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日蓮大聖人・池田大作

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第七章 一生成仏の信心 師弟不二の大道を確かに歩め!

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

前後
1  御文
 此の旨を深く信じて妙法蓮華経と唱へば一生成仏更に疑あるべからず、故に経文には「我が滅度の後に於て・応に斯の経を受持すべし・是の人仏道に於て・決定して疑有る事無けん」とのべたり、努努不審をなすべからず穴賢穴賢、一生成仏の信心南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経。      日蓮花押
2  通解
 この趣旨(妙法蓮華経が己心の法であるとの趣旨)を深く信じて妙法蓮華経と唱えれば、一生成仏はまったく疑いないのである。
 ゆえに、法華経の経文には「私(釈尊)が入滅した後には、まさしく、この経を受持すべきである。この人が仏道を成就することは間違いない」(如来神力品第二十一、趣意)と述べられている。決して、不信を抱いてはならない。あなかしと、あなかしと。
 一生成仏の信心、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。      日蓮花押
3  講義
 鳥には鳥の飛ぶ道があります。魚には魚の泳ぐ道があります。(「日女御前御返事」1250㌻)
 同じように、人間には人間として幸福になるための生命の道がある。凡夫には容易には見えないが、仏の眼には、その正しき道は明瞭に映っています。
 この幸福へのか小船を、日蓮大聖人は、「一生成仏の大道」として、万人の眼前に開き示してくださいました。それが唱題行です。
 唱題行は、ある意味では、鳥の道や魚の道のように、成仏への「最も自然な道」です。なぜならば、本抄で「衆生本有の妙理」と仰せのように、私たちの生命に本来具わっている妙理を現していく道だからです。
 大聖人は、「衆生本有の妙理」を現す”自然の道”としての唱題行の意義を強調されています。
 「我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う
 「妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ、初心の行者其の心を知らざれども而も之を行ずるに自然に意に当るなり
 「疑う心なくば自然に仏界にいたるべし
 妙法蓮華経は仏が悟った生命本有の法であるがゆえに、唱題行は確かなる一生成仏の修行になるのです。ゆえに「一生成仏更に疑あるべからず」と仰せなのです。
 しかし、”自然の道”といっても、何もしないでよいというものではありません。
 いかなる道も、切り開かれ、障害物が取り除かれ、踏みならされてこそ、多くの人が通ることができる。
 同様に、唱題の道も、己心の妙法蓮華経を信ずるという「信心」を貫いて、生命に具わっている「元品の無明」を打ち破っていく戦いが必要なのです。
 妙法蓮華経の五字を受持すると、それまでの悪から悪へ、迷いから迷いへ、官邸から苦悩へという無明の流転を転換して、成仏の因果を自然のうちに私たちの生命の中に刻むことができるのです。
 成仏の因果とは、信心によって、悪と不幸の根源である無明を打ち破り、本有の妙理である妙法蓮華経のリズムが私たちの生命に厳然と現れることです。この妙法蓮華経のリズムと一体になった生命こそが、仏界の生命です。この信心を「因」として、仏界の生命の涌現を「果」とする因果が、成仏の因果なのです。
 この成仏の因果が、それまでの無明に基づく悪の因果に取って代わっていくのです。そして、いかなる無明、魔性にも負けない信心を鍛えぬけば、成仏の因果は私たちの生命の骨髄として確立されるのです。
 このように、どこまでも「信心」が重要です。それゆえに御文では「此の旨を深く信じて」と仰せられているのです。
 この御文だけでなく、本抄では、「深く信心を発すべきなり」、「深く信心を発して」と、「深く」「深く」と重ねて仰せられ、どこまでも「信心」を強調されています。信心を深めていくことこそが、「成仏の王道」であることを教えられているのです。
 胸中の妙法を涌現すれば、必ず仏に成れる――このことを、どこまで深く信じ切れるか。そこに凡夫成仏の要諦があります。
4  地涌の菩薩にあらずんば唱えがたき題目
 この無限に深化する信心こそ、「一生成仏の信心」であると言えます。「地涌の菩薩」の特色は、まさにこの「信心」にあるのです。
 大聖人は地涌の菩薩について「されば能く能く心をきたはせ給うにや」と言われています。
 本抄の末尾に、妙法蓮華経を唱えることによって一生成仏できることの文証として、法華経如来神力品第二十一の一節が挙げられています。このことは、地涌の菩薩の「鍛えられた信心」とそ「一生成仏の信心」であることを示されていると拝することができます。
 すなわち、神力品では、釈尊から上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩への結要付嘱が行われた後、釈尊滅後における上行等の弘教の振る舞いや内容が明かされます。その結論として、上行等の「弘教の功徳」を明かした文が、本抄の結論として引用されているのです。
 「我が滅度の後に於て・応に斯の経を受持すべし・是の人仏道に於て・決定して疑有る事無けん
 ここで説かれる「斯の経を受持すべし」とは、上行菩薩が弘める結要付嘱の要法である題目の受持にほかならない。
 「諸法実相抄」では、「地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」と仰せられています。なぜ「唱へがたき」なのか。それは、一次元から拝するならば、無明に打ち勝ち、魔性を打ち破っていく「鍛えられた信心」で唱える題目だからです。
5  自行化他にわたる題目
 さらに言えば、自ら唱えるだけでなく、他にも弘めてこそ、地涌の菩薩の唱題行の本義があります。
 「三大秘法抄」には、像法時代の南岳大師や天台大師が題目を唱えることがあったが、それは「自行」にとどまって「化他」にわたらない。それに対して、大聖人が唱える題目は「自行化他」にわたることを明かされています。(御書1022㌻)
 像法時代の題目に化他の力がないのは、題目が妙理を観ずるための象徴にとどまっていたからです。
 それに対して、大聖人の題目が自行化他にわたるのは、鍛えぬかれた信心で無明を打ち破り、実際に仏界の生命を涌現させていく力があるからです。
 また、「観心本尊抄」では、大聖人の題目は「事行の南無妙法蓮華経」であると言われています。「事行」とは、信・行の題目の実践であり、事実として生命に成仏の因果を行じていることを言います。
 末法の地涌の菩薩が唱える事行の題目は、自他ともの幸福を目指す民衆救済の唱題行なのです。
 「諸法実相抄」に、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり」と仰せのように、「唱え伝える」題目こそが、唱題の本質です。
 無明・魔性と戦いぬく、深く鍛えぬかれた信心、そして自行化他にわたる唱題の実践。――これが地涌の菩薩の唱える題目です。その本質は、一言で言えば「広宣流布の信心」であると言えます。
 大聖人は、あらゆる障魔と戦いぬかれる覚悟と決断のうえで立宗宣言をなされ、その後、間もなくして本抄の一生成仏の原理を説き明かされました。
 そして、その後、妙法蓮華経の五字を弘通された大聖人の闘争が、大難と迫害の連続の御生涯であられたことを、決して忘れてはなりません。
 この大聖人の妙法弘通の現実の御姿と離れて、一生成仏を論じても、それは観念の遊戯となってしまうことを銘記しておきたい。
 大聖人御自身が、「日蓮生れし時より・いまに一日片時も・こころやすき事はなし、此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり」と振り返っておられることを、よくよく拝していかねばなりません。
6  大聖人直結の創価の信心
 現代にあって、この大聖人に直結して、南無妙法蓮華経の題目を弘通する闘争を貫き、御聖訓通りに「猶多怨嫉」「悪口罵詈」「六難九易」「三類の強敵」の大難と不惜身命で戦ってきたのが、創価の三代の師弟にほかなりません。
 大聖人の真の血脈は、広宣流布の師弟のなかにこそ流れ通います。今、世界中で真実の地涌の題目の音声が高らかに響きわたっています。この創価の潮流によって弘通されてきた「広宣流布の信心」「障魔に打ち勝つ題目」なくして、日蓮仏法の一生成仏の実践は断じてありません。
 三障四魔と戦う信心が、仏の境涯を開きます。
 三類の強敵との闘争なくして、成仏はありません。
 広宣流布へ向かって前進する人こそが、真実の仏です。
 この偉大な成仏の境涯を、私たちに具体的に教えてくださったのが戸田先生でした。
 戸田先生の人生は、決して平坦な道程ではありませんでした。いな、秋霜烈日の波瀾万丈のご生涯であったとも言えます。
 もし人々が仏教のなかに、何事もない平穏を求めるのであれば、それは誤りです。釈尊の生涯も、大聖人の御一生も、そうした平穏無事とはほど遠い、激闘の人生であったと言えるからです。
 真実の仏法の精神は、どんな大難にも断じて冒されない金剛不壊の大境涯を確立することにあるといってよい。いかなる魔性にも絶対に破られることのない強靭な信心を築くことこそが、真の一生成仏である。このことを、釈尊も大聖人も御自ら教えてくださったとも拝せるでしょう。
 仏法の眼から見るならば、戸田先生のご生涯は、まさしく人間王者の偉大なる成仏の境涯を証明するための一生であられました。私は真正の直弟子として、思師の人間革命の大勝利を堂々と宣言しておきたいのであります。
7  無限の生命力と使命の達成
 「成仏とはいかなるととか」――戸田先生は、常に「永遠の幸福を獲得するということである」と論じられていました。
 「いつもいつも生まれてきて力強い生命力にあふれ、生まれてきた使命のうえに思うがままに活動して、その所期の目的を達し、誰にもこわすことのできない福運をもってくる」ことであるとも教えられました。平易な表現でありながら、深く成仏の意義をとらえきった真の哲学の言葉です。
 さらに「このような生活が何十度、何百回、何千回、何億万べんと、楽しく繰り返されるとしたら、さらに幸福なことではないか」とも言われていた。この戸田先生の確信に満ちた師子王の音声は、今も私の耳朶から離れません。
 妙法に生きぬいた人は、生まれてくるたびに、生命力にあふれ、その人でなければ果たせない広宣流布の使命を完遂し、誰にも壊すことのできない大福運に包まれていく。そういう生活を何度も何度も、楽しく繰り返していくことができるのです。
 その軌道に、今世において厳然と入っていくことが、一生成仏と言えるのではないでしょうか。
 そして、それを現実のうえで無数に実現してきたのが、わが創価学会の同志の方々です。一人一人の人生に見事に妙法蓮華経の実証が開花し続ける限り、創価の信心は永遠に輝きます。戸田先生は、将来は、創価学会員一人一人の人生が「創価学会仏」として不滅の経典に刻まれると断言されていました。
 もちろん、生老病死の一つ一つの相もまた人生の実相です。誰人の身体も成住壊空の変化を免れない。年をとれば体が、若い時と同じように動かなくなることも当然です。信心している人だけが永遠に青年の肉体のままだと言うのであれば、自然の摂理にも背いてしまう。
 しかし、信仰で鍛えぬかれた生命そのものは、永遠に朽ちることはありません。広宣流布に生きぬいてとられた多宝会・宝寿会・錦宝会(高齢者の集い)の皆さま方も、この一点を確信して、荘厳なる一生成仏の人生の総仕上げを朗らかに誇り高く勝ち飾っていただきたい。”いよいよ! これから!”です。
 御聖訓に照らして、この「戦う心」を今世で築き上げた人は、永遠の生命を自在に遊戯していく大境涯を会得していることは、絶対に間違いありません。
 こうした大宇宙をも包みこむ、三世永遠の自由闊達な境地を、よく戸田先生はユーモアを交えて言われていました
 「死んだって、また生まれてくるのです。僕は、この次に生まれてくるときには、よほどの美人として生まれてこようと思っている」
 そして、世界的美人になって、写真が売れたり、サインを求められたりするだろうが、悪人には、絶対にサインしてあげない――と愉快そうに語られていました。
 亡なられた時、先生は五十八歳。決してご長寿とは言えないお歳であったかもしれません。戦時中の法難による二年の獄中生活で、すでに身体は憔悴しきっておられたのです。晩年は、戦後の学会の再建と会長時代の激務のために、病に伏したこともありました。
 ある幹部が「戸田先生は、なぜ病気をしておられるのですか」と質問すると、先生は、こう答えられた。
 「私がこうして病気していることは、大きな『転重軽受』なのだよ。この病気で、学会が壊滅になるべきところをすませているのだ」
 また、ある人には「大聖人の御もとに還って、お側に一週間いられるか、十日いられるか。
 また、この大宇宙には、地球のような星がいくつもある。大聖人より、そっちに行ってまた広宣流布をしてこい、といわれたら、御命令のままに出かけるのさ」とも言われていました
 まさに、大聖人の御遺命のままに天空を飛朔されゆく広大無辺な大境涯の先生であられた。
 そして戸田先生は、この大境涯を一人でも多くの弟子と分かち合おうとされた。その一端を伝えるために、よく、成仏とは「絶対的幸福」のことであるとご指導してくださった。
 「絶対的幸福とは、毎日毎日の生活が、瞬間瞬間の生活が、うれしくてうれしくてたまらないということです」
 そして、広宣流布に戦いぬいて、亡くなる前の日々に、そういう大境涯を満喫していける。それが、一生成仏――永遠の幸福の軌道に入った証であることを教えられた。
 戸田先生は、雄大な富士を仰ぎ、ながら広宣流布の大指揮を最期まで悠然と執られ続けました。まさに、その崇高なご生涯こそが一生成仏の模範であられたと、私は確信してやみません。
8  師弟ともに唱える獅子吼の題目
 「戦う心」がなければ成仏できない。「戦う心」によって、成仏の因果がわが生命を貫く黄金の柱として打ち立てられるのです。
 「本因の姿勢」「不退転の覚悟」「師子王の心」「負けじ魂」「日々、つよる信心」――さまざまに言い換えることができますが、要するに、南無妙法蓮華経の題目とは、「無限の前進」の源泉の法にほかならないということです。
 どんな苦難も宿命も、師子王の題目の前に立ちはだかることはできません。
 逆境を前進のバネに、宿命をも使命に、悲哀をも創造の源泉に変える力が、南無妙法蓮華経に具わっているからです。日蓮大聖人の御生命が南無妙法蓮華経に躍動しているのです。
 また、広宣流布に戦う同志が唱える題目は、牧口先生、戸田先生が人類救済の大願成就のために唱えた題目と不二です。
 この戦う師子の題目を忘れてしまえば、師の題目と相違してしまう。それでは師弟共に唱うる「獅子吼」の音声にはなりません(「御義口伝」、748㌻)。そうであれば、大聖人の題目でもなければ、釈尊の精神とも無縁の麤法となってしまう。
 この厳粛な師弟の精神を「一生成仏抄」の結びに引かれた神力品の一節は教えていると拝されます。
 また、そう拝読してこそ、日蓮大聖人直系の創価学会における御書根本の精神に適うと言えるでしょう。
 大聖人は、本抄の結びとして「努努不審をなすべからず」「一生成仏の信心」と仰せです。
 どこまでも「信心」が肝要です。
 本抄の冒頭に戻れば、「夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せん」と。無始以来の苦悩の呪縛を断ち切り、永遠の成仏の境涯を確立するために、私たちの今世の一生があります。この一生を悔いなく戦い切ることが、三世永遠を悔いなく勝ちぬく生命となります。
  「我は知る
     ああ究極の
       幸福と
     大人生の
       晴れの勝利を」
 私は、この年頭(二〇〇六年)に全学会員の大満足の人生を願って詠みました。どうか、全世界の同志の皆さまは、「究極の幸福」と「大人生の晴れの勝利」の姿をもって、”わが一生成仏の大道”を勝ち進んでいただきたい。
 永遠にこの一瞬に凝縮する一生成仏の闘争を断じて勝ちまくり、三世にわたる広宣流布の旅路をこれからも一緒の朗らかに歩みぬいていきましょう。

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