Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 勇猛精進の唱題 「日々、挑戦」でわが生命を練磨

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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1  御文
 之に依つて浄名経の中には諸仏の解脱を衆生の心行に求めば衆生即菩提なり生死即涅槃ねはんなりと明せり、又衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土えどと云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、たとえば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性ほっしょう真如しんにょの明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり
2  通解
 このこと(仏法の一切がわが己心にあるととらえていくべきこと)から浄名経の中では、「諸仏の悟りは衆生の心の働きに求めるべきである。衆生を離れて菩提はなく、生死の苦しみを離れて涅槃はない」と明かしている。
 また、浄名経には「人々の心がけがれれば、その人々が住む国土もけがれ、人々の心が清ければ国土も清い」とある。すなわち、浄土といっても、穢土といっても、二つの別々の国土があるわけではなく、ただそこに住む私たちの心の善悪によって違いが現れると説かれているのである。
 衆生といっても仏といっても、またこれと同じである。迷っている時には衆生と名づけ、悟った時には仏と名づけるのである。たとえば、曇っている鏡も磨いたならば、輝く玉のように見えるようなものである。
 今の私たちの一念が、無明におおわれて迷いの心である時は磨いていない鏡であり、これを磨けば必ず法性真如の明鏡となるのである。強く信心を起こして、日夜朝暮に怠ることなく磨いていきなさい。では、どのようにして磨くのか。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということである。
3  講義
 自身の心に赫々と正義の太陽が輝いている人は、いかなる困難、いかなる苦悩の闇の中に飛び込んでいっても、希望を失うことはありません。
 むしろ自らが人々の苦悩の闇を照らす光源となり、希望の光を放ち、人々の不安を除き、勇気を与えていけるのです。
 「自身」が変われば「世界」が変わる。
 「わが一念の変革」が、すべての変革の鍵なのです。これが「人間革命」です。
 そして、誰にでも、その変革の力が具わっている。この生命の真実に気づけば、いつでも、どこでも、どのような状況にあっても、その力を現実に聞き顕していくことができます。
4  万人に聞かれた生命変革の道
 仏法が「変革の宗教」であることを明示した法華経の理念に基づき、偉大なる「変革の道」を万人に開いた教えが、日蓮大聖人の仏法です。そして、この「変革の道」の根幹となる実践が、唱題行なのです。
 本章では、変革の実践の根幹である唱題行のあり方を明かされた御文を拝していきましょう。
 すでに拝してきたように、仏法はすべて己心の法です。「成仏」という生命の根本的な変革も、根本は「人間の心」の次元の変革にあります。
 そのことを示すために、本抄では浄名経(維摩経)に基づき、「諸仏の解脱を衆生の心行に求めば衆生即菩提なり生死即涅槃ねはんなり」と言われています。
 「衆生即菩提」とは、煩悩に支配されている衆生の生命に成仏のための智慧(菩提)が現れることです。また、「生死即涅槃」とは、生死の苦しみに苛まれる衆生の身に、仏が成就した真の安楽の境地(涅槃)が顕現することです。
 ここで大聖人は、仏と衆生は決して、かけ離れた存在ではなく、「衆生の心行(心の働き)」における違いにすぎないと示されています。
 さらに大聖人は、犠土と浄土の違いについて説いた浄名経の文を引かれています。すなわち浄名経では「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清し」と説かれ、浄土と様土は別々の世界としてあるわけではなく、衆生の「心の善悪」によるとされています。(「其の心の浄きに随いて則ち仏土も浄かるべし」〔維摩経仏国品第1、大正14巻538㌻〕。「衆生の心の浄ければ即ち仏土も浄し」〔維摩経略疏、大正38巻569㌻〕)
5  生命の変革と国土の変革
 ここには、現実世界からかけ離れた別世界としての浄土ではなく、衆生が自らを変革することによって現実世界を浄土へと変革していくという浄土観が示されています。いわゆる「浄仏国土」(仏国土の浄化)と言われる、動的にして実践的な浄土観です。
 大聖人は浄名経の問疾品(鳩摩羅什訳の『維摩詰所説経』の第五章・文殊師利問疾品)から引用されていますが、この品は、卓越した「在家の菩薩」である維摩詰(ヴィマラキールテイ)が病に倒れ、文殊師利菩薩が見舞いに行ったときに行われた問答を記している章です。
 同品では、維摩詰がなぜ自身が病んでいるのかを語って、「それは衆生が病んでいるからである」(「一切衆生病むを以って是くの故に我病む。若し一切衆生病減せば、則ち我が病も滅せん」〔維摩経問疾品第5、大正14巻544㌻〕)と答える場面があります。菩薩の根本精神である「同苦」の心を端的に示した有名な言葉です。
 維摩詰は語ります。
 ――菩薩は、人々を教え導き救うために、あえて、迷い苦しむ衆生の中に生まれ、生死の苦悩に同苦する。しかも苦に打ちひしがれて迷うことはない。菩薩の心には清浄な悟りの境地が確立しているからである――と。
 このように、大聖人が引かれた浄名経の文は、現実のなかで戦う菩薩の立場から、真の仏の生命と真の浄土の意義を示しています。
 浄名経に基づく大聖人の仰せの結論として、「衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」とあります。
 すなわち、衆生と仏の違いは、衆生における「迷い」と「悟り」の違いにすぎない。それでは、どうすれば、この「迷い」を「悟り」に転換できるのか――。
 先には、衆生の心の変革によって国土も変革していけることが示されましたが、その変革の根幹にあるのが、衆生の生命における「迷い」から「悟り」への転換です。
 この転換を可能にするのが「題目」であり、心の次元では「信」であることは、この講義ですでに述べてきました。すなわち簡潔に言えば、「信」によって、迷いの根本である「無明」を打ち破り、本来具わる仏の生命を現すのです。
 大聖人は、ここで、この根本的な転換の可能性を「たとえば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し」と、譬喩をもって示されています。この譬喩によって、「信」をもって「無明」を打ち破っていく唱題行は「生命の錬磨」の意味を持っていることが示されているのです。
 衆生は本来、妙法の当体です。そして、本来、わが生命に具わる妙法の無限の力を、何の妨げもなく、必要なときに必要な形で発揮できるのが仏の生命です。この状態が「玉」のように見える明鏡に譬えられています。
 しかし、本来は妙法の当体であっても、無明に覆われると、妙法の力を発揮することはできません。この状態が「闇鏡」、すなわち曇って物を映さない鏡に譬えられるのです。
 この生命の闇鏡を磨く修行が唱題行にほかならないのです。
6  生命錬磨の道①――勇んで挑戦
 「只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性ほっしょう真如しんにょの明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり
 この鏡の譬えは、まことに巧みな譬喩であると拝されます。すなわち、鏡が本来的に事物を映す力をもっていることは、衆生が本来、妙理を具していることを示します。
 しかし、鏡は磨かなければ自然に曇ってしまう。大聖人御在世の当時の鏡は銅鏡が一般的ですから、特に曇りやすいと言えます。曇れば鏡としての用をなさない。だから絶えず磨かなければなりません。ゆえに、放置しておけば無明に覆われてしまう衆生の生命を鏡に譬えるのです。
 そして、鏡本来の働きを取り戻すためには「磨く」という行為が不可欠です。また、鏡は、一度だけ磨けばそれでよいということもありません。磨き続けることが大事です。そして、磨けば常に明鏡として鏡の特性を発揮し続けることができます。
 まさにこの譬喩が的確に物語っているように、私たちの唱題行は、無明の汚れを払い、法性の輝きを増していく生命錬磨の戦いなのです。
 この生命錬磨の修行に二つの面があると拝することができます。
 一つは、「深く信心を発して」と仰せのように、「深い信心」を起こすことです。これは、「無明と戦う心」を起こすことであるとも言えます。
 もう一つは、「日夜朝暮に又懈らず磨くべし」と仰せのように、着実な「持続」が大切です。
 この二つは、日寛上人が法華経方便品第二並びに見宝塔品第十一に説かれる「勇猛精進」の文をもって唱題行の二つの面を指摘されていることと共通しています。(『六巻抄』)
 すなわち「勇猛」とは、勇敢にして、信力を励み尽くす信の題目である。「精進」とは、純粋に絶え間なく唱題行に励んでいくことであると言われています。
 唱題は、まず「勇んで為す」という挑戦の心が大切なのです。それは「深く信心を発す」との大聖人の教えのままに、「わが己心の妙理を呼び起こすことができる」「わが生命に本来具わる仏界を現すことができる」「必ず一生成仏できる」という、生命の奥底からの信を起こしていくことでもあると言えます。
 それはまた、題目を唱えることを妨げる三障四魔との戦いに立ち上がっていくことでもあります。紛然と競い起こる障魔に、恐れることなく、倦むことなく、退くことのない挑戦の心が大切なのです。
 挑戦し、戦って、無明を打ち破ってこそ、生命を磨くことができるからです。
7  生命錬磨の道②――持続
 次に「持続」が大切です。特に、一生成仏を遂げていくためには、「持続」は絶対の要件です。大聖人が「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」と仰せの通りです。
 本抄で「日夜朝暮に」そして「懈らず」と重ねて強調されているのは、それほど「持続」が重要だからであると拝することができます。日々たゆみなく唱題行を持続していくことが、一生成仏のための要件です。
 大聖人は仰せです。
 「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや
 苦しい時にも題目、楽しい時も題目です。苦楽を貫いて持続していくことです。「うちとなへゐさせ給へ」の「ゐ」の字には持続の意味があります。
 「苦楽ともに」が極意です。
 「苦」に直面して退いてはならない。今ある現実の「苦」をそのまま「苦」と「さとる」。それは、諦観でも逃避でもありません。
 現実を妥協なく見つめ、その現実に唱題根本で敢然と立ち向かう。そうした信仰者のあるべき姿が示されています。大聖人の仏法における信仰とは、たゆみなき現実変革への信心だからです。
 もちろん、これは一朝一夕に築ける境涯ではありません。しかし、日々月々年々と怠らず磨き戦いぬいていくならば、「無上宝緊不求自得」のままに、おのずと会得していけることは間違いありません。
 次に、「楽をば楽とひらき」とは、人生のなかで喜びが得られたときにこそ、報思感謝を忘れず、一生成仏の大目標に向かって、さらに題目に励むことであると拝することができます。
 求道心を深めていくという点では、苦難の時よりも、何か良いことがあった時のほうが難しいとも言えます。
 どうしても油断や慢心に陥りやすいからです。”苦境には強いが順調な時に弱い”というのではなくして、「苦楽ともに思い合せて」と仰せの通りの鋼のような信心でありたいと思います。
 それは、「広宣流布」「一生成仏」という偉大なる目標を持って戦う学会の信心のなかでこそ培われていくと言える。
 いずれにしても、苦しい時には挑戦の唱題、楽しい時には感謝の唱題と、「日夜朝暮に又懈らず磨く」唱題行こそが宝剣を鍛えぬくように、自身の生命を強靭にしていきます。
 「持続」とは、言い換えれば「不退転」です。御書を繙けば、大聖人が全編にわたって「不退転」を強調されていることが拝察できます。
 「題目を唱うる人・如来の使なり、始中終すてずして大難を・とをす人・如来の使なり
 「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし
 「法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず
 無明との闘争がなければ法性が顕れません。そして、戦い続けなければ、法性と一体の揺るぎない生命を築くことはできない。「すこしもたゆむ心」には魔が入り込むからです。
 また、戦えば三障四魔が出来します。この三障四魔に打ち勝つことで、成仏の境涯を確立することができる。唱題行によって生命を根底から鍛えれば、心はいくらでも深くなり、生命はいくらでも強くなり、境涯はいくらでも広くなります。
8  南無妙法蓮華経は精進行
 大聖人は、一生成仏という大境涯を全門下、いな全人類に教えようとなされた。
 南無妙法蓮華経の唱題行の真骨頂は、仏と同じ生命を現実に涌現させ、これ以上ない深い人生を各人に歩ませることにあります。そのことを明快に示されたのが、次の有名な「御義口伝」の一節です
 「一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり
 この御文は、私が若き日に戸田先生から教えていただいて以来、身をもって拝し続けてきた座右の御聖訓の一つです。いかなる時も、常にこの御文を胸に戦ってきました。
 法華経従地涌出品第十五で、無数の地涌の菩薩が大地から涌現する。この地涌の菩薩は裟婆世界の下の虚空の中に住して、常に仏道を求めて精進を重ね、停滞したことのない菩薩たちであると説かれる。この地涌の菩薩の精進の内容を、大聖人の仏法の御立場から明かした御文です。
 日蓮仏法の真髄は、仏道を求め、精進していく姿そのものに無作三身の仏の生命が涌現していくということです。
 「一念に億劫の辛労」――「億劫」という計り知れないほど長い聞にわたる辛労のすべてを一時に集約するように唱題するならば、本来、自分の身に具わっている無作三身の仏の生命が瞬間、瞬間に起こってくるのである、との仰せです。
 南無妙法蓮華経とは精進行です。深く信心を起こし、しかも着実に持続していく唱題行こそが精進行です。無二の心で、たゆみなく貫き通してこそ、一生成仏の修行となる。
 その実践によって、無作三身という本有の仏界の生命が、尽きることのない勇気と忍耐と歓喜と智慧と慈しみの力となって迸り出るのです。
9  ”勇猛精進の青年よ、出でよ!”
 精進とは、勇猛精進です。勇猛なくして精進は生まれません。
 牧口先生も勇猛精進の人生であられた。
 ある時、牧口先生は青年に語られました。
 「勇猛精進したまえ! 仏法は実行だよ。精進だよ。老齢にはなったが、私も実践しています」
 戸田先生も、青年に呼びかけられています。
 「民衆の幸福を願う心ある青年であるならば、まず自らが、この高邁な人間革命の真髄を求めて、いかなる三類の強敵・三障四魔とも戦いぬき、勝ちぬいて、勇猛精進すべきではなかろうか」
 私もまったく同じ心情です。勇猛精進の弟子よ、青年よ、世界に陸続と涌現せよと熱願しつつ、日々、祈りぬいています。勇猛精進こそ創価の師弟の心です。
 ともあれ、題目は「前進」の力です。題目は「勝利」の力です。あらゆる戦いは、まず祈ることから始まります。題目を唱えぬいた人には、誰もかないません。
 私たちは、どこまでも日夜朝暮にたゆまず題目を唱えながら、わが生命を鍛えぬいて、勝利また勝利の人生を築き上げていこうではありませんか。

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