Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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所以者何。如来方便。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
2  〔通解〕──(仏は、さまざまな方便を用いて、衆生を導き、執着を離れさせることができた)それができる理由は、仏は人々を教え導くための方便と智慧を、皆、すでに具えているからである。
3  〔講義〕仏の広大な智慧を讃嘆する説法が続きます。
 これまでは、仏が過去にどれほど無量の修行をしてきたのかという面から、仏の智慧を讃嘆してきました。ここからは、その修行によって得た「民衆を導く智慧の力」「仏の境涯」について述べているところです。
4  前段の内容を受けて、仏が、さまざまな因縁(いわれ)、譬喩であらゆる人々を導き、執着から離れさせることができた理由を明かしていきます。どうして、それだけのことができたのか──。
 「方便と知見波羅蜜」とは、「方便と知見(智慧)の完成」ということです。「波羅蜜」は、到達する、完成するという意味です。
 また、「皆な己に具足せり」の「具足」とは、具わることです。さまざまな修行を完成させて甚深の悟りを得た仏は、人々を導く巧みな手段を持ち、智慧を具えている。だから的確に、その人に応じた指導の手をさしのべることができるのです。
 この経文の続きでは、そのことが具体的に記されています。すなわち、仏は「無量・無擬・力・無所畏」という智慧の力を持っていることが説かれている。詳しい内容は次に述べますが、これらは、仏が民衆を幸福に導く「智慧」の具体的な働きです。
5  知識と智慧は違う
 仏法は「智慧」の宗教です。戸田先生はよく「現代人の不幸の一つは、知識と智慧を混同していることだ」「知識が即、智慧ではない。知識は智慧を開く門にはなるが、知識自体が決して智慧ではない」と言われていました。
 たとえば、いくら学校で経営学を学んでも、それがそのまま商売繁盛につながるわけではない。反対に、学校は出ていなくても立派に成功した実業家もたくさんいます。
 また、育児書をたくさん読んだからといって、立派な幼児教育ができるとは限らない。実際には、子どもの成長は千差万別です。本に書いであったことと違うからと、育児ノイローゼになってしまったお母さんの話もあります。
 もちろん、知識は絶対に必要です。「知っている」ことが、どれほど大きな力であることか。とくに現代社会においては知識こそ武器であるという面が強いでしょう。
 そのうえで、「知っている」だけでは「価値」は生じない。幸福は創造できない。「知識が増えた」イコール「幸福が増えた」ことには絶対にならない。知識を生かす根本の智慧が大切なのです。
 これは一つの例ですが、教育論ではよく「子どもと同じ目線をもつことが大切」といわれます。ある人は、体験のうえからこう語っていました
 ──子どもがデパートなどで″おねだり″をして、床に座り込んで泣きやまない場合にどうするか。このような時は、いくら上から叱っても無駄である。最良の方法は、「自分も一緒に座り込んでしまう」ことだ。すると子どもは、きょとんとして泣きやんでしまう。それから静かに諭していけば、意外に素直に言うことを聞くものだ──と。
 もちろん、この方法がいつも通用するとは限らないでしょう。しかし、子どもと心を通わせようという親心から出た、その人なりの智慧であることは間違いない。「同じ目線で」という知識が、見事に実践的な智慧に生かされています。
 ともあれ″何のための知識か″をつねに自らに問うていなければ、知識のための知識になってしまう。たとえば、教師には教師の使命がある子どもの人格、智慧を磨き、子どもが幸福な人生を送ることのできる力をつけさせる──そのための教育者です。そのための教育者としての知識である。この目的を達成できる智慧がなければ真の教育者ではない。
 また政治家は、公僕として民衆の幸福と繁栄のために一身を捧げ、衆知を集め、実行する責務がある。社会を向上させる智慧も行動力もないのでは、真の政治家ではない。学者も、学問を通して人類に貢献するために存在している。
 そうした本来の使命──″何のため″を実現できたかどうかをつねに反省していなければならない。
 それを忘れて、「自分はこんなことを知っている」「自分にはこんな立場があり、情報をもっている」「自分の知識はたいしたものだ」等と傲っているとしたら、根本の″心″が狂ってしまっているのです。
 教育も科学も政治も経済も、あらゆる人類の活動は、全人類の幸福のためのはずです。
 それでは仏が出現したのは″何のため″か。それも、全人類を永遠に幸福にするためなのです。ゆえに仏法と他の分野は矛盾しない。仏法の智慧を根底にしてこそ、他の一切の知識も生きてくるのです。
 方便品では、仏がこの世に出現した目的は、人々に仏知見(仏の智慧)を「開」かせ、仏知見を「示」し、仏知見を「悟」らせ、仏知見の道に「入」らせるためであると説いています。この開・示・悟・入」の四仏知見を、「一大事因縁」(仏が出現する根本目的)といいます。
 皆が自身の智慧を開発することが、幸福への道であることを仏は教えたかったのです。仏の智慧も″何のため″という強い目的観、使命感から生まれたのです。
6  仏法は最高の生活法
 仏法は、最高の生活法です。戸田先生の質問会は、まさに庶民を救う″智慧の道場″でした。病気や失業から借金苦、夫婦喧嘩まで、あらゆる人生の苦悩に、信心の大確信で、ずばりと核心を突いた指導をされていた。先生の激励で、参加者はみるみる生気を取り戻し、勇気と希望に燃えて立ち上がっていきました。
 先生は話されていた。「歩き方、肩の怒らし方、また、声で、その人が分かるものだ。ドアの開け方ひとつで、その人の悩みが分かるものだ」と。
 それほ、ふとく、深く、人々の生命状態を見ぬき、悩みに応じて法を説くのが仏法の指導者の力です。
 時に応じ機に応じて法を的確に説くというのは、大変な難事です。あの舎利弗にも、法を説き間違えた失敗談があるほどです。(「教機時国抄」御書四三八ページ)
 ある時、舎利弗は、鍛冶屋さんと洗濯屋さんにそれぞれ法を説いたが、二人とも教えを理解できず、不信を起こしてしまった。
 本来なら、舎利弗は、鍛冶屋には数息観(呼吸を整える修行)を、洗濯屋には不浄観(肉体の不浄を観じる修行)を教えるべきでした。
 なぜなら、鍛冶屋は、ふいどで風を送り金槌で熱い鉄を叩き続ける仕事ですから、いつも自分の呼吸のリズムを整えるように努力しています。数息観を説けば、すぐに教えを理解し、そこから仏道修行を深めていける。
 また洗濯の仕事は、汚れた服を洗うのだから、不浄観を説けばすぐに理解できたにちがいない。ところが舎利弗は、二人に反対の教えを説いてしまった。そのために修行の成果が得られず、相手を苦しめてしまったのです。
 一人一人に応じた教えを説くということは、それほど難しい。
 しかし、大聖人はあらゆる機根の人に聞かれた実践法を確立しました。「万機の為に南無妙法蓮華経と勧む」です。だからこそ人々に妙法を語る功徳は絶大なのです。
 経験豊かな医者は、患者の病状を的確に把握し、その人の体質に合った治療ができる。医学の知識だけでなく、その知識を存分に生かす智慧を持っています。本当の知識は智慧と一体です。
 「あなたは盲腸炎だ」と言うだけの医者はいないでしょう。盲腸炎を治して、元気にしてあげてこそ本当の知識であり、智慧と言えるのです。まして仏は、万人を幸福にする「生命の名医」です。苦しみの原因を明らかにして、はつらつと生きる常楽の道を教える──それが仏の智慧です。
 「無慈悲」が当たり前のようなこの時代に、学会の同志ほど多くの人を蘇生させている人はいません。これほど親身になって、他人のために祈り、行動している民衆団体はありません。世間には多くの著名人や知識人がいますが、皆さんこそ、限りなく尊き、智慧の「名医」であり「ナース(看護師)」であると、私は讃嘆したいのです。
7  信心に具わる智慧波羅蜜
 舎利弗をはじめ、この方便品の説法を聞いていた会座の人々はどう思ったのか。″そんな完全な仏智は自分には縁がない″と思ったのか。そうではありません。″人を救えるすばらしい仏智であるのなら、自分もそれを学びたい。身につけたい″と思ったのです。
 すなわち、方便品には舎利弗たちが「具足の道を聞きたてまつらんと欲す」(法華経一一五ページ)と、願ったことが説かれています。皆己具足」の仏の境涯に至る「道」を聞きたいという求道心を起こしたのです。「自分はもうこれでいいのだ」などとは考えなかった。「より高く」「より深く」と生命が弾んでいった。この「具足の道」について、大聖人は「開目抄」で「南無妙法蓮華経これなり」と仰せです。
 爾前権教では、この仏の境涯を得るための菩薩の修行として「六波羅蜜」が説かれています。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六つの修行によって、仏の境涯に近づこうとする実践です。この修行は、歴劫修行(無量の劫を経る修行)です。
 しかし、法華経の開経(序説)である無量義経には、法華経の功徳として「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雄も、六波羅蜜は自然に在前し」(法華経五三ページ)と説かれている。すなわち、六波羅蜜を修行しなくても、法華経を持てば、六波羅蜜は自然に具わるのです。
8  法華経の分別功徳品第十七には、法華経を聞いて信じ理解する功徳は、計り知れないと説かれています。その功徳は、八十万億那由佗劫もの長い間にわたって「智慧波羅蜜(般若波羅蜜)を除く五波羅蜜」を修行する功徳よりも、百千万億倍も大きいとされている(法華経五〇二ページ)。「智慧波羅蜜を除く」とあるのは、智慧波羅蜜は、他の五波羅蜜とは比較にならないほど重要な、根本となる波羅蜜だからです。むしろ五波羅蜜は、この智慧波羅蜜を得るための修行であるとも言えます。仏法は、どこまでも「智慧」を重視するのです。
 ですから大聖人は、末法においては、初心の行者は五波羅蜜の修行は必要ないと述べられています(「四信五品抄」御書三四〇ページ)。僧侶への布施や戒律などの五波羅蜜が熱心に説かれていた当時、この大聖人の修行観は、一大宗教革命でした。
 しかも、大聖人の仏法では、「以信代慧」(信心を以て智慧に代える)と説きます。正しき「信心」が即「智慧」となる。私たち末法の凡夫は、御本尊を信ずることによって、この智慧波羅蜜をはじめ「六波羅蜜」をすべて修行したのと同じ功徳を得ることができるのです。
9  結論すれば、今日においては、御本尊を信じ、学会と共に広宣流布へと歩んでいく人が「六波羅蜜」の功徳を得られるのです。
 皆と一緒に、広布の活動に励んでいく人生こそが、最高の「智慧の人生」となっている。
 多くの先輩たちの姿がそれを証明しています。あとから振り返れば、よく分かるのです。
 そして、信心しているからこそ、私たちは、だれよりも賢明な「信心即生活」「行動即健康」の日々を送っていきたいものです。

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