Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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舎利弗。如来能。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
1  舎利弗。如来能。種種分別。巧説諸法。言辞柔輭。悦可衆心。舎利弗。取要言之。無量無辺。未曾有法。仏悉成就。
 舎利弗よ。如来は能く種種に分別して、巧みに諸法を説き、言辞は柔輭にして、衆の心を悦可せしめたまう。舎利弗よ。要を取りて之れを言わば、無量無辺の未曾有の法を、仏は悉く成就したまえり。
2  〔通解〕──舎利弗よ。如来は、多くの法をさまざまによく区別して巧みに説く。言葉は柔らかであり、人々の心を喜ばせる。舎利弗よ。要点を言えば、量ることもできず限界もない、いまだかつてない法を、仏はすべて成就されているのである。
3  〔講義〕仏の広大な智慧を讃嘆する内容が続きます。
 ここでは、如来が、人々の理解や境遇に応じて、教えを巧みに説いてきたこと、仏の言葉は柔らかで、衆生の心を喜ばせてきたことを振り返り、結局、それを可能にしてきたのは、如来が「量り知ることもできない、限界もない、いまだかつてない法」を持っているからであると述べています。
 方便品で、釈尊が「未曾有の法」について取り上げるのは、冒頭からこれで三回目です。いずれも、仏が、あらゆる衆生の悩みに応じた説法をすることができたのは、「諸仏の智慧」が豊かで深いからであり、仏が得た「いまだかつてない法」は、それほど広大であると述べている。
 この方便品で、釈尊が舎利弗に対して、まったく同じ趣旨の話を何回も繰り返しているのは、なぜでしようか。
 一切の声聞、辟支仏にとって、「諸仏の智慧」は、知ることもできない「甚深無量の法」です。想像もできないほど広大な智慧の世界があることを、仏は何とか舎利弗たちに伝えようとした。そのために、仏は、「いまだかつてない大法」が存在することを繰り返し説いたのです。舎利弗たちが、自身の「小さな智慧」に満足していては、仏の「広大な智慧」を知ることはできない。そのため仏は、仏の智慧がいかにすばらしいかを、懇切丁寧に何度でも説明した。
 「一度、説明したのだから、もう十分だ」というのは無慈悲です。相手の生命が変わるまで、語り続けることです。目的を達することが大切なのであり、ただの自己満足ではむなしい。釈尊も、一語一語、語りながら、舎利弗の表情の変化を見ていたにちがいない。諸仏の智慧を繰り返し讃嘆しながら、舎利弗の胸中に偉大な求道心が生じるのを待っていた。
 舎利弗の側から見れば、それまでも釈尊の偉大さは、当然、知っていた。しかし、方便品の説法を聞いて、仏の智慧のスケールの大きさに、ますます尊敬の念が募ったことは間違いありません。いよいよ、舎利弗の求道心は高まった。
 その「いまだかつてない法」を聞いてみたいと、「いまだかつてない求道」の高まりを感じていたのです。
4  相手の幸福を願い切って
 「言辞柔輭」とは、言葉が、聞く人にとって柔らかでやさしいことです。柔和な中にも凛とした確信の響きを込めた言葉。これが「言辞柔輭」です。
 そういう言葉で、人々を歓喜させ、ここまで引っ張ってきたというのです。これは随他意の教えについて述べたことですが、私たちにも大切なことを教えてくれています。
 「柔輭」とは、たんにやさしいだけの言葉ではない。まして、相手に媚びた、ただ耳に心地よいだけの言葉とはまったく違う。
 それは、″相手の琴線にふれる言葉″です。″人を感動させる言葉″です。すなわち″相手の気持ちを理解した言葉″なのです。
 そして、だれしも心の底では真実の幸福を求めているゆえに、「相手の幸福を願い切っての言葉」こそが、かりに強い言葉であっても「言辞柔輭」となるのです。大聖人は、こう仰せです
 「仮令たとい強言なれども人をたすくれば実語・輭語なんごなるべし、設ひ輭語なれども人を損ずるは妄語・強言なり、当世・学匠等の法門は輭語・実語と人人は思食したれども皆強言妄語なり、仏の本意たる法華経に背く故なるべし
 ──たとえ強い言葉でも、人を助ければ、真実の言葉、やわらかな言葉となる。たとえやわらかな言葉であっても、人をそこなうのは偽りの言葉、強い言葉である。今の時代の学者たちの法門は、やわらかな言葉、真実の言葉であると人々は思っているけれども、皆、強い言葉、偽りの言葉である。仏の本意である法華経に背いているからである──と。うわべは丁寧な言葉でも、人の心を破壊する邪な言葉がある。反対に、強い言い方でも、心を温める場合もあります。
 「忠言は耳に逆らい、良薬は口に苦し」です。甘い言葉には危険があるものです。
5  やわらかにまた強く、礼儀と誠意と確信で語れ
 本当の柔輭な言葉とは何か。それは、言葉が表面上、強いかやさしいかで決まるものではありません。そこに込められた内容に価値があるのかどうか、それを語る人の心に慈愛があるかどうかで決まるのです。
 今の社会は、「実語」が少ない社会です。利害と打算の言葉、人を傷つける言葉、享楽的な戯れの言葉ばかりかもしれない。心の底から発せられ、相手の心の奥底にまでしみわたる「真実の言葉」がない。「真実の言葉」とは、「言っていること」と「行っていること」が一致している言葉です。自分の信念で語る言葉、自分の人生をかけた言葉こそがまた「真実の言葉」でしょう。また「生きた言葉」でしょう。「生きた言葉」は、「生き生きとした心」から生まれるのです。
 日興上人は「遊戯雑談」を戒められた。戸田先生も、「信なき言論煙の如し」と言われている。結論して言えば、「言辞柔輭」とは、「誠意」の異名です。誠実であり、真摯にして、礼節がある。しかも、自分の主張をはっきり伝える「言葉」こそ、「言辞柔輭」です。「荒々しい言葉は、その根拠が弱いことを示している」と言った詩人もいます。自信があれば、丁寧な言葉が生まれるのです。
 内にあふれる確信を秘めながら、余裕と落ち着きと、そしてユーモアを忘れない、堂々たる対話。これこそ仏法者の″武器″です。
 言葉が乱れることは、社会が乱れる先兆です。「実語」なき時代にあって、「対話」を基調とした私どもの運動は、社会の大きな希望となっているのです。
6  信心の力はすべてを喜びに
 人を喜ばせるのが指導者です。人を励まし、元気にするのが指導者の使命です。絶対に人を叱ってはいけない。
 「衆の心を悦可せしめたまう」(人々の心を悦ばせる)とは、釈尊が「言辞柔輭」(言葉柔らかに)の説法で人々を喜ばせ納得させた(「悦可」させた)ということです。
 リーダーは固い信念の上に、「柔輭な」真心の言葉で皆をねぎらい、皆の疲れをとり、皆をほっとさせ、皆の疑問を氷解させ、皆の希望をわき立たせていくのが戦いです。かりにも人を圧迫したり、追いつめたりすれば、指導者失格であり、この経文に背くことになる。
 方便品のこの文は、一応は、爾前経の説法を表しています。すなわち、釈尊は種々の機根、種々の悩みをもっ人たちを眼前にして、それぞれを喜ばせ、幸福に導くために、種々の教えを説いたのです。
 たとえば他人の評価にとらわれて自分を見失っている人などには「犀の角のようにただ独り歩め」(『ブッダのことば』中村元訳、岩波文庫)と教え、一方、自分一人の澱い考えにとらわれている人には「善き友と交われ。善き友と親しめば愚者も賢者となる」(『尼僧の告白』中村元訳、岩波文庫、参照)と教えました。
 また、人々が欲望のゆえに苦しんでいるのを見て「煩悩を克服しなさい」と教えた釈尊は、享楽的な生活の人には禁欲的な修行を示した。一方、断食など極端な禁欲の行をしている人には、苦行をやめて中道を歩むよう、さとしました。
 一見、矛盾するようです。しかし、相手に応じて「こうすれば、もっとよくなるのだよ」と教え、「悦可」させながら、向上させていくという釈尊の心は同じであった。こうして説かれた多数の教えがまとめられたのが爾前経なのです。
 そのうえで、今、法華経に至り、相手がただちに分かるかどうかは別にして、根本的に幸福にする法──妙法を説いたのです。
 仏の随自意の説法であるゆえに、法を聞いても、最初は容易に理解できない。
 事実、経文では、舎利弗自身、あらゆる人が仏に成るという方便品の教えを最初聞いた時は、あまりにも信じがたく、後に「魔が仏となって私の心を悩乱させるのかと思った」(譬喩品。法華経一五三ページ、趣意)と述懐しているほどです。
 私たちも、舎利弗のことを笑えません。初めて南無妙法蓮華経を聞いて、ただちにすばらしさが分かった人や、「悦可衆心だ、うれしい」と感じた人は、あまりいないでしょう。しかし後には必ず、これ以上はない喜びを得られる。「歓喜の中の大歓喜」を得られる。その意味で、妙法の説法こそ真の「悦可衆心」です。文底から言えば、御本尊の功徳によって、私たちの生命が喜びに満ちてくることです。
7  苦しみを大歓喜の人生へ
 信心をしていても、現実の人生で、苦しいこと、悲しいこと、いやなことは避けられない。けれども、煩悩即菩提で、必ず「悦可衆心」の境涯を味わえるのが、日蓮大聖人の仏法です。信心で進めば、″苦しみの人生″を″大歓喜の人生″に必ず変えることができる。戸田先生は、「悦可衆心」について、こう語られました。
 ──十年、信心をしっかりやれば、その人の生命は、じつに清らかな生命になり、皮膚といい、目の様子といい、一つ一つの動作といい、みな、柔和な、清浄なものを、それでいて威厳のあるものを持つようになる。それが御本尊の功徳である。そうなると、悦可衆心、われわれの心を悦ばしめてくる。そうなった人は、いつでも晴ればれしいから、悦ばざるを得ない。
 うれしくなって、いつでも笑いがあり、いつでも朗らかだから、その人が商売すれば繁盛してくる。同じ買うならあのおカミさんのところへ行って買おう、ということになる。それが、悦可衆心です──と。題目で洗われた生命から、じっくりと、にじみ出てくる清らかな喜び。いわば「悩みをも友だちにして」上手につき合いながら、どんな状況からも楽しみを見つけ、喜んでいける達人の境涯。
 大聖人は「苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへさせ給へ」と仰せです。「苦楽ともに思い合せて」が極意です。
 苦労がなければ人生の味わいもない。人は苦労から学び、苦労から養分を得て、喜びの花を咲かせるのです。悩みと喜びは、表裏一体です。この真理に目覚めるところに、真の人間の強さ、人生の深さがある。
 文豪トルストイも、苦悩と戦い続けました。教会の権威で「破門」された時も、悠然と見下ろした。燃え上がる闘争の一念があった。その彼の結論が、何があっても「喜べ」という信条です。
 「喜べ! 喜べ! 人生の事業、人生の使命は喜びだ。空に向かって、太陽に向かって、星に向かって、草に向かって、樹木に向かって、動物に向かって、人間に向かって喜ぶがよい」(小沼文彦訳編『トルストイの言葉〈新装版〉』彌生書房)と。私たちは、「すべてを喜びに変える」境涯になるために信仰で自分を鍛えているのです。
8  強い人は障害さえも生かす
 日蓮大聖人は、「大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし」「賢者はよろこび愚者は退く」と仰せです。悩みがあればあるほど、「境涯を開くチャンスだ」と決めて、いよいよ喜び勇んで前進する。友には安心を与えながら、自分は一切に耐えて、にっとりと微笑み、戦っていく。これが仏法者です。その人が「悦可衆心」の人生となるのです。強く生きぬきましょう。
 「みかげ石の塊は、弱者にとっては歩く邪魔になるが、強者にとっては歩道の踏み石になる」(カーライル)という言葉があります。強い人は、障害さえも生かす。強ければ強いほど、人生は楽しいのです。生命力です。精神力です。その根本は信力・行力です。
 大聖人は、衣裏珠の譬えを通して、貧しい男が無価の宝(価のつけられないほど高価な宝)を発見した喜びを、文底から次のように仰せられている。
 「始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」──はじめて自分自身の生命が本来、仏であると悟ることを大歓喜というのである。南無妙法蓮華経と唱えることこそ、歓喜の中の大歓喜である──。
 本当の幸福は「内なる幸福」です。外面の状況に左右されない「内なる境涯」を確立することです。
 今、人々は刹那の喜びを求め、外面を豊かさで飾ることを幸福と呼んでいるかもしれない。そんな社会であるからこそ、私たちは「内なる幸福」のすばらしさを、「歓喜の中の大歓喜」の姿で、人々に教えていこうではありませんか。
 喜びは、伝播します。「悦可衆心」の人は、周囲の人をも「悦可衆心」の人に変えることができる。
 また人を「悦可衆心」させようと努力する人は、自分の心も「悦可」していく。創価学会には、真の「悦可衆心」があります。生命の歓喜、躍動があり、根本的に楽しいから、人が集まる。「楽しい」ということが、仏法が生き生きと脈動していることの偉大な証明なのです。

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