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日蓮大聖人・池田大作

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所以者何。仏曾親近。‥‥  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
1  所以者何。仏曾親近。百千万億。無数諸仏。尽行諸仏。無量道法。勇猛精進。名称普聞。成就甚深。未曾有法。随宜所説。意趣難解。
 所以は何ん、仏は曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽く諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称は普く聞こえ、甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたまう所の意趣は難解なり。
2  〔通解〕──(諸仏の智慧は声聞や辟支仏が及ぶところでない理由について)なぜならば、仏はかつて、百千万億の無数の諸仏に親しみ近づき、尽く諸仏の量り知れない教えを行じられたのである。
 どんな修行にも勇猛精進し、その名前は普く聞こえている。そこで、甚だ深く、いまだかってない法を成就されたのである。(そして成道して以来)衆生の機根に応じて法を説かれたのであるが、その真意は理解し難いものなのである。
3  〔講義〕なぜ、諸仏の智慧が甚深無量なのか、智慧の門が難解難入なのかを、仏の過去世の修行を示して説明しているところです。
 まず、釈尊は、仏の悟りがいかに険しい仏道修行の果てに得られるものかを述べます。
 いかなる仏であっても、過去に無数の諸仏に仕え、量り知れないほどの修行を勇猛精進して行い、その果てに、未曾有の法を成就したのである、と。その修行に比べれば、まだ舎利弗らの修行は浅い。したがって、仏の無量の智慧から説き顕された教えの真意を知ることができない、と述べています。
4  納得から理解が、勇気が、行動が
 とこで、過去世の修行をもって、仏の智慧が甚深無量であることを示している点がおもしろい。仏が成就した智慧自体は容易に示せないので、成仏の原因となった修行をもって、そのことを説明しているのです。
 今の私たちには、かえって分かりにくいかもしれないが、当時のインドの人々にとってみれば、輪廻生死は常識ですから、過去に無数の諸仏に仕えてきたという実例ほど、納得しやすい話はない。
 納得が大事なのです。納得すれば、理解が深まる。境涯が広がる。心から納得すれば、勇気と希望がわく。そして、必ず行動が生まれます。
 そのために、対話が大切です。相手に深く理解させ、納得させる力が、「言葉の力」であり、「声の力」です。舎利弗も、釈尊の「言論の力」によって、広大な「仏智」に入る求道の心が芽生えたのです。
5  仏とは″仏道修行の達人″
 ここではまず、仏の智慧、境涯とは、「無数の仏」のもとで、「無量の修行」を成し遂げて成就してきたものであることを明かしています。
 仏は、過去にあらゆる修行を経験し、成し遂げている。その意味で、「仏」とは″仏道修行の達人″です。釈尊の生命にも、あらゆる修行の経験と功徳が納まっているのです。
 だから、人々に応じ、時に応じて適切な教えを説くことができる。今までの豊かな経験が、現在の心の豊かさにつながっている人です。
 真のリーダーとは、自らの豊かな経験のうえから、適切なアドバイスができる人であって、口先だけの命令者ではない。まず自分が行動する率先垂範の人であって、地位や立場に居座る人ではない。労苦の人であって、要領の人ではない。まして、権威の人ではない。
6  自行化他の題目に「万行万善」の大功徳
 いずれにしても、仏の生命は不可思議です。一人の生命に、無量の修行の功徳を納めている。「一」に「一切」が含まれている。ここに生命の「妙」があります。大聖人は、この″妙なる生命″を南無妙法蓮華経として顕されたのです。ゆえに、大聖人は仰せです。
 「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり
 釈尊はもとより、三世十方の諸仏のあらゆる修行・善根の功徳は、ことごとく、妙法蓮華経に納まっている、と。
 題目には、「万行万善」の功徳が納まっています。三世十方の諸仏が実践した、あらゆる修行、あらゆる善行が全部、具わっている。したがって、文底から見れば、「百千万億無数の諸仏に親近し、尽く諸仏の無量の道法を行じ」の文もまた、南無妙法蓮華経の功徳を讃えているのです。
7  「信心の志ざし」に末法の成仏の道
 また、ここで仏の無量の修行を説いているのは、同じことを行えと言っているのではありません。
 そういう仏を信頼して、これから釈尊が説くことを信じていきなさい、という意味です。
 釈尊も、過去に無量の修行を成し遂げてきた仏である。
 有名な雪山童子や尸毘王の話も、釈尊が過去世に、勇猛精進の修行に邁進したことを示す説話です。
 もちろん、「無量の道法」を行ずる修行は、末法では一切、必要ありません。「万行万善の功徳」が納まった南無妙法蓮華経を、自行化他にわたって受持することに、「無量の道法」を修行した功徳のすべてが含まれています。
 しかし、大聖人も御書の随所で、その仏の修行の「心」を大切にされている。
 雪山童子の修行は末法の凡夫にとって、どういう意味を持っかについて、大聖人は「仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心て仏になり候なり」と仰せです。
 末法においては正法への「志ざし」こそが、成仏の因となる。
 大聖人は、信心の「志ざし」を貫いた勇者を最大にほめ讃えられている。
 たとえば、鎌倉から遠く佐渡の地まで、険難な山河を越え、荒海を渡ってきた四条金吾に対して、大聖人は、雪山童子にも「争でか劣り給うべき」と激励されている。
 また、妙法に生き切った妙一尼御前の亡き夫については、雪山童子と変わらぬ功徳がある、とも仰せです。(御書一二五四ページ)
 その方軌に照らせば、妙法に生き、広布に走る、お一人お一人の「志ざし」にこそ、万行万善の功徳が納まるのです。
8  妙法に諸仏の歴劫修行の功徳が具わる
 「仏は曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽く諸仏の無量の道法を行じ」の経文に示された「成仏観」について、一言述べておきたい。
 この経文では、仏が過去に、想像を絶する長遠な間、生死を繰り返し、無数の仏に仕えて修行したことを仏因とし、その果てに尊極の仏果を得たとされています。この修行を「歴劫修行」──劫を歴る修──という。しかし、これは、あくまでも迹門における一往の仏国・仏果にすぎません。
 戸田先生は、文底の立場から、このような歴劫修行は必要ないとして、この経文を次のように読まれています。
 「文底から読みますときには、南無妙法蓮華経という仏(御本尊)は、百千万億の諸仏を出生した能生の根源でありますから、所生の側、すなわち拝むほうの側からいいますと、われわれはなんの難行・苦行もなく、南無妙法蓮華経と唱えているだけで、百千万億の諸仏に親近した以上の功徳があります。また、それが諸仏の無量の道法を尽くしたことになるのであります」(『戸田城聖全集』5)と。
 南無妙法蓮華経は、一切の仏の″能生の根源″です。言い換えれば、一切の仏を成仏させた根本原因は、歴劫修行ではなく、南無妙法蓮華経という根源の法を覚知したことにある。
 その南無妙法蓮華経をただちに受持するのが末法の仏道修行なのです。だから大聖人の仏法においては歴劫修行は必要ない。
 日蓮大聖人は、「観心本尊抄」で「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と仰せです。
9  成仏観の革命「受持即観心」
 釈尊をはじめ三世十方の諸仏が、成仏を目指して修行した「因行」も、その「果徳」も、ことどとく南無妙法蓮華経のなかに納まっている。したがって、私たちが、この妙法五字を受持するなかに、自然に、釈尊などの諸仏の因果の功徳がすべて具わり、成仏するのです。
 これを「受持即観心」(受持が即、観心〈成仏の意〉となる)といいます。また、「即身成仏」(その身のままで仏に成る)とも、「直達正観」(直ちに正観〈仏の智慧、境涯〉に達する)ともいう。
 大聖人は、この妙法を受持した人は「釈尊程の仏にやすやすと成り候」と仰せです。
 大聖人の仏法によって、″釈尊ほどの″仏の境涯に至る道が万人に聞かれたのです。成仏といっても、遠い未来や架空の話ではない。大聖人の仏法は、万人の「一生成仏」(一生の聞に成仏すること)を可能にしたのです。
 いわば、「受持即観心」は、成仏観の革命だったといえる。戸田先生は「何千万年も修行してきた方便品の仏たちよりも、私たちは、御本尊を信じて南無妙法蓮華経とたった一言唱えるのみで、仏になる修行ができてしまうのであります」(『戸田城聖全集』5)とも述べています。
 一遍の唱題にも、無量の功徳がある。諸仏が長い時間をかけて、何度も生まれ変わって修行して得た功徳を、私たちは瞬時にしてあますことなく得ることができる。それほど偉大な妙法なのです。
 遠い彼方にある「成仏」という頂上を目指して、ひたすら山道を登り続ける──これが通途の成仏観であるとすれば、日蓮大聖人の仏法は、万人を瞬時に頂上に登らせる教えです。
 周囲の山々をはるかに見下ろし、三百六十度開かれた大自然のパノラマを眺望するような境涯。この広々とした仏の境涯にただちに至ることができる。
 そして、今度は、現実の中に飛び込み、この境涯に立った喜びを語りぬいていく──この実践こそ、大聖人の仏法の醍醐味なのです。
10  「信心」「行動」──勇猛精進の人が仏に
 「勇猛精進して、名称は普く聞こえ」の経文は、爾前・迹門の仏の修行が示されている文ですが、同時に、私たちの信心のうえでも大切な指針となります。
 まず、「勇猛」とは「信心」です。日寛上人は「依義判文抄」で、「敢んで為すを勇と言い、智を竭すを猛と言う」という釈を引き、勇敢にして「信力」を励みつくすことが「勇猛」であると述べている(六巻抄一二四ページ)。決意し、勇んで行じぬくのが仏道修行です。昨日より今日、今日より明日と、勇んで挑戦していってこそ、修行が成就するのです。
 勇猛心がなければ、宿命の鉄鎖は断ち切れないし、障魔を打ち破ることもできない。私たちの仏道修行である勤行は、わが生命における挑戦と創造のドラマです。信心で勇み立てば、絶望と不安の献が消え、希望と前進の光が注ぐ。この「勇んで立ち上がる心」こそ、「信心」なのです。
11  また、「精進」とは、自行化他にわたる「題目」の実践です。勇猛心があればこそ精進の姿と現れる。
 日寛上人は続いて、「無雑の故に精、無間の故に進」という妙楽の言葉を引き、唱題の姿勢を教えられている(同ページ)
 「無雑」とは、まじりけがなく純粋であること。「無間」とは、絶え聞なく不断に実践することです。
 すなわち、私たちの唱題の実践にあっては、純粋に、たゆみなく日々、持続することが大切となる。それであってこそ、私たちの生命錬磨、一生成仏の修行となるのです。
 大聖人は、「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」──一念に億劫にも匹敵する努力を尽くせば、本来、わが身に具わっている無作三身の仏の生命が、瞬間瞬間に起こってくるのである。じつに南無妙法蓮華経とは精進行である──と仰せです。
 私たちの唱える南無妙法蓮華経は、精進行です。ゆえに、だれよりも真剣に悩み、勇敢に戦い続けた人の胸中に、無作の三身、つまり仏の無量の智慧や慈悲が念々に涌現する。勇猛精進の″信心の一念″が、そのまま″仏の一念″と現れる。これが先に述べた「受持即観心」です。換えれば、勇猛精進の人は、皆、仏であると、大聖人が仰せなのです。
 創価学会は、この勇猛精進の信心があったからこそ、大発展してきたことを忘れてはならない。勇猛精進とは、真剣」の二字です。
 私は、ある海外のジャーナリストから「学会の大発展の理由」について聞かれた時、「それは『一生懸命』やったからです」と答えたことがありました。友のため、社会のため、平和のために、ただ真剣に懸命に行動してきたゆえに、今日の広宣流布の偉大な前進がある。
 かつて、ある青年が、牧口先生に、何が善で何が悪かをどうすれば判断できるようになるかと質問した。
 牧口先生は、「世界最高の宗教を命がけで修行する、その努力と勇気があれば、分かるようになる」と答えられたという。さらに、「勇猛精進したまえ。実行だよ。精進だよ。老人にはなったが、私も実践しています」とも語られた。まさしく「勇猛精進」とは、学会精神の源流です。勇んで挑戦するところに生命の躍動もあり、智慧も生まれる。そこに歓喜があり、希望がみなぎる。
 瞬間、瞬間、自己完成への因をたゆまず積み重ねる勇猛精進の人こそ、永遠の勝利者なのです。
 一人一人が師子王の心で、真剣に、また広々とした心で戦うことが、勇猛精進の実践にほかならないのです。
12  三世十方の仏・菩薩が地涌の同志を称賛
 さて、次の「名称は普く聞こえ」とは、経文上では勇猛精進の修行に励む者の名が、広く響きわたったということです。勇猛精進であるがゆえに、名を馳せた。見事な仏道修行であるがゆえに、諸仏の心をも動かしたのです。
 大聖人は、門下に対して、もし臨終を遂げたならば、霊山への道で「日蓮の弟子」と名乗りなさい。
 大聖人の名前は十方の浄土に聞こえている。天地も知っている。「日蓮の弟子」と名乗れば、いかなる悪鬼であっても知らないことはない、と仰せです。(御書一四八〇ページ)
 戸田先生もよく、霊山に行ったならば、「広宣流布の棟梁たる戸田城聖の弟子である」と、胸を張って名乗れと言われていた。勇猛精進にして、広布に生きぬく修行者の名前は、十方の諸仏・菩薩、梵天・帝釈をはじめ、あらゆる諸天の間に聞こえ、あまねく広まっているのです。
 なぜならば、正法を末法に弘通することは、難事中の難事であると経文に説かれている。したがって、その法華経を現実に弘めている偉業が、十方世界にとどろかないわけがない。
 ゆえに、三世十方の諸仏・菩薩、諸天善神が、正法弘通の勇者を守護することは断じて間違いないのです。
13  御本仏に連なる誉れ
 見宝塔品第十一には「この法華経は、仏の滅後には持ちがたい。もし、しばらくも持つ者がいれば、私(釈尊)も諸仏も歓喜し、その人を讃嘆する」(法華経三九三ページ、趣意)と説かれています。
 また、大聖人は「ともかくも法華経に名をたて身をまかせ給うべし」とも、「強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ」とも言われている。
 地域や社会で、一人一人が″正法の名士″と薫れ、との御心であられた。また、必ず、そのように名声が広がっていくのです。
 法華経ゆえの名こそ最高の誉れです。御本仏日蓮大聖人に連なった者の名前は、永遠に薫り栄えます。その名は、必ず、十方の諸仏にも通じる。
 その原理からすれば、今日、SGIの理念や運動が世界中に広まり、仏法への讃嘆の声が高まっている姿こそ、「名称は普く聞こえ」に通じていると言えます。
 世界百十五ヵ国・地域(=二〇一〇年六月現在、一九二ヵ国・地域)におよぶ妙法流布の前進は、仏教史上、未聞の偉業ですその聖業を成し遂げたのは、幾百万の地涌の同志の皆さまです。これ以上、真剣に弘教に励み、これ以上、世界に正法を宣揚してきた個々人や団体は、どこにもありません。
 皆さまの名前が、また創価学会の名が、人類史に黄金の輝きを放っていくことは間違いない。
 そして、その名は宇宙十方の諸仏にあまねく響き、伝わっていることは、「名称普聞」の原理に照らして明らかなのです。
14  大聖人は「未曾有の御本尊」を御建立
 「甚深未曾有の法を成就して」の経文では、私どもが信ずる妙法は、「いまだかつてない」最高の法であることが述べられています。目の前に、みるみる夜明けが広がっていくような経文ではないでしょうか。仏は、無数の諸仏に仕えて無量の道法を行じた。そういう大変な歴劫修行の果てに、「甚深未曾有の法(甚だ深く、未だ曾てなかった法)」を成就して仏果を得たというのです。
 「甚深」とは「悟りの奥底に到る」深さである、と天台は説明しています。(大正三十四巻四一ページ)
 また「未曾有」とは、これまでだれも知らなかった、仏自身も悟りを開くまで知らなかったということです。
 いわんや、二乗や菩薩をはじめ九界の衆生には分からない。ゆえに方便品には、後に「唯仏与仏乃能究尽」とも説かれています。すなわち、ただ仏と仏だけが知ることのできる法なのです。
 この「未曾有の法」「仏だけが知る法」を明かした教えが法華経です。
 それ以前の経文は九界の衆生の心に合わせて説かれた随他意の教えであった。九界の衆生にとって法華経は「いまだかつて聞いたことのない」教えであり、その意味でも「未曾有」の法なのです。
 「仏だけが知る」未曾有の秘法。それを、あえて全民衆に公開したのが法華経です。本当の秘法とは、自分だけが知っているとして、秘して隠し、自分を神秘化し権威。つけるためのものではない。
 日顕宗の権威主義は、法華経の心が何も分かっていない証拠なのです。
 真の「秘法」とは、″時″来たらば、全民衆の病を救うために、大音声で教え、弘め、その赫々たる力を証明すべきものです。そのための「秘法」です。そのための「甚深未曾有の法」なのです。
15  日蓮大聖人は、さまざまな御書で、三大秘法の御本尊を「未曾有の大憂荼羅」と仰せです。このようにも言われています。
 ──この御本尊は、法華経でも、寿量品で初めて説き顕され、神力品で地涌の菩薩に付嘱された。(御書九〇五ページ)
 釈尊の滅後に、おいては、正像二千年には御本尊の名すらも示されず、天台・伝教等によっても顕されなかったその御本尊を、末法に入って日蓮が初めて図顕したのである(御書一二四三ページ)──と。
 大聖人は仏のみが知る大秘法を「未曾有の御本尊」として末法の一切衆生に与えてくださったのです。そのために、一身に大難を受けられながら。
 この大慈大悲を忘れてはならない。感謝と感激の信心をなくしてはならない。
 「未曾有の曼荼羅」への燃え立つ「信心」──その「信心」の中にこそ、じつは「甚深未曾有の法」が顕現しているのです。
16  己身の内に「輝く宝塔」を打ち立てよ
 戸田先生は「甚深未曾有の法を成就して」の経文について、「文底下種の大御本尊を、わが己身のうちにうちたてたということであります」(『戸田城聖全集』5)と述べられました。
 「甚深未曾有の法」とは、他のどこでもない。私たちのこの生身の体、この現実の生命の上に顕現するものなのです。
 有名な「阿仏房御書」には、「貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり」──貴賎上下に関係なく、南無妙法蓮華経と唱える者は、そのままその身が宝塔であり、また多宝如来である──と仰せです。
 「我が身」の中に、南無妙法蓮華経の「宝塔」を打ち立てなさい──と。それが「甚深未曾有の法を成就して」の経文に込められた心なのです。
 釈尊一人だけではなく、万人が「甚深未曾有の法」を成就できる。万人が己身に宝塔を建て、宝塔の当体として、燦然と輝いていける。そして、この輝く生命の宝塔が、この地球上に無数に並び立っていく。これが大聖人の仏法における「成就甚深未曾有法」の実証です。「いまだかつて在い大法」によって、人類史の「いまだかつてない」夜明けを切り開いているのが私どもなのです。
 「未曾有の法」だからこそ、それを弘めるには「未曾有の行者」「未曾有の地涌の勇者」が出現しなければならない。
 戸田先生は、「われわれは未曾有の広宣流布のために地から涌き出た学会っ子であり、地涌の菩薩である」と言われました。その戸田先生の心を受け継ぎ、「未曾有の実践」に邁進してきたのが皆さま方です。この「未曾有の広宣流布」を進めてきた功徳もまた、無量無辺の「未曾有の福徳」であることを確信していただきたいのです。
17  仏の智慧は慈悲から生まれる
 「宜しきに随って説きたまう所の意趣は難解なり」とは、仏の「智慧の門」が難解難入である理由を述べている一節です。
 つまり、法華経以前の教えは、九界の衆生のさまざまな機根に合わせて説かれたものであるが、その「意趣」、つまり仏の「真意」は、まだ説かれておらず、だれも分かってい、ないのである、と。
 仏が、果敢な修行の果てに得た「甚深未曾有の法」をただちに説くことは簡単なことではない。仏と衆生のレベルが違いすぎるからです。正法を教えても、衆生が中途半端に理解したり、疑いを起こして、かえって正法を破り、三悪道に堕ちてしまう危険もある。
 釈尊自身、菩提樹の下で成道した直後、ひとたびは法を説くのをためらった。しかし、今、ここで自分が教えを説かなければ、衆生は永遠に迷いの闇の中に閉ざされてしまう。ここに、人類の先覚者・釈尊の葛藤があった。その人知れぬ苦衷を乗り越えて、法を説き出したのです。
 したがって、人々が間違いなく、正しく法を会得できるよう、釈尊は縦横に智慧を発揮し、悟りをいかに多くの人々に伝えるかに心を砕いた。さまざまに工夫した。それが釈尊の慈悲です。智慧は、慈悲から生まれるのです。
 三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)の教えは、まさしく、そのように位置づけられる。仏が、それぞれの機根に合わせて、声聞の道、縁覚の道、菩薩の道というように、個々に応じた教えを説いたものです。それによって、仏の「智慧の門」まで至らせようとした。それが、爾前権教の方便です。
 経文では、そのことを「宜しきに随って説きたまう所」──衆生の機根に応じて適切に説かれた教え──と述べている。
 仏の真意は、あくまで一切衆生を仏にする道、一仏乗を説とうとしたことにある。ところが、声聞や辟支仏たちには、それが分からない。仮の教えに執着して、「一人ももれなく全人類を仏にしたい」という仏の真意を理解できなかった。一切衆生を仏にする真実の法が分からなかった。
 それが「意趣は難解なり」──仏の真意は理解し難い──の意味です。
 当然のことですが、仏がわざわざ説法を難しくしたのではない。結局、受け手の衆生の側に「不信」や「執着」などがあるから、仏の意趣が難解になるのです。
 心を閉ざしてしまえば、正論すら受けつけられなくなる。誤った思想に執着することが、どれほど恐ろしいことか。人生を破壊してしまうことか。
18  「仏の真意を知る人」とは正法流布の人
 じつは、三類の強敵が法華経の行者を迫害するのも、法華経の心が理解できず(「意趣難解」)、方便権教に執着したところにあった。経文には「濁世の悪比丘は仏の方便宜しきに随って説きたまう所の法を知らず悪口して」(法華経四二〇ページ)とあります。
 「濁悪の末法の悪僧」は、爾前権教が「方便宜しきに随って説きたまう所の法」であるとは知らず、それら低い教えに執着してしまった。それゆえに、自分たちが持つ爾前経を打ち破る法華経の行者に敵意を抱き、迫害するのです。仏の真意を歪めた人、理解していない人が、仏の教えのままに実践している人を迫害する。いつの時代も、前者は多勢で、後者は少数です。
 濁悪の社会にあって、迫害を加える側は、法華経の行者の悪口を広め、「悪の世論」を形成しようとする。そして、正義の人を追いやろうとする。こんな顛倒の濁世だからこそ、私どもは正義を叫び続けなければならない。勝って、正義を証明しなければならない。
 大聖人の滅後にあっても、日興上人がただ御一人立ち上がられたゆえに、大聖人の正義が護られたのです。日興上人が沈黙されたならば、「五老僧が正義」との歴史ができてしまったでしょう。ゆえに、日興上人は厳格なまでに、五老僧の邪義を打ち破られたのです。
 五老僧は、大聖人の「意趣」、つまり御本仏の御真意が分からなかった。大聖人の「意趣」とは、三大秘法の御本尊を広宣流布し、末法の全民衆を幸福にするということに尽きる。五老僧は、この三大秘法を顕された大聖人の御心を見失ってしまった。
 日興上人ただ御一人が、大聖人に常随給仕され、ともに難を忍ばれ、師の仰せのままに果敢に弘教を展開された。師と共に心を合わせて戦ったがゆえに、大聖人の「意趣」が分かったのです。「師の心」が正しく伝わったかどうかは、「弟子の行動」を見れば、分かるものです。
 いくら三大秘法を持っていると自称しても、万人の幸福を願う広宣流布への行動がなければ、大聖人の「意趣」を見失った姿であると断ずる以外にない。
19  「疑う心なくば」必ず幸福の頂へ
 大聖人の忍難弘通から七百年。その御精神がまさに減せんとした時に、創価学会が出現した。学会は、大聖人の正義をそのまま受け継いだ仏意仏勅の団体です。
 「大聖人直結」「御本尊根本」「御書根本」を貫くSGIだけが、大聖人の「意趣」を正しく伝えている唯一の和合僧団なのです。私どもは、栄光ある「正義の証明者」として、広宣流布へ語りに語りぬいていきたい。誇り高く、堂々と。声も惜しまず、黄金の雄弁で──。
 また、「意趣は難解なり」の経文を、戸田先生は、私たちの実践に当てはめて、次のようにも説かれています。
 「仏は先を見通しであられるし、こちらはお先は真っ暗で、過ぎ去った後のほうだけ見通しなのでありますから、御本尊のお心はわれわれには悟りがたいというわけであります。
 ただまっしぐらに、御本尊をどんなことがあっても、信じてやっていけばよいのであります。そうすれば、かならず功徳がでます。途中で疑ったらダメであります」(『戸田城聖全集』5)と。
 ここに、信心の極意が語られています。御本尊への「確信」こそが、最高の「智慧」に通じる。これが「以信代慧」です。
 一切衆生を仏にするのが大聖人の「意趣(真意)」です。ゆえに大聖人の仏法を持ちきった人が、幸せにならないはずがありません。しかし、その途上には、自分自身の宿業などからさまざまなことが起きる。「どうして、こんなことが」と思う場合もあるかも知れない。
 そういう現象に、いちいち紛動されてはならない。最後は必ず幸福になるに決まっているからです。一切を、幸福という目的地に至る修行であり、鍛えであると受け止めていけばよいのです。
 そうすれば、あとになってはじめて、一つ一つの現象の深い「意味」が、「意趣」が分かってくるのです。
 大聖人は「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」──私並びに私の弟子は、多くの難があろうとも、疑う心がなければ、必ず仏界に至るのである──と仰せです。
 何があろうと、このことをどこまでも疑わない人が、信仰の勝利者であり、大聖人の「意趣」を悟ったことに通じるのです。

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