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日蓮大聖人・池田大作

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講義にあたって  

講義「方便品・寿量品」(池田大作全集第35巻)

前後
1  恩師の偉大な境涯の響き「法華経講義」
 法華経というと、私の胸には、恩師戸田城聖先生から受けた講義が、今でも一幅の名画のごとく鮮やかに浮かんできます。
 ──戦後、戸田先生は、軍部政府の弾圧で壊滅状態にあった創価学会の再建を、わずかな同志に対する法華経の講義から始められた。
 私が、第七期の受講生として、戸田先生の講義をお聴きしたのは、昭和二十三年九月十三日、数えで二十一歳の秋であった。西神田の旧学会本部である。
 「よう、みんな集まったな」。五、六十人もいただろうか。先生は、眼鏡の奥をキラリと光らせ、狭い二間の会場を見回すと、咳払い一つして、ざっくばらんに講義を始められた。たちまち、私は、目を見張った。驚嘆した。電撃が走った。戸田先生の生命からほとばしる、その深遠なる思索に。その烈々たる大確信に。世界と人類を思う慈悲の叫びに。
 しかも、難解さを弄ぶところは微塵もない。先生の講義は、かんでふくめるがごとく、分かりやすく、明快であった。それでいて、深い深い真理の発光があった。身近な生活の哲学があり、無限の宇宙を貫く法則があった。息も継がせぬドラマがあり、楽しき音楽があった。いつしか、わが心に太陽が昇り、眼前は明々と広がった。
 その夜、講義の感動も醒めやらぬままに、日記のノートに、一詩をつづった。
2  ああ、吾れ、法華経の深遠偉大なるに驚歎す。
 人類を、真に救い得る道は、法華経に非ずや。
 宇宙と、生命の根源を、覚悟せし法義。
 全人類に、最高の人格と、幸福とを、必ずや得さしめんと、教示給いし根本原理。
3  ああ、吾れ、二十一歳なり。
 人生を船出せしより、何を思索し、何を為し、何を吾が幸福の源泉と為せしや。
 今日よりは、雄々しく進まん。
 今日よりは、確固として生きなん。
 大法の生命の中に生きん。苦悩に打ち勝ちて。
 真の悲しみは、偉大なる人生を鼓舞する。
 吾れ今、真実の大道、しかして、生命を自覚せり。
4  ──先生の深く闊達な講義に、ある人が不思議に思って、「先生は、いつ、そんなに勉強されたのですか」と、うかがったことがあった。
 先生は、にっこり笑って、答えられた。
 「難にあって、牢屋で真剣に唱題して、勉強したら、思い出してきたらしいのだ。八万法蔵といっても、わが身のことなのだよ」
 獄中で仏法の真髄を悟達された戸田先生の、偉大な境涯から発した講義であった。
5  正像末の三種の法華経
 後に、戸田先生は、法華経講義を発展させ、「一級講義」の名称で、新入会者を対象とした方便品・寿量品の講義を始めてくださった。
 この光彩と確信に満ちた講義が、知らずしらずのうちに、受講者の胸中に仏法の精髄の何たるかを植えつけていったのです。
 仏法といえば″お釈迦さま″しか知らない初信の会員を相手に、戸田先生は、毎期の冒頭には、同じ「法華経」といっても、正法・像法・末法の各時代によってその表現には違いがあることを強調されていた。
 ──法華経といえばだれしも法華経二十八品のことだと軽く考えているが、法華経には三種類がある。まず釈迦の法華経は法華経二十八品で、在世及び正法時代を利益した。だから末法の今日、この二十八品の法華経を読誦しても書きとっても功徳はない。今、朝晩、方便品・寿量品を読誦するのは、また別の意味がある。
 像法時代の法華経は天台の摩訶止観である。末法に入ると南無妙法蓮華経という寿量文底秘沈の七文字の法華経になる。この三種の法華経と、それらの繋がりも知らなくてはならぬ。
 その他、歴史的に考証できぬものだが、内容においては立派に法華経であり、大聖人も釈迦も天台・伝教も均しく認めているものに不軽菩薩の説いた二十四文字の法華経がある──と。
 インドの釈尊は、在世と正法時代の衆生のために「二十八品の法華経」を説いた。中国の天台は像法時代の衆生のために「摩訶止観」を説いた。さらに不軽菩薩は、威音王仏の像法時代の衆生に、いわゆる「二十四文字の法華経」を説いた。
 戸田先生は、このように時代や表現は違っても、すべて同じく法華経であることを教えられていた。これを「各種の法華経」とも呼ばれていた。
 法華経とは「釈尊の法華経」だけでなく、「天台大師の法華経」も「不軽菩薩の法華経」もある──。これは、法華経の本質を会得されていた戸田先生ならではの鮮やかな展開です。
 受講者はこうして戸田先生の自在な講義を聴くうちに、自然に、「釈尊の法華経」と「大聖人の法華経」の違いを生命に刻むことができたのです。
6  こうした「各種の法華経」に共通するものは何か。結論して言えば、それは、「だれもが等しく成仏の可能性をもっている」という教えにほかならない。ただ表現形態は釈尊と大聖人では大いに異なる。
 釈尊が「二十八品の法華経」で表現したのに対して、日蓮大聖人は、末法の全世界の民衆の成仏のために、その法華経の極理を「南無妙法蓮華経」として示されたのです。
 「法華取要抄」に、こう仰せです。「日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」──日蓮は広略の法華経を捨てて肝要の法華経を好む。要の法華経とは、すなわち上行菩薩によって伝えられるところの妙法蓮華経の五字である──と。
 「法華経」の肝要である「妙法蓮華経の五字」、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経こそが、今、末法のこの時に適った「法華経」である。これを、戸田先生は、分かりやすく「末法の法華経」と教えられたのです。
7  「法華経の行者」の系譜
 一切衆生を成仏させる法を説けば、必ず難に遭う。釈尊も大難の連続であった。
 しかも法華経には、末法にこの法華経を弘めれば必ず釈尊の難を超える大難が競うことが説かれている。
 「猶多怨嫉・況滅度後」「六難九易」「三類の強敵」「多怨難信」等の教えは、すべてこの一点を明かしています。
 そして、これらの大難を耐え忍び、民衆の中で弘教に励む行者こそ、「法華経の心」の体現者なのです。まさに、忍難は慈悲のあらわれにほかならない。
 その予告のとおり、末法に出現された日蓮大聖人の御生涯は、まさに大難の連続であられたそして、寸分も違わず経文どおりに難に遭われた御姿をもって、大聖人が「末法の法華経の行者」「末法の御本仏」であられることを宣言されたのです。
 とともに、大聖人は御自身だけでなく、釈尊、天台、伝教をそれぞれの時代の「法華経の行者」と位置づけられています。この人たちは、民衆の幸福を願って「法華経」を説き、それゆえに難に遭った先人たちです。
 そればかりか、大聖人は、御書の随所で、四条金吾をはじめ、大難と戦い不惜の信心に励む門下たちをも「法華経の行者」と称賛され、最大に激励されていた。
 佐渡の大聖人のもとへ、一子を連れて訪ねてきた婦人(乙御前の母)に対しては、「日本第一の法華経の行者の女人」(御書一二一七ページ)とも仰せられ、「日妙聖人」との称号まで授けられています。
8  不惜身命を貫いた牧口・戸田先生
 さらには「広宣流布の時一閻浮提の一切衆生・法華経の行者となるべき」という仰せもある。世界の民衆のだれもが法華経の行者になりうる、との原理を示されているのです。
 縦に末法万年、横に全世界の民衆を救いゆくのが「法華経の行者」です。そして、民衆自身が「行者」すなわち「行動者」として、妙法を基盤に人々のため、社会のために貢献していくことが「広宣流布」なのです。
 したがって、軍国主義政府と戦い、人々の幸福のために不惜身命で正法弘通を貫かれた牧口先生、戸田先生が、この「法華経の行者」の系譜(継承者のつながり)に連なる存在であることは間違いない。
 日淳上人は、牧口先生を「生来仏の使」と讃嘆され、戸田先生を地涌の菩薩の先達と讃えられていました。
 戸田先生は、戦後の塗炭の苦しみにあえぐ民衆のために、「末法の法華経」を弘める大闘争を開始された。
 「この世から悲惨の二字をなくしたい」「貧乏人と病人をなくしたい」──一人立たれた恩師の師子吼が、今も私の耳底にこだましています。この魂の叫びが「法華経の心」にほかならない。
 仏法は、どこまでも「行動」であり「実践」です。難を乗り越え、人々が最高の幸福境涯を確立できるように、対話に対話を重ねていく。この「行動」「実践」の中にこそ、「法華経の心」が脈打っているのです。
9  万人に聞かれた文底仏法
 戸田先生は、講義の中で、つねにこう教えられていた。
 「この法華経を、もっとも深く奥底からよく読まれた方は日蓮大聖人であられ、(中略)法華経を文上から読んで、経文の文句などを、もっとも上手に解釈したのは天台大師であります」
 「日蓮大聖人が法華経を読まれるのは、釈尊が説いた法華経をそのまま読むのではなくて、末法の御本仏という御境界で『予が読むところの迹門』『予が内証の寿量品』とおおせられ、文底からの読み方なのであります」(『戸田城聖全集』5)と。
 そして、釈尊・天台の立場からの「文上の読み方」と、大聖人の立場からの「文底の読み方」を厳格に立て分けられ、末法における正しい法華経の読み方を教えてくださったのです。
 先生が言われた文底の読み方とは、どのような読み方でしょうか。
 一言で言えば、末法の全民衆を救おう、との広大な御本仏の御境涯からの読み方です。
 大聖人は自ら不惜身命の実践によって法華経を身読されました。その大聖人が命を賭して弘められたのが、法華経の精髄である「末法の法華経」「文底の法華経」──南無妙法蓮華経です。
 そこで、今度はこの立場から法華経二十八品を見ると、ことごとく南無妙法蓮華経の説明になっている。この南無妙法蓮華経の立場から法華経を読むことを、「文底の読み方」と言うのです。
10  文底とは日蓮大聖人の観心釈
 私どもが勤行の際に方便品・寿量品(自我偶)を読むのは、正像時代の法華経ではなく、無妙法蓮華経の立場から読んでいるわけです。
 大聖人が、この文底の立場から法華経二十八品を講義され、日興上人が筆録されたのが、「御義口伝」です。法華経の心を蘇らせ、末法の民衆を救いきるためには、「こう読まざるをえない」という大慈悲からの読み方です。
 こうした文底の読み方は、大聖人の「観心釈」とも言える。たんなる理論的な説明ではなく、現実の中に生活する民衆を、どう救いきっていくか──との一点から経文の精神を体得し読んでいく読み方にほかならない。
 いわば″活釈″であり″実践釈″である。″人間釈″であり、″民衆釈″であり、″人生釈″であり″生活釈″です。たんなる″知識″ではなくではなく、正確かつ大胆に、時代へ、現実へと展開していく、大いなる″智慧″の読み方です。
 「文底」と聞くと、何か神秘的で、一般の人間には閉ざされたもののような印象をもつかもしれないが、決してそうではない。むしろ、万人に大きく開かれ、時代・社会に生き生きと脈動していくところにこそ、文底仏法の真価があるのです。
 この点で顛倒したのが日顕宗です。文底仏法の教えを悪用し、権威の殻で包んでしまった。僧侶や寺院を特権化し、御本尊を民衆支配の道具にした。自分たちは満足な修行もせず、遊蕩にふけり、人間としての根っこを腐らせてしまった。恐ろしいことです。大聖人の御精神を殺してしまった。
 ともあれ、私の講義も、大聖人の「御義口伝」を拝し、戸田先生の講義を原点としながら、時代。社会に即した形で進めていきたい。
11  読誦する功徳
 皆さんも、つね日ごろから学んでいるとおり、勤行の際に南無妙法蓮華経の題目を唱えることを「正行」といい、方便品・寿量品の読誦を「助行」という。
 この「正行」と「助行」の関係について、日寛上人は、米やソバを食べる(正行)時に、塩や酢が調味料として使われて味を助ける(助行)ことに譬えておられる(六巻抄一九三ページ)。「正行」の功徳は広大です。そのうえで、「正行」の功力を増し、促進する助縁の働きをもっている。
 「正行」である唱題を根本として、方便品・寿量品の読誦を「助行」とするのが、私たちの勤行の基本的な在り方なのです。
 題目の功徳は無量無辺です。たとえ一遍の題目でも、無限の力がある。
 大聖人は「一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれてここに集まる」と仰せです。また、題目を一遍唱える功徳は法華経を一部読む功徳と同じであり、十遍は十部、百遍は百部、千遍は千部読んだのと同じ功徳だと仰せの御書もある。
 したがって、病気の時などは、必ずしも経文を読誦する必要はありません。無理をして、よけい体調を悪くするようなことがあれば、かえって信心の歓喜を消し、反価値になってしまいかねない。
 そのような時は、唱題だけという場合もあるでしょう。仏法は道理ですから、つねに歓喜あふれる勤行ができるよう、一人一人が賢明に判断していけばよいのです。
12  方便品・寿量品は二十八品の根幹
 大聖人の仏法での「正行」は、仏教の極説中の極説を唱えている。最高の「正行」を実践しているのだから、最高の「助行」でなければ助けとならない。
 大聖人が選ばれた「助行」が、釈尊の出世の本懐である法華経であり、法華経二十八品の中でも、「迩門の肝心」(御書一〇一五ページ)である方便品、「本門の肝心」(御書一〇一六ページ)である寿量品の二品の読誦なのです。
 大聖人の時代にも方便品・寿量品は読誦されていました。たとえば、ある門下には「ことに二十八品の中に勝れて・めでたきは方便品と寿量品にてはべり、余品は皆枝葉にて候なり、されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ」と仰せですまた、ある時は、方便品の十如是までと寿量品の自我偈の読誦を勧められております。いずれにしても、法華経二十八品中、ことに方便品と寿量品が根幹をなすので、日常においては方便品と寿量品を読誦しなさい、と教えられている。
 勤行・唱題は、大樹に育つための「根」です。毎日の勤行・唱題の積み重ねは、木を強く太くする。一日一日の変化は目には見えないかもしれないが、日々の養分によって、いつしか大木となる。その地道な持続の中に、絶対に崩れない幸福境涯ができあがっていくのです。
 ただし、当然のことながら、私たちが読誦している方便品・寿量品は、先にも述べたように、大聖人の文底の立場から見た法華経です。日寛上人は次のように説明しています。
 すなわち、方便品を読むのは「所破・借文」のため、寿量品を読むのは「所破・所用」のためである、とされています(六巻抄一九四ページ、二〇一ページ)。簡潔に言うと、大聖人の仏法の立場から、「釈尊の法華経は末法には功力がない」と破折する読み方が「所破」です。そして、「法華経が御本尊の偉大さを証明している」として讃嘆する読み方が「借文」と「所用」にあたります。
 なぜ、こう説明されるかについては厳密な論議がありますが、ここでは、私たちの方便品・寿量品読誦は、あくまで大聖人の立場から法華経を読誦していることを確認しておくにとどめたい。
13  仏・菩薩に届く勤行・唱題の声
 なかには「意味が分からず経文を読誦して、功徳はあるのだろうか」という疑問を抱く人もいるかもしれない。大丈夫です。厳然と功徳はあります。
 大聖人は次のように仰せです。「赤ん坊は水と火を区別できず、毒と薬の違いを知らないが、乳を口に含めば命を延ばすことができる。それと同じく、経典に通じていなくとも、一字一句でも法華経を聞いた人は仏にならないわけがない」(「法蓮抄」御書一〇四六ページ、趣意)と。
 赤ん坊が、お乳を飲めば知らずしらず大きく育っていくのと同じように、御本尊を信じて妙法を唱えきっていくならば、必ず無量の福徳が輝いていくのです。
 またたとえば、犬には犬の、鳥には鳥の世界の言葉があります。人間には分からないが、犬同士、鳥同士には確かに通じ合っているにちがいない。また、学術用語、外国語なども、他の人には分からなくても、これもまた立派に通じます。
 同じように、勤行・唱題の声は、仏・菩薩の世界の言葉であると言えます。たとえ意味は分からなくても、きちんと御本尊に通じ、諸天善神、三世十方の仏・菩薩の世界に通じていく。そして、全宇宙が私たちを福光で包んでいくのです。
 もちろん、その実践を根本として、さらに求道心を持って経文の意味を学んでいけば、いちだんと確信が強まり、信心の勢いを増していけることは当然です。
 勤行・唱題は、御本仏と南無妙法蓮華経の大法を讃嘆申し上げる儀式です。別の言い方をすれば、宇宙の根本の妙法を、そしてまた仏様を、最高最善に讃嘆する詩であり、歌であると言ってもよいでしょう。
 それは同時に、永遠なる宇宙生命の讃歌であり、自分自身の仏界を讃嘆していることでもある。
14  小宇宙の自身が大宇宙と交流
 戸田先生は、こうも述べられている。
 ──諸天善神にたいして、あいさつするときに、それは、わが心の中にある諸天善神が、そのまま大宇宙にうかぶのです。
 そうして、‥‥御本尊に向かうときには諸天善神が、ぜんぶうしろにすわるのです。
 かりに私が、いま諸天善神にあいさつすれば、夜であろうと昼であろうと、その諸天善神がことごとく、私のうしろにぜんぶすわって、御本尊様にあいさつするのです。
 そうして、私の心の願いをかなえるために、その諸天善神がみんな、働きにいくのです。そういうふうになっているのです──と。
 御本尊を拝するならば、わが小宇宙の扉は、その場、その時に、大宇宙へと全開し、全宇宙を広々と見るような悠々たる大幸福感を味わうことができる。大充実感と、大歓喜、一切を掌に収めたような大智慧を実感することができる。宇宙に包まれていた小宇宙が、宇宙を包みかえしていく。
 生命を根底から蘇生させる、すがすがしい「元初の儀式」──それが勤行です。
 ゆえに大切なことは、日々、白馬が天空を駆けゆくようなリズム感あふれる勤行をしていくことです。身も心も軽やかに、さわやかになったと、自分自身が満足できる勤行であっていただきたい。
15  聖職者の独占を破り民衆自らが読誦、行動
 法華経は「諸経の王」であり、「民衆に呼びかける経典」です。「今に生きる経典」であり、仏の慈愛と平等観が込められた経典です。人間を強く、賢くする、蘇生の息吹あふれる「ルネサンスの経典」です。その眼目が、方便品と寿量品です。大聖人が示された読経・唱題ほど、万人が参加できる修行はありません。民衆に最大に開かれた仏道修行なのです。
 大聖人の御在世当時は、出家も在家も読経・唱題に励んでいた。ところが、現代社会では、いつしか経文といえば、民衆に疎遠なものになってしまった。葬式の時、などに僧侶に読んでもらうだけ、というのが当たり前になり、だれもが疑わなくなった。それが、宗教的な権威に隷従する精神的土壌をつくり、聖職者を傲慢にし堕落させる元凶にもなってきた。
 しかし「今日では、SGI(創価学会インタナショナル)の発展によって、日本だけではなく世界各国の民衆が喜々として妙法を唱え、方便品・寿量品を読誦するようになった。
 これは仏教史上、かつてない壮挙です。二十世紀の偉大なる宗教革命です。
 大聖人の民衆仏法が、「平和」と「幸福」の対加を全世界に広げている。幾百万の人々が、妙法の功力を実感し、すばらしい人間革命のドラマを演じている。何よりそのが″事実″が、法華経の精神を現代に受け継ぐ創価学会の正しさを、雄弁に証明しているのです。
 私は、そうした同志の姿を思い描きながら、この講義を進めていくつもりです。晴れわたる大空を広々と仰ぎ見ながら、また、花々の咲き香る野辺の小道をゆったりと散策しながら、皆さんと語り合うような気持ちで行ってまいりたい。

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