Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第六章 己心の妙 心の師とはなるとも心を師とせざれ

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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8  「法」を根本にした「師弟の道」を
 それと同時に、池上兄弟の勝利のドラマから私たちが学ぶべきは、「師弟不二」の信心です。
 兄弟が勘当事件を乗り越え、父親の背後に潜む極楽寺良観の謀略を見破り、最後は父の入信という劇的な凱歌を勝ち取ったのも、すべて大聖人の仰せ通りに戦ったからです。
 「心を師」とするとは、「自分中心」です。最終的には、揺れ動く自分の心に振り回され、わがままなエゴに堕ち、あるいは無明の淵に沈んでしまう。
 これに対して「心の師」となるとは、「法中心」です。そして、この「自分」と「法」を結びつけるのが、仏法の師匠の存在です。
 仏法で説く師匠とは、衆生に、自らの依り処とすべき「法」が自分自身の中にあることを教えてくれる存在である。法を体現した師匠、法と一体となった師匠を求め、その師匠を模範と仰いで弟子が実践していく。そのとき、初めて「心の師」となる生き方が実現するのです。
 言い換えれば、私たちの一生成仏には、衆生の持つ「心の可能性」がどれだけ広いかを教え示す「法の体現者」であり、「法と一体化」した「師」の存在が不可欠となるのです。
 私も、現代において日蓮仏法の広宣流布に生きぬかれた戸田先生という如説修行の師匠がいて、自分自身があります。私の胸中には、いつも「心の師」である戸田先生がいる。今も日々、瞬間瞬間、胸中の師と対話しています。これが「師弟不二」です。
 常に、自分の心に、「心の師」という規範を持ち、「心の師」の説のごとくに戦う人が、「法根本」の人です。日蓮仏法は、どこまでも「師弟不二」の宗教です。法華経もまた師弟不二の経典です。
 一生成仏の大道にあって師弟が不可欠であることを教えられるために、大聖人は本抄の最後で神力品の一節(「我が減度の後に於いて応に斯の経を受持すべし是の人は仏道に於いて決定して疑い有ること無けん」〈法華経576㌻〉)を引かれています。その深意については次章で拝したいと思いますが、己心の法である南無妙法蓮華経を自行化他にわたって唱えていく地涌の実践の中に成仏の道もあるということです。
 いずれにしても、無明や三毒の心に翻弄されることなく、わが一念を「大いなる仏の心」と合致させていく不二の信心のなかに、一生成仏の大道がある。宇宙大とも言うべき心の秘宝を開く鍵は「師弟の信心」です。
 そして、勇んで唱題に励み、広宣流布の行動へ打って出ることこそ、「一生成仏の直道」なのです。

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