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日蓮大聖人・池田大作

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第六章 己心の妙 心の師とはなるとも心を師とせざれ

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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1  御文
 そもそも妙とは何と云う心ぞや只我が一念の心・不思議なる処を妙とは云うなり不思議とは心も及ばず語も及ばずと云う事なり、然れば・すなはち起るところの一念の心を尋ね見れば有りと云はんとすれば色も質もなし又無しと云はんとすれば様様に心起る有と思ふべきに非ず無と思ふべきにも非ず、有無の二の語も及ばず有無の二の心も及ばず有無に非ずして而も有無にへんして中道一実の妙体にして不思議なるを妙とは名くるなり、此の妙なる心を名けて法とも云うなり、此の法門の不思議をあらはすに譬を事法にかたどりて蓮華と名く、一心を妙と知りぬれば亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり、然ればすなはち善悪に付いて起り起る処の念心の当体を指して是れ妙法の体と説き宣べたる経王なれば成仏の直道とは云うなり
2  通解
 そもそも「妙」とは、どのような意味であろうか。それはただ、自身の一念の心が不思議であることを「妙」というのである。不思議とは、私たちの心の働きも及ぼず、また、言葉でも表せないということである。
 すなわち、瞬間瞬間起こっている自身の一念の心を探究してみると、それを有ると言おうとすれば色も形もない。また、無いと言おうとすれば様々に心が起こってくる。有ると考えるべきでもない。無いと考えるべきでもない。有と無の二つの言葉では表せず、有と無という二つの考えでも理解できない。
 有と無のどちらでもなく、しかも、有か無かのいずれかの姿をとるという、中道にして普遍究極の真理のままの姿であり、不思議であるそのあり方を「妙」と名づけるのである。
 この「妙」である心を名づけて「法」ともいうのである。
 この法門の不思議を譬喩で表すのに、具体的な事物になぞらえて「蓮華」と名づける。
 一つの心を妙と知ったならば、さらに転じて、そのほかの心もまた妙法であると知ることを「妙経」というのである。
 したがって法華経は、善であれ悪であれ、一瞬一瞬に起こる一念の心の当体を指して、これが妙法の体であると説き宣べている経玉なので、成仏の直道と言うのである。
3  講義
 「心こそ大切なれ」――心は不思議です。心の世界は、どこまでも広がります。また、どこまでも深めることができます。
 心は、澄みわたる大空を自在に飛朔するがごとく、大歓喜の生命を現すこともできる。
 万物を照らしゆく清澄にして燦々たる太陽のごとく、苦悩する人々を慈しみ、包み込むとともできる。
 時には、師子のごとく、正義の怒りに震え、邪悪を打ち破ることもできる。
 まさに、心は劇のごとく、パノラマのごとく、千変万化に移りゆきます。
 そして、この心の最大の不思議は、仏界の涌現です。迷いと苦悩に打ちひしがれていた人も、わが心の舞台で、大宇宙と融合する仏の生命を涌現することができる。この大変革のドラマこそ、不思議の中の不思議です。
 仏法は、万人の「心」の中に、偉大な変革の可能性と、無上の尊極性を見いだしました。大聖人は、その結論として、衆生の心を妙法蓮華経の唱題で磨きぬけば、いかなる迷いの凡夫も仏の生命を開き、いかに濁悪の穢土も清浄の国土に変えていけることを、本抄で示されてきました。
 妙法蓮華経とは「衆生本有の妙理」、すなわち、あらゆる生命に本来具わる、ありのままの真理の名です。
 それゆえに、私たちは、南無妙法蓮華経の唱題行によって、「闇鏡」のごとき凡夫の「一念無明の迷心」を、「法性真如の明鏡」へと磨き上げて、仏界の生命を現していくことができるのです。
 すなわち、本有の妙理をわが生命に現し、自身の心に秘められた無限大の可能性を開いていくことができるのです。
 本有の妙理たる妙法蓮華経と一体になった生命が、仏界の生命です。南無妙法蓮華経は、この根源的な仏の生命の名でもあります。
 本章で学ぶ本抄の御文では、妙法蓮華経と衆生の心の関係を、「妙」「法」「蓮華」「経」に分けて示されています。
 これを通して、衆生の心が妙法蓮華経と一体になり、仏界の生命が顕現する様を説かれていると拝することができます。
 では、この御文の深義を拝察していくことにしましょう。
4  心は本来、中道一実の妙体
 まず妙法蓮華経の「妙」について、私たち衆生の一念の心の不思議なる様こそが「妙」であると仰せです。そして、その不思議な様を、「有」と「無」の概念を用いて示されています。
 こう仰せです。
 ――私たち自身の一念の心は、瞬間瞬間、起減し、変転している。その変化極まりない心を探究してみると、「有る」と言おうとすれば、その心が、どのような色で、どのような姿や形であるかは言えない。
 しかし、色や姿、形がないからといって、「無い」と言おうとすれば、様々に心が次から次に起こってくる。そう考えると、一念の心は、「有る」と考えるべきでもないし、「無い」と考えるべきでもない。すなわち、「有る」「無い」という二つの言葉では把握できず、「有る」「無い」という二つの考えも及ばない。
 言い換えれば、一念の心は、「有」「無」の概念を超えている。しかも必ず「有」「無」のいずれかの姿をとる。「有」でも「無」でもなく、しかも「有」でもあり「無」でもある――。
 このような不思議なあり方をとる一念の心を、大聖人は「中道一実の妙体」と言われています。周知のように、「中道」とは、単なる中間という意味ではなく、二つの極端な立場にとらわれるととなく、むしろ、それらを包む、より高次の立場に立つことです。
 釈尊は快楽主義と乱行主義という三つの極端な思想的・実践的立場を超えた、正しい思想・実践のあり方を立て、それを「中道」と称しました。
 そして、大聖人は、本抄において、「有」「無」という二つの極端を超え、しかも「有」「無」の両方のあり方をとる究極の真理を指して「中道」と言われています。その真理の究極性の面を指して「一実(唯一無二の真実もしくは実在)」と言われていると拝されます。
 「有・無を超えている」とは、「有」と「無」にわたって変化してやまない無常の現象を超えているという意味として拝することができます。そして、「しかも有・無の両方にわたる」と言われているのは、有・無を超えているといっても、無常の現象からまったく切り離された超絶した実在や絶対者を指しているのではなく、無常の現象を包み、無常の現象に内在している真の永遠なるものを意味しているのです。
 なお、本抄では「有」「無」の二つの語で説明されていますが、これによって、竜樹の「空」や天台の「三諦円融」「一心三観」に通ずる内容が示されているとも言えるでしょう。
 いずれにしても、大聖人がここで明らかにされた中道一実の妙体とは、「空」や「三諦円融」「一心三観」で表現される究極の真理と一体になった衆生の心を指していると拝することができるのです。
5  「蓮華」とは因果倶持の法
 次に、これまで明かされた「妙なる心」を「法」というと言われています。
 「妙なる心」こそが「妙法」です。「空」といっても「三諦円融」といっても、抽象的な理論や言葉だけでは妙法とは言えません。
 人間の中道の智慧になって示されてこそ、人々の規範となり、法となって、弘まるからです。さらに、「此の法門の不思議をあらはすに譬を事法にかたどりて蓮華と名く」と仰せです。
 妙法といっても目に見えません。その「此の法門の不思議」を、仏は凡夫に理解させるために、具体的な事物を用いた「譬え」で説明します。それが「蓮華」です。
 なぜ蓮華なのか――それは、普通の植物は、花が咲いた後に果実がもたらされます。この関係を因果の譬喩として用いれば、普通は花が原因で、実が結果となります。これは「因果異時」です。これに対して、ハスは因である花と果である実が同時に生長していく。蓮華の花と実は「因果倶時」を譬えることができます。
 成仏の仏因仏果について、法華経以外の爾前権経の教えでは、因である凡夫の生命の中に仏界があるのではなく、長い歴劫修行を経て初めて仏の境涯が築かれることを説きます。これは「因果異時」です。
 しかし法華経の教えは、凡夫の生命に本来具わっている仏の境涯を、直ちに開き顕すと説きます。
 心に即して言えば、衆生の「迷いの心」が、仏の「妙なる心」へと直ちに転換すると説きます。この「因果倶時」を「蓮華」で譬えるのです。
6  「妙心」の連続が「妙経」
 大聖人は、「経」の意義についても「心の妙」を示すものとして説明されています。
 すなわち、「一心を妙と知りぬれば亦転じて余心をも妙法と知る処を妙経とは云うなり」と仰せです。
 「経」という字は「たて糸」を意味し、時間的経過を表します。その意味から、「一心」とはある瞬間の心、「余心」とは別の瞬間の心とみることができます。
 私たちの生命は、瞬間瞬間、変化しています。しかし、唱題行に具わる強き信で無明を打ち破れば、心に「本有の妙理」が現れ、妙法蓮華の生命が開花する。
 「無明の一念」を「法性真如の一心」に転換する成仏の因果を、唱題の持続によって日々、積み重ねていくことができる。その因果の功徳が、わが生命の骨髄になって、人格と人生に功徳の花が開花するのです。これが、一人の人における「妙経」です。
 また、この「妙経」を、自分から他者への広がりとして拝することもできます。「一心」を仏自身の心、「余心」を一切衆生の心ととらえれば、まさに「経」とは、仏が「妙なる心」である悟りの一端を説いたものです。そして「妙なる心」そのものを説いた経王が法華経であり、その真髄が妙法蓮華経となります。
 この意味で、自行化他にわたって南無妙法蓮華経と声も惜しまず唱えて弘めていく広宣流布の展開こそが、「妙経」にあたると言えるでしょう。
 以上見てきたように、「妙法蓮華経」はまさに己心の法であり、一人一人が唱題による己心の瞬間瞬間の変革を積み重ねることによって、それが生命の根本的変革に、そして人生全体の変革すなわち一生成仏に、さらに広宣流布という人類の大変革の潮流となっていくのです。
 そして、そのあらゆる次元の変革の躍動がすべて、妙法蓮華経なのです。
7  「心の師」を求めぬく信心を
 さて、妙法蓮華経が己心の法である以上、どうしても触れておかなければならない課題があります。それは、「無明の迷心」と「法性真如の妙心」との関係です。
 自身の心といっても、凡夫の弱き心に従ってしまえば、心の可能性は急速にしぼみます。それどころか、心から悪も生じます。ここに一念の微妙な問題がある。
 一生成仏が、衆生自身の心を鍵としている以上、人間がもつ「心」の弱さを克服していかなければならない。それが「信心」でもあるのです。
 凡夫の心は、常に揺れます。その揺れる自身の心を基準にしてはならない。
 そのことを訴えているのが、有名な「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」との金言です。この一節は、六波羅蜜経にあります。”私たちの心はいわば、突然、暴走することがある。だから、凶暴な象を調教するように、自分の心を師としてはいけない。「心の師」を求めていかなければならない”という趣旨が記されています。(「常に心の師と為るとも心を師とせざれば卒暴有るととなし。象を調伏するが如し」(『大乗理趣六波羅蜜多経』巻7、大正8巻898㌻)
 同趣旨のことが、涅槃経にも「願って心の師と作って心を師とせざれ」(大正12巻534㌻)とあります。大聖人は、この「心の師」との経文を幾度となく引用され、門下の信心の指針とされています。言うならば、この「心の師」とは、人生の羅針盤であり、信心の灯台でもあると言えます。
 時に随って移り動いてしまう凡夫の弱き心を「師」としてはならない。どこまでも、自身の心を正しく導く「師」が必要となるのです。「師」とは法であり、仏説です。釈尊自身、自ら悟った法について「法を師として生きぬく」ことを誓い、生涯、その誓願を貫き通したことを誇りとしている。それが、釈尊が弟子への遺言として強調した「法を依り処とせよ」との生き方にほかならない。
 この釈尊の心を忘れたのが、大聖人御在世の諸宗の僧たちです。自分の心を中心にして、経を忘れ、法華経を誹謗し、増上慢と堕してしまった。
 これに対して、大聖人御自身は、どこまでも、法華経の根幹であり、諸仏の根源の法である妙法蓮華経こそが「心の師」であることを教えられた。その修行が唱題です。
 そして、ことあるたびに門下に、「心の師」を求めていく信心の姿勢を訴えられたのです。
 たとえば、池上兄弟が信心ゆえに父親から勘当された際、大聖人は、今こそ、兄弟団結して信心根本に苦境を打開していくよう励まされた。そして「心の師とは・なるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文なり」と指導されたのです。
 どんなに大変な事態でも、信心が揺るがなければ必ずや打開することができる。信心とは、弱い自分自身の心との戦いである。その戦いを勝ち越えていくためには、自分の弱い心に左右されるのではなく、ただ法華経を根幹として生きていくべきであると教えられています。
8  「法」を根本にした「師弟の道」を
 それと同時に、池上兄弟の勝利のドラマから私たちが学ぶべきは、「師弟不二」の信心です。
 兄弟が勘当事件を乗り越え、父親の背後に潜む極楽寺良観の謀略を見破り、最後は父の入信という劇的な凱歌を勝ち取ったのも、すべて大聖人の仰せ通りに戦ったからです。
 「心を師」とするとは、「自分中心」です。最終的には、揺れ動く自分の心に振り回され、わがままなエゴに堕ち、あるいは無明の淵に沈んでしまう。
 これに対して「心の師」となるとは、「法中心」です。そして、この「自分」と「法」を結びつけるのが、仏法の師匠の存在です。
 仏法で説く師匠とは、衆生に、自らの依り処とすべき「法」が自分自身の中にあることを教えてくれる存在である。法を体現した師匠、法と一体となった師匠を求め、その師匠を模範と仰いで弟子が実践していく。そのとき、初めて「心の師」となる生き方が実現するのです。
 言い換えれば、私たちの一生成仏には、衆生の持つ「心の可能性」がどれだけ広いかを教え示す「法の体現者」であり、「法と一体化」した「師」の存在が不可欠となるのです。
 私も、現代において日蓮仏法の広宣流布に生きぬかれた戸田先生という如説修行の師匠がいて、自分自身があります。私の胸中には、いつも「心の師」である戸田先生がいる。今も日々、瞬間瞬間、胸中の師と対話しています。これが「師弟不二」です。
 常に、自分の心に、「心の師」という規範を持ち、「心の師」の説のごとくに戦う人が、「法根本」の人です。日蓮仏法は、どこまでも「師弟不二」の宗教です。法華経もまた師弟不二の経典です。
 一生成仏の大道にあって師弟が不可欠であることを教えられるために、大聖人は本抄の最後で神力品の一節(「我が減度の後に於いて応に斯の経を受持すべし是の人は仏道に於いて決定して疑い有ること無けん」〈法華経576㌻〉)を引かれています。その深意については次章で拝したいと思いますが、己心の法である南無妙法蓮華経を自行化他にわたって唱えていく地涌の実践の中に成仏の道もあるということです。
 いずれにしても、無明や三毒の心に翻弄されることなく、わが一念を「大いなる仏の心」と合致させていく不二の信心のなかに、一生成仏の大道がある。宇宙大とも言うべき心の秘宝を開く鍵は「師弟の信心」です。
 そして、勇んで唱題に励み、広宣流布の行動へ打って出ることこそ、「一生成仏の直道」なのです。

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