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日蓮大聖人・池田大作

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止舎利弗。不須復説。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
1  止舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。第一希有。難解之法。
 止みなん、舎利弗よ。復た説くをもちいず。所以は何ん。仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。
2  〔通解〕──舎利弗よ、これ以上、説くことはやめよう。なぜか。仏の成就されたところの法は、最もまれであり、理解しがたい法だからである。
3  〔講義〕すでに述べたように、方便品は「無問自説」といって、仏がだれの質問をも受けずに、自ら「諸仏の智慧は甚深無量である」と語り出すところから始まっていました。そして、仏の智慧は舎利弗等の二乗の及ぶところではないということを強調してきたわけですが、ここでは、さらに強い求道心を起こさせるために、「もう説くのはやめよう」と、舎利弗に語ります。
 その理由として釈尊は、「仏の達した境涯や智慧は最上第一の法であり、君たちには分からないからだ」と説いているのです。
 戸田先生は、「仏が誰人の問いも受けないで、説き始めた。これまでさんざん仏の境涯をほめ讃えてきながら、ここへきて、お前にはもう言って聞かせぬという。これでは聞いているほうは面食らってしまう」と笑いながら言われていました。
 「止舎利弗」とは、愛する弟子を最高の境涯へと進ませるための厳愛の指導でした。これまでも述べてきたように、弟子を自分と同じ境涯に高めることこそが、師の願いです。師匠とはそういうものです。弟子を困らせたり、成長させまいとする師匠などいないでしょう。
 ″智慧第一″の舎利弗は、この後の説法を聞いて、仏道修行の唯一の目的は「自身の仏界を開く」ことにあると覚知できたのです。師である釈尊の厳しさを全身で受け止めたからこそ、弟子・舎利弗は境涯を開くことができたのです。
 さらに、釈尊の側から言えば、舎利弗をはじめ弟子たちを信頼していればこそ、理解し難い真実の教えをあえて説き始めたのです。自分の真意を弟子が受け止めることができないと思えば、師は説きません。そんな弱々しい弟子では、未熟な境涯を叱咤することすらできない。
 それでは、どうしても弟子の境涯に合わせた随他意の教えにならざるを得ないのです。このシーンをはじめ、法華経は、一次元から言えば、真実を語り始めた師匠と、全生命でそれを受け止める弟子との間に展開する魂のドラマと言ってよい。
4  第一の法を行じて第一の人に
 さて、この部分を文底から読めば、日蓮大聖人が所持されている南無妙法蓮華経の大法は、まさに「第一希有」であり、凡夫の境涯をもっては知ることができないということです。御本尊の広大無辺の力を、小さな凡夫の境涯で推し量り、こんなものだろうと思いこんだり、決めつけたりするのは愚かです。慢心です。大信力を奮い起こして行ずれば、必ず「冥益」「顕益」として結果が出るのです。
 このことを「ああ、そのとおりだ」と実感した分だけ、自分自身の内なる境涯も広々と開けていくのです。妙法は、「第一希有難解の法」です。日蓮大聖人は「持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし」と仰せです。「第一の法」を持つ人生は、「第一に幸福」な人生です。
 皆さまは、それぞれの舞台で「第一の人」と光っていただきたい。「第一の法」を、晴ればれと証明する人生を送っていただきたい。それが「第一希有難解の法」を行ずるということです。
 創価学会は、「第一の人」の集まりです。「自分には力がない」などと卑下してはいけない。だれにも、その人にしか果たせない使命があります。
 戸田先生は、「学会のしんがりも、他の会ではやれないような、しんがりぶりをやってもらいたい。学会で一番弱いものでも、外へいったら一番強いものであるというようになりたいと思う」(『戸田城聖全集』4)と言われました。
 自分の戦野で、自分らしく「第一の人」と光る──こう決めて、堂々とわが使命を果たしていこうではありませんか。

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