Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

舎利弗。吾従成仏己来。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
1  舎利弗。吾従成仏己来。種種因縁。種種譬喩。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。
 舎利弗よ。吾れは成仏して従り己来、種種の因縁、種種の譬喩もて広く言教を演ベ、無数の方便もて衆生を引導して、諸の著を離れしむ。
2  〔通解〕──舎利弗よ。(釈尊が呼びかけられ、説かれた)
 私は成仏してから、さまざまな因縁、さまざまな譬喩によって、広く教えを説き、無数の方便を用いて衆生を導き、諸の執着を離れさせてきた。
3  〔講義〕この文の前で、「仏が、かつてない甚深の法を成就し、衆生の機根に応じて教えを説いたが、その真意は理解し難い」と語ったことを、さらに詳しく述べていきます。
 これまでは「諸仏の智慧」について述べましたが、ここは釈尊自身にしぼって、その智慧を明かしています。
 「吾れは成仏して従り己来」、つまり、悟りを開いてから法華経に至るまで、釈尊は、いわゆる爾前の諸経を説いてきた。この経文では、その法華経以前の説法の特色を簡潔に明かしている。
 すなわち、釈尊が法華経以前に、さまざまな因縁(どうしてそうなるのかという「いわれ」)や譬喩を用いて、広く教えを説いてきたこと。また、それらの教えは人々を真実へと導くための「方便」でもあったこと。そして、人々をそれぞれの執着から離れさせてきたこと、を述べたものです。
4  爾前経の方便
 「方便」とは、仏の慈悲を根底とする衆生救済の「手段」「手立て」です。その究極の「目的」は″すべての衆生の成仏″にありますが、それは、爾前経では、まだ明かされていない。法華経に至って初めて明かされるのです。
 爾前経では、人々をいろいろな執着から離れさせるための教えが説かれます。どのような執着を持っているかは、人によって違う。だから、人に応じて種々の因縁、譬喩を使い分け、さまざまな教えを説いたのです。
 それらは、成仏という「目的」へ引っぱっていく「手段」にすぎません。その意味で爾前経を「方便」と呼んでいるのです。
 とはいえ、爾前方便の教えも、人々に対する仏の慈悲から生まれたものです。あらゆる機根に応じて、的確な教えを選び、すべての人を満足させる──釈尊の慈悲と智慧の戦いだったのです。
5  目の前の「一人」をいかに救うか
 今、相手は何を求めているのか。道を踏み外さないために、どう指導すべきなのか。一人一人を深く見つめながら、真剣勝負で、指導してきたのです。
 衆生といっても、抽象的な″不特定多数″ではない。マス(集団)ではない。目の前の「一人」の心を、いかに開くのか。具体的な「この人」を、どう蘇生させるのか。その心が仏法の心なのです。
 また、大勢に語る時も、具体的な「一人」また「一人」に語りかける心があって、初めて大衆の心に響く「生きた言葉」となる。
 釈尊は、成道以来、徹して「一人」のために語りぬいてきた。「一人」の幸福を思い、「一人」のために説いた言々句々であったからこそ、「一人」また「一人」と、法が胸中に染み入っていった。
 この戦いがあったからこそ、人々の心に清風を送り、迷いや不安の暗雲を払い、希望と幸福の太陽を昇らせることができたのです。
 この「一人」への温かさがあったから、老若男女を問わず、あらゆる人々が喜び勇んで、釈尊の説法を求めて集まってきた。
6  方便とは民衆の境涯を高めるが智慧の言葉
 釈尊が方便の教えを説いたのは、衆生が迷い、苦しんでいることに「同苦」したからです。衆生を「どうしても救いたい」という切なる思いがあった。
 そこから「どう救えばよいか」「どのように迷いから解放すべきか」という方法、つまり「方便」が生まれてきたのです。慈悲が智慧を生んだのです。
 菩提樹の下で悟りを開いた釈尊は、「大悲心」を起こして、衆生を救済することを決意した。この時、十方の仏が現れて、「過去の仏と同じように、方便力を用いなさい。私たちも、皆そうしてきたのだから」と釈尊を励ます。そこで釈尊は、自身の悟った「かってない」法を説く準備として、方便力を用い、爾前の教えを説き始めたのです。(法華経一四二ページ)
 まさしく「方便」とは、民衆の境涯を高める智慧の表れです。
 釈尊は、「慈悲の言葉」「智慧の言葉」をもって、全民衆の救済という、険しい説法の旅への第一歩を力強く踏み出した。人類に幸福のメッセージを放つ仏教が開幕したのです。
7  法華経の「秘妙方便」
 さて、この経文で述べられている方便とは「爾前経の方便」であることはすでに述べました。しかし、これは法華経の「方便品」という題名にある「方便」ではない。「法華経の方便」には深い意義があります。
 方便について、天台は①「法用方便」、②「能通方便」、③「秘妙方便」の三種類に分けました(大正三十四巻三六ページ)。このうち法用方便と能通方便が「爾前経の方便」であり、秘妙方便が「法華経の方便」「方便品の方便」です。
 法用方便とは、衆生のさまざまな機根に合わせて説かれた種々の法です。その法の働き(用)によって、人々に、それぞれ利益を与えていくのです。
 能通方便とは、真実に入る門となる教えです。その教えを通っていくので能通という。
 この爾前の方便は、仏の智慧に導くための教えであり、その意味で法華経にたどりつくまでの手段となる教えです。
 「正直捨方便」とあるように、「爾前経の方便」は、法華経が説かれた後は、捨てるべき方便です。
 これに対して、「法華経の方便」は、捨てるべき方便ではなく、「真実」の教えなのです。しかし、真実でありながら、あくまでも「方便」である。真実を説いた品だが、「真実品」ではなく「方便品」である。ここに、「秘妙方便」の深い意味があります。
 方便品冒頭の展開に沿って言えば、諸仏の智慧は甚深無量であり、一切の声聞・辟支仏(縁覚)には思議し難い。言語を絶し、説くことができない究極の法です。しかし、あえてこの諸仏の智慧を表現しなければ、衆生は永遠に闇に閉ざされたままになる。そこで仏は、あえて言葉で説いたのです。
8  仏が自ら衆生に近づき語る
 説かれた言葉自体は、説くここのできない真実と比較すれば「方便」です。しかし、衆生が、その「言葉」によって救われることも事実です。慈悲ゆえに、仏が随自意で全民衆に向かって説いた法華経の言葉。それが秘妙方便であり、もはや、それはただの手段ではなく、仏の智慧と一体の方便です。
 日蓮大聖人が、法華経の文字について「文字即実相なり」、「法華経の文字は六万九千三百八十四字・一字は一仏なり」「法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりと・おぼしめすべし」等と繰り返し教えてくださっているのも、このことです。
 ある意味で、爾前経の方便と法華経の方便とは、まったく反対の方向に向かっているとも言えます。
 「方便」とはサンスクリットの原義では「近づく」の意味ですが、爾前経は、人々を迷いから悟りへと近づかせる方向です。衆生が仏の智慧に近づいていく方向です。それが法用・能通の二つの方便です。これは、法華経に至れば不用となる方便です。
 それに対して、法華経は、仏の智慧そのものを随自意で、現実世界に向かって説明し表現していく。仏が衆生の世界に近づいていく方便となる。これが秘妙方便です。この法華経の力から、爾前経もその真実の一分として生かされてくるのです。これを「開会」といいます。
 方便品で明かされた諸仏の智慧とは「諸法実相」であり、言い換えれば、「一切衆生が皆、仏である」という真実です。
 この真実を、ただ仏と仏だけが知っていたということが、秘妙方便の「秘」です。また、衆生には思議し難いゆえに「妙」なのです。この「一切衆生が皆、仏である」という真理に目覚めさせる教えが「秘妙方便」です。
9  戸田先生″われわれが凡夫でいることが秘妙方便″
 たとえば、五百弟子受記品第八に説かれる「衣裏珠の譬え」も、それを意味している。
 ある男が、親友から無上の珠を衣の裏に繋けてもらったが、酒に酔っていたためにそれに気づかず、衣食に苦労したあげく、その友人と再会した時、友人から教えられて、初めて自分が宝を持っていたことに気づく話が説かれています。自分が本来、宝(胸中の仏界)を持っていることは、友人(仏)は知っていたが、当の本人(九界の衆生)は気づかなかったのです。凡夫がそのまま仏である。これは思議し難い。信じなければ、どこまでも「秘」です。しかし、気づけば「秘」でなくなる。「妙」の力が出てくる。
 戸田先生は、「われわれが、ただの凡夫でいるということは秘妙方便であり、真実は仏なのであります」(『戸田城聖全集』5)と述べられました。これを自覚すれば秘妙方便は、分かったことになります。
 仏であるのに、凡夫として生まれる。それは人間革命をして妙法を証明し、その姿を示しながら広宣流布をしていくためです。初めから健康で金持ちで、すべてに恵まれていたのでは、人々には妙法の力が分からない。だから、あえて凡夫の姿で苦労してみせるのです。これが秘妙方便です。
 要するに、末法の法華経である御本尊を信じ、九界の現実のなかで戦う皆さまの姿こそ秘妙方便なのです。御本尊を根本に生きぬくならば、いかなる悩みも、仏界を強め深めるための方便となる。苦しみも楽しみも、ありとあらゆる出来事が、妙法の力を示す方便となる。
 「人生は劇の如し」です。ある人は商売で、ある人は教育界で、ある人は家庭人として──と、それぞれ劇を演じている。その″役″そのものは方便です。しかし、役者は役を降りてしまえば、それ以外に使命はない。役を演じきる時が、自分の真実を最大限に発揮する時なのです。
 生活即信心です。仏界といっても、現実の九界の舞台に即してしか顕れないのです。どうか、この人生という舞台で、見事なる人間革命のドラマを演じきっていただきたい。不幸から幸福へ、絶望から希望へ、宿命から使命へ、苦悩から常楽へ──そのダイナミックな転換を可能にする原動力が、妙法であり、信心なのです。
10  縦横自在の対話で弘法
 仏法の生命線は「対話」です。あらゆる人々の生命に、仏と同じ英知(仏知見)を開く──これこそ、仏の根本目的です。このことからも分かるように、仏法を人に語るのは、相手を根本において敬っているからです。「言っても無駄だ」と思えば、話しません。人間を尊敬するから話すのです。その人を「信頼」するから「粘り強い対話」ができるのです。
 「広く言教を演べ、無数の方便もて衆生を引導して」の経文は、仏が縦横自在の対話によって民衆を導いてきたことを述べています。釈尊も、日蓮大聖人も、人間群の真っただ中で、「語らい」によって法を弘められました。また、牧口先生、戸田先生も、対話や座談の達人であられた。相手が庶民であろうと、高い地位の人であろうと、つねに堂々たる信念の「語らいの歴史」を残された。
 人々の心を変えるのは、対話の力です。誠実な対話は、冷えきった相手の心をときほぐす陽光です。明快で確信ある言葉は、迷いの雲を吹き払う新風です。仏法を語ることは、相手の生命を変革する源泉になるのです。
11  幸・不幸の原因はすべて自身の中に
 相手を救うための慈悲の対話。真剣勝負の語らい──。相手の心に届くように、仏は智慧を尽くし、工夫をこらした。それが、「種種の因縁、種種の譬喩」です。すなわち、どうしてそうなるのかという「いわれ」(因縁)を説き、分かりやすくするために「たとえ」(譬喩)を駆使して、仏は語りに語りぬいた。「因縁」というと、現代人は、何か先祖の霊のタタリなどと思ったりするけれども、これは仏法の本来の意味とはまったく違います。幸・不幸の原因は、すべて自分自身の中にあるのです。
 本来、仏教でいう因縁とは、「原因」を意味する言葉です。また、「因果」「由来」「つながり」などの意味もある。たとえば、仏典にはアショーカ大王の因縁が説かれている(大正五十巻九九ページなど)。徳勝童子と無勝童子というこ人の幼子がいて、ある時、徳勝童子が釈尊に土の餅を供養し、無勝童子は合掌した。釈尊は、従者の阿難に対して「この徳勝童子は、アショーカという王になって生まれるであろう」と語った。後に、この徳勝童子は、仏に供養した因縁で、頻頭裟羅王の子として生まれたという。それがアショーカです。爾前経では、こうした話を通して、自身の生命に、厳然と「原因・結果の法則」があることに目覚めさせようとしたのです。
12  久遠の過去以来の生命の絆
 法華経の「因縁」には、さらに重要な意味がある。それは、仏と民衆の「生命の絆」とも言えるものです。すなわち、三千塵点劫、五百塵点劫という久遠の過去以来の仏と衆生の関係です。
 戸田先生は、この法華経の因縁の意義を踏まえ、「種種因縁」について、文底の立場から次のように語られた。──種々の因縁とは、われわれは久遠元初において、御本仏日蓮大聖人の眷属であったという因縁がありますゆえに、いま末法に日蓮大聖人の弟子として、苦悩に沈むこの日本に日蓮大聖人滅後六百何十年かに貧之人と現れて、この御本尊を信じて金持ちになるという姿を見せるのであります。
 広宣流布をするという約束をしてきた因縁を思い出したならば、貧乏などという悩みはいっぺんに解消するのであります──と。
 私たちが今世でさまざまな悩みと格闘する姿は、妙法の功力を証明するためなのです。
 私たちは、久遠から妙法流布を約束して、「今」、使命のために生まれた。苦悩に沈んだままの地涌の菩薩などいません。苦難に敗れる地涌の菩薩もいない。
 仏法を証明するために、自ら願って生まれてきた因縁を自覚すれば、必ず勝てるのです。
13  一人を「譬喩」として万人が勝利を
 次に「種種譬喩」の「譬喩」とは、爾前経で説かれてきた「譬え話」をいいます。そのままでは、なかなか分からない仏法の真理も、自然の道理や身近な生活上の例を通して語れば、よく分かるからです。ですから、譬喩の根本は人々に対する慈悲です。慈悲の心が強いからこそ、「少しでも分かりゃすく」と巧みな譬喩が説き出されるのです。
 仏は、人々の機根に応じて、あらゆる現象、目に見えるものを譬喩として使います。
 たとえば、爾前経では、煩悩を、人を押し流す「激流」に譬え、仏性の光を隠す「覆い」に譬え、心身を焼き即応くす「火」に譬え、多大の害を与える「毒」に譬え、迷い込んだら出られない「密林」などに譬えています。このように、煩悩の恐ろしさを教えて、煩悩から離れさせようとしたのです。
 しかし、煩悩から離れることだけが仏の悟りではありません。爾前経の譬喩は、あくまでも仏の智慧の一面を譬えているにすぎない。むしろ、これらの譬喩にとらわれれば、仏の悟りから遠ざかる害があるのです。これに対して、法華経の譬喩は、仏の智慧と一体の譬喩です。仏の悟り、智慧をそのまま開き示すためのものだからです。
 さらに、根本の法である南無妙法蓮華経から振り返るとき、法華経二十八品を含む一切経は、ことごく、南無妙法蓮華経の御本尊を人々に理解させようとした、壮大な譬喩であると言える。
 また文底の立場から見れば、生活のうえに現れる信心の実証は、御本尊の功力を説明する譬喩です。現実生活の実証という「譬喩」は、御本尊の真理をじつに雄弁に語っているのです。
 戸田先生は、「種種譬喩」について、大聖人御在世当時の信徒が、「死身弘法に励み、功徳をうけきっている姿を示すのは、われわれにとって譬喩であります」(『戸田城聖全集』5)と語られていた。
 当時の門下の活躍は後世の鑑です。職場での苦難を乗り越えた四条金吾、信心に反対だった父親を入信させた池上兄弟、病魔の宿業を断ち切り、後継の使命に生きた南条時光、亡き夫の分も戦いぬいた妙一尼御前──等々。苦境を乗り越えた門下の実証の姿は、同じ問題に直面した私たちにとって大きな激励となっています。この原理は今も変わりません。私たちの体験談も同じ原理です。「一人」の勝利の体験は、多くの人に勇気と希望と納得を与えます。
 あなたが勝とことは、「万人が勝てる」立派な例証となるのです。あなたが困難に打ち勝つことは、人々に「それならば、私も勝てる」「あの人も勝てる」「皆が勝てる」という確信を与える。妙法の力を語るのに、「たとえば、あの人を見てごらん」「たとえば、あの人間革命の姿を見てごらんなさい」と、人々は、あなたの勝利を「譬喩」として語れるのです。
 その意味で、私たちは、人々のために、人間革命の、たくさんのドラマをつづっていきたい。わが人生を、多くの「種種因縁」「種種譬喩」で飾りたい。そして、わが地域を、あの人も勝った、この人も幸福になったという、多種多様な人間革命の「種種譬喩」で、花園のごとく荘厳していこうではありませんか。
14  執着を見極める智慧
 「諸の著を離れしむ」とは、釈尊が、「因縁」や「譬喩」を通して、人々のさまざまな欲望、迷いを取り除かせようとしたことを述べています。
 人を不幸にする元凶は、さまざまな物事に「執着」する心です。「執着」とは、文字どおり「とらわれる心」です。「煩悩」や「欲望」などです。釈尊は爾前経で、不幸に沈む九界の人たちに、執着から離れる道を教えた。それが、「令離諸著(諸の著を離れしむ)です。しかし、法華経の心は、煩悩を断ずることではない。妙法を根本としたとき、煩悩をそのまま菩提に転ずることができるのです。これを「煩悩即菩提」といいます。
 日蓮大聖人は「御義口伝」で、法華経薬王品の「一切の苦を離れしむ」という経文について、「離の字をば明とよむなり」──「離」の字を「明らむ」と読むのである──と仰せです。
 「諸の著を離れしむ」とは、大聖人の仏法では「諸の著を明らめしむ」と読むのです。っ執着を離れるのではなく、明らかに見ていく。すなわち、煩悩、執着を捨て去るのではなく、正しく見極め、幸福への原動力へと生かしていくことです。
 確かに、「執着」を離れよ、と言われでも離れられるものではありません。また、仮に、離れたとしたら、現実社会に生きていくことなどできません。大事なことは、執着に振り回されず、使いきっていくことです。そのために、執着を執着として明らかに見ていくことが大切となる。
 戸田先生は、次のように語っておられた。
 ──執着を執着として明らかに見せてくれるのが御本尊であります。あなた方も、執着があると思います。私にも執着がある。みんなに執着があるから、味のある人生が送れるのであり、大いに商売に折伏に執着しなければならない。ただし、その執着が自分を苦しめない執着にするのがわれわれの信心である。執着に使われではならない。自分の執着を使い切って、幸福にならなければならないのであります──と。
 この、「執着を明らめて使い切る境涯に」「大いに執着し、味のある人生を」という生き方こそ、大乗仏教の真髄です。要は、大いに煩悩を燃やし、その分、真剣に題目をあげ、行動していけばよい。そうすれば、煩悩がバネとなって、自分の成仏が進むのです。
 信心は、登るべき「山」を自らつくり、自ら「山」に挑戦していく。その繰り返しです。それが、はじめは自分だけの小さな悩みにとらわれていた境涯が、やがて、友のため、人々のため、人類のためという「大きな悩み」に挑戦できる自分になれるのです。
 そのためにも、つねに「何のため」を考えることが大事です。根本の人生の目的が定まっていれば、執着を使いこなせる。すべてを幸福の追い風にしていける。そのための信心です。この法理は、欲望に流されている現代社会にとって、大きな指標となるにちがいありません。

1
1