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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 「己心の外に法ありと思はば全く…  

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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1  御文
 但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法そほうなり、麤法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり、方便権門の教ならば成仏の直道にあらず成仏の直道にあらざれば多生曠劫たしょうこうごうの修行を経て成仏すべきにあらざる故に一生成仏叶いがたし、故に妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり
2  通解
 ただし妙法蓮華経と唱え持っているといっても、もし、自身の生命の外に法があると思ったならば、それはまったく妙法ではなく、麤法(不完全な法)である。
 麤法は、法華経ではない。法華経でなければ方便の教えであり、仮の教えである。方便であり、仮の教えであるならば、成仏へ直ちに至る道ではない。成仏へ直ちに至る道でなければ、何度も繰り返し生まれて重ねる長遠な修行を経て成仏できるわけでもないので、一生成仏はついに叶うことはない。
 ゆえに、妙法と唱え蓮華と読む時は、自身の一念を指して妙法蓮華経と名づけているのだ、と深く信心を起こすべきである。
3  講義
 唱題は、「妙法」と「自分自身」との交流です。自分自身が妙法と一体になるための修行です。
 それは、妙法と一体になることを阻む無明との戦いでもあります。信によって無明を打ち破り、妙法と一体になれば、妙法蓮華経という「大いなる法」の「大いなる力」がわが身に開花するのです。そこに唱題の計り知れない功徳があるのです。
 その求道の信心を込めて南無妙法蓮華経と唱えるところに、大聖人の弘められた唱題の要諦があると拝することができます。
4  成仏の因果をわが生命の骨髄に
 「心こそ大切」です。三障四魔に退くことなく、無明を打ち破っていく勇気ある信心こそ、私たちが唱題に、おいて何よりも心すべきことです。
 妙法蓮華経とは、究極の妙理の名です。そして南無妙法蓮華経とは、この妙理を顕現した仏の生命の名です。
 ゆえに、南無妙法蓮華経と唱える信心の一念に妙法蓮華経の無限の功徳が開花するのです。これが、仏界の生命の涌現です。
 ここに信心を「因」とし、仏界の生命の涌現を「果」とする一念の「因果」があります。苦楽につけて、また自行化他にわたって、この因果一念の唱題を持続していく人は、唱題に含まれる成仏の因果の功徳を、わが生命の骨髄として確立することができます。そのとき、その人の生命に確たる仏界の生命が現れます。これが「一生成仏」です。
 大聖人は「観心本尊抄」で、妙法蓮華経の受持が即ち観心であることを論じられて、「妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳は骨髄に非ずや」と仰せです。信心の「因」と仏界涌現の「果」。この因果一念を成就するのが唱題の力です。
 このことから考えると、唱題の声は、無明を打ち破り、障魔を打ち払っていく確固たる信心と求道の声であるとともに、その結果として涌現した仏界の生命から発する獅子吼でもあると言えます。
 南無妙法蓮華経の唱題は衆生の信心の声であるとともに、仏の生命の声でもあるのです。ゆえに唱題は、どこまでも白馬が駆けるように朗々と、そしてさわやかに実践していきたいものです。
 さらにまた、自分自身が本来、妙法蓮華経であることを確認する行為が唱題であると言うこともできます。本来の自分に立ち戻り、元初の生命力を奮い起こす戦い、それが唱題です。
 大聖人は「南無妙法蓮華経と唱える以外に真の遊楽はない」と断言されています。そして、その遊楽とは「自受法楽」であると言われた。
 「法楽」とは、生きていること自体、存在していること自体に具わる確固たる安楽です。妙法と一体の大いなる生命力を満喫し、楽しむのです。自分自身が妙法の楽しみを受ける自受法楽の道は、この唱題以外にないと仰せなのです。
 このような意義をもつ唱題行において、絶対に忘れてはならないことは、「妙法蓮華経とは自分自身のことである」という一点です。
 この一点を忘れたら、いかに題目を唱えても、大聖人の教えられた唱題行とはかけ離れたものに陥ってしまいます。
5  妙法と麤法
 ゆえに、本抄で大聖人は「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法そほうなり」と厳しく戒められているのです。南無妙法蓮華経の題目を唱えても、妙法蓮華経が己心の外にあると思って唱題している限り、それは妙法にならず、麤法に、なってしまうと仰せです。
 麤法とは、不完全な法という意味です。妙法が完全な真理を意味するのに対して、麤法は部分的な真理にすぎません。
 この仰せには、宗教の陥りやすい悪弊を乗りぜえるための深遠な宗教論があります。そしてまた、真の幸福を得るために必須の信仰論があります。
 宗教は、一般的に、「大いなるもの」「絶対的なもの」「聖なるもの」を人間に結びつけるための人類普遍の営みであると言われています。
 ある意味では、それは正しいでしょう。しかし、多くの宗教では、聖と俗、神・仏と人間などが、最初から分離され、それを改めて結びつけるという教えであるように思われる。
 それに対して大聖人は、「絶対的なもの」や「聖なるもの」を最初から分離する宗教のあり方を、まだ完全なものではないととらえられていると拝することができる。
 そのような麤法の例として、大聖人は本抄で爾前権教を挙げられているそれらは、歴劫修行に見られるように、衆生が一生成仏できる法理も実践も説かない。爾前権教では、「仏」と「凡夫」の間に超えがたい懸隔があります。凡夫のなかのごく一部の修行の達人だけが歴劫修行の果てに仏を目指すことができるのであり、反対に、仏になってから凡夫に戻ることはありえません。
 原則として仏が住む世界もまた、凡夫の住む裟婆世界ではありません。両者の間は、徹底的に隔絶しています。
 「仏界」と「九界」の間に断絶がある限り、万人の成仏は現実のうえでありえません。どこまでも、理想とされる仏とは、人間とかけ離れた存在であり、その仏による救済を願うしか、凡夫がなしうることはありません。
 この九界と仏界の断絶を破ったのが法華経の一念三千の法であり、端的に言えば、「九界即仏界」「仏界即九界」の法理です。いかに法華経の十界互具の思想が卓越しているか。
 日蓮大聖人は、唱題行を修行として立てることにより、十界互具という一生成仏の原理を実現する道を開きました。ここにこそ、民衆の成仏を目指す仏教の完成形態があるのです。
6  仏性を「よび」「よばれる」
 妙法は「宇宙根源の法」です。その意味では、私たちを超えた普遍性をもっている。しかし、「衆生本有の妙理」とあるように、妙法は、私たちの生命に内在する。いわば「自分の内にあって、自分を超えているもの」が妙法です。また、「すべてのものを包む普遍的な法であるがゆえに、自分の中にも内在している」とも言えるでしょう。
 「法華初心成仏抄」では、「妙法蓮華経」の本質について、次のように仰せです。
 「凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と三世の諸仏のさとりの妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり
 妙法蓮華経は、私たち自身の仏性であるとともに、梵天・帝釈、舎利弗・目連、文殊・弥勒などの仏性であり、それは、そのまま三世の諸仏の悟りの妙法と同じであると仰せです。
 続いて大聖人は、この御文の次下で、題目を「唱える」こととは、十界の一切衆生の心中の仏性を「呼び顕す」実践であると仰せられています。
 「故に一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏・一切の法・一切の菩薩・一切の声聞・一切の梵王・帝釈・閻魔・法王・日月・衆星・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳・無量無辺なり
 さらに大聖人は、南無妙法蓮華経の唱題の意義について「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」と仰せです。
 この「よびよばれて」との表現に、妙法の深義が示されています。
 この原理を分かりやすく示すために、大聖人は有名な譬喩を説かれました。
 ――籠の中の鳥が鳴けば、空を飛ぶ鳥たちが呼ばれて集まってくる。また、空飛ぶ鳥が集まって鳴けば、籠の中の鳥も出ようとするようなものである。(御書557㌻、通解)
 ここで「籠の中の鳥が鳴く」とは、無明・煩悩に束縛された衆生が信心を起こして唱える題目です。「この苦難を妙法の力で必ず解決してみせる」「必ず幸せになってみせる」という信心で唱える題目です。
 このとき、題目の力で、あらゆる衆生の仏性を呼んでいるのです。すると梵天・帝釈、仏・菩薩などの仏性が現れるとともに、唱えた衆生も無明の束縛を打ち破って、自らの仏性を現すことができるのです。言い換えれば、森羅三千に遍満している「妙法」と「我ら衆生」を結び付けるのが、題目の音声の力なのです。
 さらに、大聖人は「新池御書」で、母鳥と卵の譬えを通して唱題の意義を説明されています(御書1443㌻)。これも有名な譬えです。
 そこで大聖人は、南無妙法蓮華経の題目は、「唱への母」であると仰せです。鳥の卵の中身は最初は水分しかないようだが、母鳥に温められると、嘴や目や鎧毛がつくられていきます。そして、やがて小鳥が殻を破って孵り、ほどなく母鳥と同じく大空を翔けめぐるようになる。
 この卵とは「衆生の仏性」、母鳥は「仏の生命」を表していると拝することができます。
 南無妙法蓮華経の唱題は、衆生の信心の声であるとともに、仏の生命の働きでもあるということです。
 この唱題による成仏を実現するために最も肝要なる戒めが、「己心の外に法を見てはならない」ということなのです。己心の外に法があるという考え方は、爾前経の”断絶の世界”にすべてを引き戻してしまうからです。
7  「自分自身が南無妙法蓮華経」の覚悟
 この南無妙法蓮華経の題目には、無量無辺の功力があります。
 戸田先生は、妙法の無量の力について、こう語られたことがあります。
 「広いところで、大の字に寝そべって、大空を見ているようなものだ。そして、ほしいものがあれば、すぐに出てくる。人にあげてもあげても出てくるんだ。尽きることがない。君たちも、こういう境涯になれ」
 まさに、南無妙法蓮華経は如意宝珠に譬えられます。必要なときに必要な力を出すことができる。こうした大境涯を開くためにはどうすればいいのか。戸田先生は、「こういう境涯になりたかったら、法華経のため、広宣流布のために骨身を惜しまず戦うことだ」と常に語っていました。
 まさに三世諸仏や梵天・帝釈とともに、大宇宙のいずこにあっても、人々の不幸と悲惨を断ち切り、生老病死の苦悩を打開しながら、幸福と平和の価値創造の世界を実現していくことです。
 この気宇壮大な心を、戸田先生は私たちに示してくださったのです。
 先生は、徹頭徹尾、己心の内に法を見ていく姿勢を貫かれました。「仏とは生命なり!」「我、地涌の菩薩なり!」との悟達を出発点として、「自分自身に生きよ」と語られていた。
 また、自分自身の妙法に目覚めゆく信心のことを、よく「自分自身が南無妙法蓮華経だと決めることだ!」「自分は南無妙法蓮華経以外なにもない! と決めることが末法の折伏である」とも教えられていました。
 これこそ、まさに「妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり」と仰せられている御精神そのものではないでしょうか。
8  人類宗教の新たな大道
 宗教は、「神」や「法」などの名で、人間を超えた無限なるもの、無常を超えた永遠なるものを説きます。それは、ある宗教では「畏怖」の対象であり、ある宗教では「憧憬」の対象であり、ある宗教では「無」の深淵であり、ある宗教ではすべてを包む「愛」の源泉です。大聖人は、万物を包み支えている妙法の力を、人間に内在するものととらえ、それを人間生命に現す道を打ち立てられた。
 私はかつて、アメリカのハーバード大学で二度目の講演をしたとき(一九九三年九月二十四日)に、現代文明における大乗仏教の意義を論じ、「平和創出の源泉」「人間復権の機軸」「万物共生の大地」という三つの意義を提示した。(「二十一世紀文明と大乗仏教」。本全集第2巻収録)
 その中で、「人間復権の機軸」については、特に「自力」と「他力」の一方に偏らない日蓮大聖人の仏法のあり方が重要であることを論じました。多くの知性の方から共感の声が寄せられております。
 ともあれ、人間は、「他力」すなわち有限な自己を超えた永遠なるものへの祈りと融合によって初めて、「自力」も十全に働きます。しかし、その十全なる力は、本来、自分の中にある。
 大聖人は「自力も定めて自力にあらず」「他力も定めて他力に非ず」と言われている。
 この意味するところは、どちらかに偏ることを排して、「自分の中に自分を超える力を現す」ということであると拝することができます。この道を実現したのがまさに唱題行なのです。
 これによって、自力と他力を分離して一方に偏る宗教のあり方を乗り越える、新しい「人類宗教」の大道を広々と示されているのです。

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