Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 一念の転換 胸中の変革を忘れれば一切が「無量の苦行」に

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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2  通解
 釈尊が一代の間に説いた八万聖教や、三世十方の仏や菩薩たちも、すべて自身の心の外に有るとは、決して思ってはならない。したがって、仏教を習うといっても、自身の心性を見ていかなければ、まったく生死の苦悩を離れることはないのである。
 もし、心の外に成仏への道を求めて、万行万善を実践したとしても、それは、たとえば貧しい人が、昼夜、隣人の財を数えても、一銭の得にもならないようなものである。
 そうであるから、妙楽が天台の教えを説明した中に、「もし心を見なければ重罪を滅することはできない」と述べ、もし心を見なければ、無量の苦しみの修行になると断じているのである。ゆえに、このような人を「仏法を学んでいながら外道となる」と厳しく批判されているのである。
 すなわち、天台の『摩訶止観』には、「仏教を学んでいながら、かえって外道と同じ考え方に陥っている」と述べている。したがって、仏の名を唱え、経巻を読み、華を供え、香をたくことまでも、すべて自分自身の一念に功徳・善根として納まっていくのだ、と信心を起こしていきなさい。
3  講義
 妙法の「妙」には、「具足」「開く」「蘇生」の三義があります。
 この「妙の三義」はことごとく唱題に具わっています。すなわち唱題には、一切法が妙法蓮華経の一法に具わるという「具足・円満」の妙があります。
 また、九界の生命から仏界を「開く」という変革の妙があります。そして、苦悩の身が大安楽の身に「蘇生」するという大功力の妙があります。
 私たちのこの生命も「妙法の当体」です。ゆえに、一切法が具足しているのです。無明も法性も、煩悩も菩提も、九界も仏界も、すべて自分自身の中にあります。
 だからこそ、無明を明と転じ、煩悩の薪に菩提の火を点し、九界の身に仏界を現すという、生命の根本的な「革命」の妙が可能なのです。
4  無明との闘争
 そして、この大転換を実現する鍵が「心」です。生命変革の鍵は、どこまでも「我が一念」にある。
 だからこそ、大聖人は本抄で「己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法そほうなり」と戒められているのです。
 この仰せの通り、わが一念の変革を忘れずに、唱題の実践に励んでいくところに「妙」の意義が具現化します。
 大聖人が弘められた唱題という法自体は、どこまでも妙なる法であることは言うまでもありません。
 しかし、このような妙法の力も、無明に覆われた生命では十全には現れません。無明とは、妙法を信じず、自他の仏性を見つめることのできない、生命の闇である。その無明を打ち破り、仏界の生命を生き生きと呼び現す力を持っているのが唱題行なのです。
 無明との闘争――このわが胸中の戦いこそが唱題行の本質なのです。
 本章で拝する御文でも、大聖人は「すべて一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず」と再度、強く戒められています。この「ゆめゆめ」との仰せに、きわめて重い意味を拝さずにはいられません。
 この御文では、仏教総体が「己心の法」であるととらえられています。「釈尊一代の八万聖教」すなわち釈尊が説いたとされるあらゆる教えも、また、「三世十方の諸仏・諸菩薩」すなわち宇宙に存在するあらゆる仏・菩薩も、すべてわが「己心の法」であると結論されている。
 そして、仏教の万行万善、つまり一代聖教に説かれるあらゆる修行や、諸仏・諸菩薩への信仰も、己心の外に道を求める限り、何も得られない。それはあたかも、隣人の財産を数えても、自分には何も得られないようなものであるとも言われています。
 さらには、天台の釈を引かれて、心を観ずる修行をしなければ重罪を滅することができないので、結局は、己心の外に万行万善を修行するのは「無量の苦行」となるとまで仰せである。
5  仏法を学んで外道になる
 心を観じなければ重罪を滅することができないとは、どういうことか。ここでいう「重罪」とは、あらゆる悪の根源である無明を指すと拝することができます。謗法の重罪は、無明から生まれる正法誹謗の行為です。
 しかして、この無明は、天台においては観心の修行、すなわち智慧によってのみ滅することができる。そして、大聖人の仏法においては、信をもって智慧に代え、信の利剣をもって元品の無明を対治していく。ここに、唱題行の本質があります。
 いずれにしても、己心の外に道を求めれば、根源悪の無明を打ち破る観心の修行ではなくなります。
 それでは、いかに万行万善を修行したとしても画竜点晴を欠くことになり、隣人の莫大な財産を数えるがごとく徒労に帰してしまうのです。それだけではなく、果てしない努力をしても根源悪の無明は減することはできないのですから、かえって、その努力がすべて「無量の苦行」になってしまうのです。
 この「無明との戦い」こそが仏法の本質です。釈尊の悟りも、生老病死の苦悩の根本原因として無明を見いだし、その無明を克服する道を説いたことにあるとされます。
 ゆえに、己心の外に道を求める限り、いかに万行万善を実践しても、仏法の本質から外れていくのであり、それゆえ「仏法を学して外道となる」と言われているのです。
6  心外に道を求めるのは無明に負けた姿
 さて、重要な点は、日蓮仏法を実践する私たちも、己心の外に法を求める姿勢であれば、外道に堕してしまう危険性があると、大聖人が本抄で戒められていることです。
 日蓮門下の私たちは「我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず」との仰せを決して忘れてはならないのです。
 唱題行は、万人に具わる「本有の妙理」を現して、一生成仏を遂げていくための修行です。
 一切衆生の成仏を実現しゆく修行という意味では、これ以上にない妙行です。
 しかし、この「我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず」との一点をわすれてしまったならば、どんなに修行しても万人成仏の本質を見失い、外道に同化してしまう。それゆえに大聖人は厳しく戒められているのです。
 修行の根幹は、私たちの心性を開くことです。ゆえに、私たちの己心の中での闘争が不可欠であり、三障四魔に破られれば成仏は叶わない。だからこそ、己心における無明との戦いは、凡夫が仏になるために、避けて通ることのできない生命の闘争なのです。
 すなわち、常に胸中の無明と戦い続けるかどうか、という一点こそ、永遠に忘れてはならない成仏への最大の課題です。
 戦えば胸中の仏知見が開かれ、無明を対治していくことができる。しかし、戦わなければ、無明が仏性を覆い隠します。無明は凡夫の「貪・瞋・癡・慢・疑」の生命を助長してしまいます。それが「己心の外に法あり」と見ることの正体にほかなりません。
7  一生成仏の信心とは
 言うまでもなく御本尊は、それ自体が偉大です。「仮使発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳猶多し」(大正46巻170㌻)との妙楽大師の言葉もあります。たとえ、信心がまだ本物でなくとも、対境に縁すれば、その功徳は絶大であると説かれているのです。
 この御本尊の無量無辺の力をさらに大きく広げるのが、学会の正統の信心です。学会の信心には、己心の妙法を現す戦いがあり、功徳の実証があります。この学会に連なれば、大聖人の仰せ通りの正しい信心が、必ず身についていきます。
 ゆえに、ひたむきに御本尊を持しながら唱題し、創価学会の実践を貫いていく人が成仏しないわけがありません。どこまでも伸び伸びと、どこまでも自分らしく輝いていくための信仰です。
 ですから、大事なことは、”信心をしていこう””深めていこう””創価学会の中で頑張っていこう”という前進への一念です。そとに一生成仏の大道があるのです。
 そのうえで、「己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」との戒めを、信心論の上から、具体的に厳格に拝しておきたい。
 「我が心の外に有り」とする姿勢とは、まず一つが、「責任転嫁」である。
 信心とは、聳え立つ大山のように確固たる自分自身を築くことです。ところが、「堂々たる自分を作る」ことを忘れてしまい、信仰が別な次元に歩みだし、知らず識らずのうちに「己心の外に法あり」の脇道に外れてしまうことがあります。
 たとえば、”あの人が悪い””周りが悪い”などと責任を他人に転嫁だけしている姿は、祈っていても、自身の胸中の無明との戦いを避けています。ゆえに、心外に道を求めているのです。もう一歩深く、自分自身が変わることによって事態を改善していく。祈りはその原動力です。
 また、いわゆる「おすがり信仰」であってもいけない。これは、神仏にすがり、その超越的な力で自分の願いを果たそうという信仰で、己心の外に法を見る典型とも言うべきものです。爾前権経の権仏は、このような信仰の対象になりやすい。
 その本質は「逃避」です。悩んでいるようでいて、自分自身の課題から目をそらし、挑戦していく勇気も行動もない。
 戦いがなければ、自分自身の人間革命と直結しません。
 それでは、厳しく言えば、信仰を「逃避」の隠れ蓑にしてしまっている。
 山登りで言えば、ふもとを歩き回るだけで、一歩踏み出して坂を登り始めなければ、いつまでたっても山頂にたどりつくことはできない。自分の課題に対する挑戦を避けてしまえば、自分の生命は永遠に鍛えられない。それでは、一生成仏が成し遂げられるはずがありません。
8  さらに、「漠然たる不信」「グチ」「文句」も排していきたい。
 妙法蓮華経を「心外の法」と考える誤った信心には、自他の生命に仏性が内在することに対する不信がある。この不信の根底には「元品の無明」があります。現実の信心のあり方において言えば、「仏性といっても理想にすぎないのではないか、現実は変わらないのではないか」との不信感は、確信なき祈りや漠然とした祈りとして現れてしまう。中途半端では、当然、一念の転換も、生命の変革もありません。
 本抄に「深く信心を発すべきなり」と仰せのように、一生成仏のためには、信心と祈りを深化させていく必要があります。そして、信心の深化は確信ある具体的な祈りとして現れてきます。
 一生成仏の信心における唱題行にあっては、わが一念を定めることがどこまでも重要となります。
 弓で矢を射る時に的を定めなければ、弓を引く力もこもりません。同じように、「……したい」という漠然たる思いから、「必ず……するのだ」という確信ある祈りへわが一念を決定してこそ、祈りは成就するのです。
 この「漠然たる不信」に通じる門として「グチ」や「文句」があります。グチと文句は、よくないと分かっていても、つい出てしまう場合があります。グチや文句が自分の習性となれば、絶えず自身の成長のブレーキとなって、前進を忘れてしまう。それは、自分自身の可能性を自ら閉ざすことになり、結局は、「己心の外に法あり」の姿勢になってしまいます。
 凡夫にとってグチや文句を消すことは難しいかもしれませんが、それを上手に操り、前進へのバネとすることが、妙法の智慧です。
 また、同志への怨嫉は厳重に戒めていきたい。
 怨嫉や嫉妬、同志への誹謗は、同志の仏性を否定する方向に向かってしまうからです。この他者の仏性への不信は、自分自身の仏性への不信と同様に「己心の外に法あり」の方向に逸脱してしまいます。
 仏性とは、自他ともの幸福を実現する根源の力です。その仏性への不信は「万人が皆、仏である」という法華経の心を否定することです。そうであっては、一生成仏を願っても、自身の成仏が叶うどころか、結局は謗法になってしまうと、大聖人は厳しく指導されています。(「松野殿御返事」御書1382㌻)
 また、異体同心でなければ広宣流布の大願も成就しません。(「生死一大事血脈抄」御書1337㌻)
 自他ともの幸福を願う唱題こそ、真の一生成仏の題目であることを改めて確認しておきたい。誰もが尊い仏子だからです。
9  三代会長の心、創価の挑戦
 「一人一人の己心に法あり」とする宗教は、一人の人を大切にする。一人一人に働きかけ、一人一人の人間革命を促して、万人を救っていこうとします。それが、大聖人が仰せの「地涌の義」であり、広宣流布の変わらぬ方程式です。(「諸法実相抄」御書1360㌻)
 これこそが、牧口先生、戸田先生、そして私と、三代の会長が貫いてきた創価学会の生き方です。それゆえに学会は大きく発展し、広宣流布は全世界に広がりました。
 これに対して、「己心の外に法あり」とする宗教は、権威主義的な宗教や形式的な宗教であったり、民衆を蔑ろにし抑圧していく傾向を持っている。ややもすれば、儀式とか聖職者の権威などを強調し、信徒も、儀式や聖職者にすがることによって不安を紛らわそうとする。
 特に、人間にとって最大の不安は、死であり、死後である。それゆえに、権威主義的宗教や形式的宗教は、葬式仏教のようになっていくのです。それは一人一人がよりよく、より強く生きていくための宗教ではない。
 牧口先生は、仏法は「生活変革の法」であると訴えられました。「妙法蓮華経は我が己心にあり」と信じることは”私は必ず幸せになれる””私は必ず一生成仏できる”と確信することです。そして”自分も友も幸せになれる。だから友に語っていこう”と、広宣流布の戦いに打って出る信心です。そのまことの信心を創価学会・SGIは貫いてきたのです。
 この難事を戦いぬいてきたことに、創価学会の偉大さがあり三代の師弟の不二の心があります。
 「”我、妙法蓮華経なり”と決めよ」と、戸田先生は言われた。
 「妙法」は、万人の苦悩を除く大良薬である。また、万人の幸福を実現する大宝蔵です。その妙法を根本に、そして妙法に徹して、生ききるのです。自身の生命を妙法に染め上げるのです。自身の生命を妙法で固めるのです。
 私たちの現実は、次から次へ悩みがある。しかし、自分が妙法蓮華経であると定めて、”いかなる苦難も乗り越えていける””断じて幸福を勝ち取っていくことができる”との大確信で、すべてに向かって勇敢に挑戦していくことです。
 「我は妙法蓮華経なり」との深い信心を貫くならば、勇気をもって、いかなる課題にも挑戦していける。勇気を現していけるかどうか、そこに人生の勝利の鍵があります。
 「逃げる臆病」ではなくて「挑戦する勇気」――これが大事です。
 どのような障魔が競い起こっても、一歩も退かない。驚かない。何事にも打ち勝っていけるのが、妙法蓮華経です。それを深く確信することが大事なのです。
 逆に、苦難に怯えて環境を嘆いたり、恨んだりすれば、「己心の外に法あり」という生き方になってしまう。
 自分が勝つという確信が失せて、誰かが助けてくれるだろうと人頼みをしたり、他人のせいだとかグチを言ったり、仕方がないとか諦めたりするのも、「己心の外に法あり」の生き方です。
 どのような苦難があろうと、魔を魔と鋭く見破って、逃げずに戦っていく、それが題目をあげて妙法に生きゆく人の生き方です。「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」と仰せのように、臆病を排し、勇気を第一に生きていくことです。
 勇気ある信心の人は、臆病・無明・迷いの暗雲が破れ、妙法の太陽が輝き、妙法蓮華の花が生命に咲くのです。
 戸田先生は、草創の女子部にこう指導されました。
 「もったいなくも、御本仏と同じ生命を持っている自分自身に誇りをもちなさい。気高い心で、人生を勝ちぬくことです。自分自身を卑しめていくことは、絶対にあってはならない」
 日蓮大聖人の仏法は、自分の中に偉大なる仏の生命があると自覚するところから出発する。ゆえに、最大の「一念の転換」をもたらす信仰なのです。ゆえに大聖人は「心」を強調されているのです。
 「仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり
 私たちの実践は、朝晩の勤行はもとより、あらゆる活動が、すべて「我が一念に納めたる功徳善根」である。その深き心で前進する人が、一生成仏の直道を歩む真正の勝利者となるのです。
 どこまでも「心こそ大切」の大哲学を掲げ、栄光と勝利の人生を歩んでいきましょう。

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