏──その身、その場で「仏」と輝く
 そして、あえて諸法と実相を立て分けるならば、御本尊の中央に御認めの「南無妙法蓮華経 日蓮」が実相に当たり、左右の十界の衆生が諸法を代表しています。一念三千で言えば、一念は実相、三千は諸法です。
 この「事の一念三千の御本尊」を拝することによって、私たち九界の衆生も、南無妙法蓮華経の光に照らされた諸法実相の生命活動となるのです。大聖人は「十界の衆生ことごとく諸法実相の仏」と仰せです。地獄界なら地獄界、人界なら人界、その身そのままの姿で、実相すなわち妙法蓮華経の当体と光ることができるのです。
 どこか遠い所に行くのではない。何か特別な自分になるのでもない。苦しんでいるなら苦しんでる、喜んでいるなら喜んでいる、その姿のまま、素直に御本尊を拝し、広宣流布へと行動していけば、必ず「諸法実相の仏」となるのです。自分だけの自分の使命が果たせるのです。事実の上で、一念三千の自在の力用を生活の上に、人生の上に表現できる自分になるのです。
 日寛上人は「観心本尊抄文段」で、「我等一向に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ちこれ本尊なり」(文段集四六〇ページ)と仰せです。妙法を自行化他にわたって修行することによって、われの生命全体が本尊となる。自身の生命を、事実の上で妙法の当体と光らせることができる。
 戸田先生は述べられています。
 ──御本尊を拝んで南無妙法蓮華経を唱えることによって、わが生命のなかにずーっと御本尊がしみわたってくるのであります。目を開いて大宇宙を見れば、そこに御本尊がいまし、また、目を閉じて深く考うれば、御本尊が明らかに見え、わが心の御本尊が、そこにいよいよ力を増し、光を増してくるのである──と。
 本来、全宇宙が諸法実相であり、御本尊なのです。本来、わが生命も諸法実相であり、御本尊なのです。ゆえに御本尊を拝するとき、宇宙とわが生命がダイナミックに交流しつつ、自身の本来の「実相」すなわち南無妙法蓮華経の当体としての姿に輝いていくのです。本来の仏の智慧がわくのです。慈悲の行動へ勇気がわくのです。福徳の黄金の軌道に入っていくのです。何とすばらしい御本尊でしょうか。なんとすばらしい法華経の智慧でしょうか。御本尊こそが、くめども尽きぬ「福」「智」の当体であり、「末法の法華経」であられることをかみしめたいものです。
12  十界互具・一念三千
 十如実相が説かれたことによって、仏の智慧の内容がほぼ示されました。方便品では、この後、″この仏の智慧をすべての人々に聞かせ、示し、悟らせ、智慧の道に入らせる″という、仏の唯一の教え(一仏乗)が説かれます。そして、法華経以前に、声聞・縁覚・菩薩のために説いた三種の教え(三乗)は、方便であると明かされます。これを「開三顕一」と言います。
 十如実相の文には、開三顕一の趣旨がほぼ示されていることになるので、「略開三顕一」の文と言われています。また天台は、この「十如実相」の文や「十界互具」によって、「一念三千」という重要な法門を打ち立てました。すなわち、一切衆生に仏知見(仏の智慧)を開かせるという法華経の法理は、九界のいかなる衆生にも仏界が具していることを意味しています。
 天台は、このような法華経の妙理に基づいて、十界それぞれがまた十界を具し(十界互具)、その百界それぞれが十如是を具えている(百界千如)と、不可思議な実相を表現したのです。そして、法華経の本門寿量品第十六に入って裟婆世界が仏の常住の国土であることが示され、国土世間が明らかになります。そこから、三世間が具する(三千世間)として、「一念三千」の法門を説いたのです。
 これに関連して、大聖人は「一念三千の法門は法華経の(八巻のうち)第一巻の十如是から起こったのである」(御書四一二ページ、通解)と述べられています。
 このように十如実相の文は、十界の衆生がすべて成仏できるということを示した重要な経文です。十界の衆生が、すべて相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等の十如是を具えているということは、仏の眼で見れば、「仏と衆生が同じ生命を持っている」ということにほかならない。ゆえに、一切衆生の成仏は間違いないのです。
 大聖人は、「『法華経は釈尊の出世の本懐であり、一切衆生をすべて成仏させる根源である』といっても、ただこの諸法実相の四字よりほかにはまったくないのである。(中略)諸法実相こそ一句万了(一句にすべてが込められた)の一言である」(御書一一三九ページ、通解)と、この経文の大切さを強調されています。
13  日蓮大聖人は堕落の宗教と大闘争を
 この「諸法実相」が、文底では「御本尊」をさすということには、じつに画期的な意義があります。というのは、天台の仏法では、観念観法の修行によって、己心に「諸法実相」を観ずることが目的でした。「諸法に即して実相がある」と悟ることを究極の目標としていました。
 しかし、時を経るにつれて、天台の末学たちは、その精神を曲げてしまった。
 大聖人御在世当時の天台宗などは、端的に言えば、「諸法は即実相だから、そのままの姿でよい。修行をしなくてもそのままで仏なのだ」というように、仏道修行を否定するところまでいってしまったのです。これでは完全に堕落です。祖師である天台の心を殺してしまった。
 さまざまな汚濁や苦悩にまみれた現実が「そのまま実相である」というだけでは、人生や社会の向上につながるはずもありません。このように安易に現状を肯定し、変革への行動をおろそかにする傾向性は、日本人の宗教観、人生観に今なお根強く残っています。
 大聖人は、この堕落した天台宗と戦われました。彼らは、自分たち僧侶の堕落した姿を正当化するために「諸法実相」の法門を利用したとも言えるのです。
 この時に、大聖人は、諸法実相という仏の智慧を、万人が仏道修行に励み、成仏するための指標として蘇らせてくださったのです。すなわち、末法万年、全世界の民衆のために、南無妙法蓮華経如来(日蓮大聖人)の仏身である御本尊を御図顕されたのです。
14  「仏法者」とは現実変革への「挑戦者」
 大聖人の仏法は、「諸法実相」を己心に観ずるというのではなく、この現実を「諸法実相」と光らせていくことを目指すのです。人生・社会という諸法を事実の上で妙法の当体(実相)と輝かせていく「変革」と「向上」の哲理なのです。
 諸法実相の「智慧」の光で、諸法の実相を知らない「迷い」の闇を変えていくのです。その意味で、私どもの存在そのものが光なのです。自分がいる、その場を明るく照らしていく戦いなのです。自分が光になれば、どこにいようと、この世に闇はないのです。
 大聖人は、仏教界の腐敗・堕落を打ち破り、「宗教革命」の大闘争を開始されました。それを受け継いでいるのが、大聖人直結の私どもです。
 今の日顕宗も、当時の天台宗と同じように、否、それとは比較にならぬほど無残に、宗祖大聖人の御精神を踏みにじってしまった。修行を忘れ、遊蕩にふけり、仏法の魂を汚しきってしまった。ゆえに、私どもは敢然と戦いぬいているのです。悪と戦うことが大聖人門下の証明なのです。
15  「三遍読に功徳まさる」
 なお、私たちが朝夕の勤行のさいに、この十如実相の文を三回読むことは、どのような意義があるのでしょうか。それは、大聖人の「一念三千法門」(御書四一二ページ)の御文に基づいています。
 同抄によると、十如是を三回読むのは、わが身に「空・仮・中の三諦」が顕れることを意味します。それは、わが身が「法・報・応の三身」と顕れることでもあり、自身に「法身・般若・解脱の三徳」が顕れることをも意味します。
 わが身が「智慧(報身・般若)」と「慈悲(応身・解脱)」を具えた「悟り(法身)」の当体の仏と輝くのです。
 大聖人は「三遍読に功徳まさる」(御書四一二ページ)と教えてくださっている。
 要するに、「わが身が尊い仏である」と宣言し、信心の功徳を増していくための三遍読誦です。総じて勤行・唱題のたびに、わが生命の仏性を讃嘆しているのです。また全人類の仏性を讃嘆しているのです。宇宙の仏性と感応しているのです。なんと荘厳な儀式でしょうか。なんと、ありがたい私どもの信心即人生でしょうか。
16  「偉い人とは確信の人」
 諸法実相の智慧は、人生に何を与えてくれるでしょうか。それは、何が起こっても、一切を価値創造へと使いこなしていく力を与えてくれるのです。
 人生には、さまざまなことが起こります。苦もあれば楽もある。順風もあれば、向かい風もある。それら一切の現象すなわち「諸法」が、全部、自分の仏界という生命すなわち「実相」を輝かせるチャンスとなる。幸福を拡大するチャンスにできる。これが諸法実相の人生です。
 喜びだけに価値があるのでもない。成功だけがすばらしいのでもない。「苦しみこそ悟りの母」であるし、隣みや、つまずきこそ、それらに負けない限り、信心を深めてくれる。悩みが幸福の材料になる。煩悩即菩提です。煩悩という諸法もまた即実相なのです。信心している人には、根本的には一切がくどくなのです。そして、ここに、妙法を信仰している人生と、していない人生の違いがあるのです。
 私は、若き日に、戸田先生に質問したことがあります。
 「先生、どういう人が偉い人なのでしょうか」
 先生は、にっとり笑って答えてくださった。
 「確信のある人だよ。人生は、また、すべては確信だよ」
 人生には大切なものがたくさんあります。そのなかで即座に、先生は「確信」を挙げられたのです。もちろん、妙法への大確信の意味です。「自分は必ず人生を勝ってみせる」「自分は必ず皆を幸福にしてみせる」「わが職場、わが地域を大発展させてみせる」。また「必ず、喜びの人類社会へと時代を変えてみせる」。こういう確信をもち、その確信のとおりに、まっすぐに行動する人は偉大です。
 確信とは一念です。確信とは勇気です。確信とは希望です。確信とは余裕であり、慈愛です。確信とは「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(六巻抄二二ページ)と日寛上人の仰せのとおり、仏界そのものなのです。そして「確信」といい、「仏界」といっても目には見えません。それが必ず目に見える現実の姿に表れる。それが諸法実相です。仏法は観念論ではないのです。
17  「信心」とは即「生活」
 「仏法」は即「社会」です。諸法実相でいえば、仏法は「実相」であり、社会(世法)は「諸法」であるといえます。また「信心」は実相であり、「生活」は諸法であって、信心即生活が諸法実相です。
 仏法は具体的な現実を離れてはありえません。
 日蓮大聖人は、「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」との天台の言葉を通して、「智者とは世間の法より外に仏法をおこなわ」、「やがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候」等と仰せです。「やがて」とは「そのまま」という意味です。世法の姿が「そのまま」仏法なのです。現実の姿を離れて仏法の証明の場はないのです。
 日蓮大聖人は教えてくださっています。
 「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」と。
 戸田先生は、この「観心本尊抄」の御文を拝し、「御本尊を受持したものは、自分の生活を、どう改善し、自分の商売を、どう発展させたら良いかが、わかるべきだとのおおせである」(『戸田城聖全集』1)と言われました。
 ひとたび太陽が顔を出せば、大地がサッと明るくなるように、妙法を持つ者は世法を知らなくてはならない。自分がどうすれば勝利できるのか、ありありと見える智慧の太陽を昇らせるのが信心です。仏の十号(十の尊称)の一つに、「世間解」とあります。世間のものごとを深く理解しているのが仏なのです。
18  国土にも十如是が
 ところで、私たちの生活や人生と同じく、国土・社会にも十如実相があります。如是因もあれば如是果もある。如是力もある。その如是相には″宿命″や″福運″が表れます。大聖人は「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」と仰せです。
 体と影は不離一体です。「体」の曲がり──哲学・思想・宗教の偏向をそのままにしておいて、いくら「影」をまっすぐにしようとしても、できるはずがない。
 私どもの対話運動は、この「体」を正すという根本的な社会貢献なのです。平和・繁栄への根本の「如是因」をつくっているのです。
 第二次世界大戦の終わりから、この八月(一九九五年)で五十年。あの大戦は、世界中を地獄の苦しみに突き落としました。そして今も、世界では新たな悲劇が起きています。戦乱や殺裁の絶えない国土ほど悲惨なものはありません。戦争は、何もかも破壊してしまう。戦争ほど残酷なものはありません。
 かつて戸田先生は、朝鮮戦争に苦しむ韓国と北朝鮮の人々に思いを馳せながらこうつづられました。
 「この戦争によって、夫を失い、妻をなくし、子を求め、親をさがす民衆が多くおりはしないかと嘆くものである。きのうまでの財産を失って、路頭に迷って、にわかに死んだものもあるであろう。
 なんのために死なねばならぬかを知らずに、死んでいった若者もあるであろう。『私はなにも悪いことをしない』と叫んで殺されていった老婆もいるにちがいない。
 親とか兄弟とかいう種類の縁者が、世の中にいるのかと不思議がる子どもの群れもできているにちがいない。
 着のみ着のままが、人生のふつうの生活だと思いこむようになった主婦も少なくあるまい。むかし食べた米のごはんを夢みておどろく老人がいないであろうか。(中略)
 『おまえはどっちの味方だ』と聞かれて、おどろいた顔をして、『ごはんの味方で、家のあるほうへつきます』と、平気で答える者がなかろうか」(『戸田城聖全集』3)と。
 無惨に踏み躙られ、引き裂かれ、殺されていった民衆の嘆き。悲しみ。怒り。恨み‥‥。戸田先生は、アジアの民衆の苦しみをわが事とされ、深く胸を痛めておられた。心で慟哭されていた。そして、すべての人々の目から涙をぬぐうために、ただお一人、妙法広布の大闘争に立ち上がられたのです。
 私たちは、この恩師の精神を受け僻ぎ、妙法で友を救いながら、平和・文化・教育の光の波を世界に広げているのです。
19  宇宙に瀰漫する奪命者への挑戦
 「諸法実相」は生命尊厳の哲理です。
 今、世界では、民族紛争やテロの恐怖が深刻化しています。人間同士が憎み合ぃ、殺し合う惨劇が、いつ果てるともなく続いている。日本でも銃による殺人が増え、「銃社会」の不安を広げています。
 しかし、一人一人を妙法の当体とする「諸法実相」の仏眼から見れば、すべての人々は、皆、かけがえのない一人」です。民族も関係ない。地位も出身も関係ない。差別などあってはならない。「殺」など絶対にあってはならない。
 「すべての人間よ、輝け!」「すべての生命よ、輝け!」──その人類愛の叫びが、法華経の叫びです。諸法実相を知った人の叫びです。全人類が、生きる感動を分かち合うための仏法なのです。
 ゆえに、「生命の尊厳を奪うもの」とは断じて戦いぬくのが仏法者の責務です。
 戸田先生は有名な原水爆禁止宣言」で、核兵器の奥に隠された「爪」をもぎとりたいと宣言されました。それは、核を使う人間自身の「魔性」に対する、また宇宙に調漫する魔すなわち「奪命者」に対する挑戦であった。保身のためなら、人々の生命さえも利用し僻慌にする権力の「悪魔性」との戦闘であった。
 二十世紀に肥大した、人類のガンというべき、この魔性を、人類は自らの力で乗り越えなければならない。法華経の諸法実相の英知こそ、新世紀への大いなる指標となることは間違いありません。「″人を殺さない″世紀」「″人が共に生きる″世紀」「″自然と共に生きる″世紀」への──。
 その意味で、妙法を広げている皆さま方は、先駆者なのです。新しい世紀の喝采は、必ずや皆さまのものです。諸法実相の眼で見れば、だれか「一人」を傷つけることは「宇宙」を傷つけることであり、「自分」を傷つけることです。
 こうした宇宙との一体感を失う時、人間は乾いた砂粒のようにバラバラに孤立し、その貧しく虚無的な心の奥から暴力が噴き出してくるのです。妙法という「無限の生命」との一体性を感じる時、人類は牢獄から解放されたように感じるにちがいありません。
20  ″智慧の日輪″で人類を照らせ
 大聖人は、
 「所詮しょせん・万法は己心に収まりて一塵もけず九山・八海も我が身に備わりて日月・衆星も己心にあり」と仰せです。
 山も海も、太陽も、月も、星々も、皆、わが己心にある──何と広大にして荘厳な御境涯でしょうか。こうした「宇宙即我」「我即宇宙」という御本仏の大生命を、そのまま顕されたのが御本尊です。
 ″同じ境涯を目指せ″と大慈悲で遺してくださった御本尊なのです。仏法以外においても、たとえばイギリスの作家D・H・ロレンスは、つづっています。
 「眼が私の体の一部であるように、私もまた日輪の一部である。私が大地の一部であることは、私の脚がよく知っている。そして私の血はまた悔の一部である。私の魂は私が全人類の一部であることを知っている」(『黙示録論──現代人は愛しうるか』、『福田恆翻訳全集』3所収、文藝春秋)
 ここに表現されているのは、個人の生命と大宇宙との一体感でしょう。こうした人間生命の実相については、古今東西、さまざまな哲学や宗教、文学などによって探究されてきました。それが大聖人の仏法によって理論的にも実践的にも、完壁に示されたのです。大聖人の仏法は、いわば「宇宙的人間主義」「宇宙的ヒューマニズム」の宗教なのです。
 またロレンスは、人類の新時代の到来に期待して、こう結論している。「まず日輪と共に始めよ、そうすればほかのことは徐々に、徐々に継起してくるであろう」(同前)と。
 仏法は境涯です。「日輪と共に始めよ」。日天、月天をも友とし、天と語らいながら生きる雄大な境涯を開くのが、私どもの仏道修行なのです。
21  「苦楽ともに」全部意味がある
 人生の目的は何か。それは「生きていること自体が楽しい」という絶対的幸福境涯を、わが生命に築き、固めrうことです。何があっても楽しい。何がなくても楽しい。いつも生命の奥底に歓喜がある。未来への確信がある──嵐の時、波は動いても大海の深みは揺れないように、また豪雨の日にも黒雲を突き抜けた高みには太陽が輝いているように、「苦楽ともに楽しみ在がら」一歩ごとに価値を生み、境涯を開いていく。それが諸法実相の人生です。
 日蓮大聖人の″太陽の仏法″に生きゆく私たちの人生が、どれほどすばらしいものであるか。そして、この大仏法が、人類文明の夜明けを、どれほど燦然ともたらすことか。このことは、これから二十一世紀にかけて、ますます、はっきりと実証されていくでしょう。その大確信に燃えて、「われらの明日へと向かっていこうではありませんか。
22  以上で、法華経方便品第二の講義を終えたいと思います。「諸法実相」の智慧を説き示した方便品で、釈尊が開いた「一切衆生の成仏の道」は、ほぼ姿を現したといってよい。これから学んでいく寿量品第十六では、仏の永遠の寿命が明かされます。方便品の法理を、釈尊自身の生命に即してより深く展開した、いわば″仏の体験談″です。
 仏界という「わが胸中の太陽」を昇らせよ──この大いなるメッセージを学んできた私どもの探究も、いよいよ、生命のドラマ・寿量品の世界に進むことになります。日々、大聖人の門下として広宣流布へ邁進する皆さま方のために、私も、いちだんと力を入れて講義を進める決心です。

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