Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 唱題の意義 仏法正統の実践で生命究極の勝利へ

講義「開目抄」「一生成仏抄」(池田大作全集第34巻)

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2  通解
 無限の過去から繰り返されてきた生死の苦悩を留めて、今この人生で間違いなく最高の悟りを得ようと思うならば、必ず衆生に本来具わる妙理を自身の生命の中に見ていくべきである。
 衆生に本来具わる妙理とは妙法蓮華経のことである。ゆえに、妙法蓮華経と唱えれば衆生に本来具わる妙理を自身の生命の中に見ていることになるのである。
3  御文
 文理真正の経王なれば文字即実相なり実相即妙法なり唯所詮しょせん一心法界の旨を説き顕すを妙法と名く故に此の経を諸仏の智慧とは云うなり、一心法界の旨とは十界三千の依正色心・非情草木・虚空刹土いづれも除かず・ちりも残らず一念の心に収めて此の一念の心・法界に徧満へんまんするを指して万法とは云うなり、此の理を覚知するを一心法界とも云うなるべし
4  通解
 法華経は、文も法理も真実で正しい経の王であるので、経文の文字はそのまま実相であり、実相はすなわち妙法である。
 結局、一心法界の法理を説き顕している教えを妙法と名づけるのであり、ゆえにこの法華経を諸仏の智慧というのである。
 一心法界の法理についていえば、十界・三千における依報も正報も、色法も心法も、非情の草木も、また大空も国土も、どれ一つとして除かず、微塵も残さず、すべてを自分の一念の心に収め入れ、また、この一念の心が宇宙のすみずみにまで行きわたっていく。そういうさまを万法と言うのである。この法理を覚知することを一心法界ともいうのである。
5  講義
 南無妙法蓮華経の唱題行には、無量無辺の功徳があります。「宇宙根源の法」である妙法の無限の力を自らの生命に呼び現す力が、唱題にはあるからです。
 日蓮大聖人は、この南無妙法蓮華経の無限の功徳力で、全人類の幸福を築こうと立ち上がられました。
 その大聖人の戦いの教義的な立脚点が、「一生成仏抄」の冒頭の一節に簡潔に示されています。
 「夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし、衆生本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり
 この一節には、仏教の深き哲理と、万人の成仏を目指してきた宗教革命の歴史が凝縮されています。一句一句、一つ一つの表現に、卓越した仏法の智慧が込められています。
 「無始の生死を留める」とは、人生の根本的な課題と宗教本来の役割が表現されています。「無上菩提を証する」とは、この宗教的な課題に対する仏教からの英知にあふれた回答です。
 「衆生本有の妙理を観ずる」とは、この回答を法華経思想によって、さらに洗練・深化させたものです。「妙法蓮華経と唱える」とは、その宗教的英知を万人が実践できるように大聖人が立てられた修行です。この実践化は、民衆救済を目指す大慈悲の結晶であり、日蓮仏法の深い革新性を示しています。
 この御文全体を通して、大聖人の立てられた唱題行が、仏教における「正統性」と「究極性」をもった大行であることが浮き彫りになってきます。
 まさに、この短い一節の中に、数千年の仏教の英知と、大聖人の仏法における民衆救済の慈悲と智慧が、明快につづられているのです。
 本章では、大聖人が立てられた唱題行こそ、仏教の正統な修行法の結論であること、また、これによって万人が仏と同じ境地を確立していく真の民衆仏法が開幕したことを確認していきます。
6  無始の生死を留め、永遠の幸福を確立
 まず、冒頭の「夫れ無始の生死を留めて」との仰せから、その深義を拝察していきましょう
 「無始の生死」とは、無限の過去から永劫の未来にわたって続く、生と死の果てしない繰り返しのことです。輪廻転生の思想が前提となっている表現ですが、仏教では、この果てしない生死の苦しみの流転は煩悩に起因すると考えられており、煩悩・業・苦という悪の連鎖が、この生死流転に伴っているとされます。その意味では、「無始の生死」とは、果てしない迷いと苦しみの繰り返しでもある。
 この流転はとうてい、耐えられるものではありません。そこで、この生と死の流転を留め、迷いと苦しみの連鎖から解放されたいという願いが出てくるのです。生死流転からの解放について、仏教では二つの考え方があります。一つは、流転の原因である煩悩を滅すれば流転から解放されるという考え方です。
 もう一つは、私たちの生死は決して無常の流転ではないという大乗教的な考え方です。たとえば、菩薩の誓願によって生死があるとか、あるいは、生死の流転そのものが、宇宙根源の大いなる生命から現れ、大いなる生命に帰っていくことであるとされます。後者は大海と波の譬喩を用いると分かりやすいでしょう。すなわち、大いなる生命は大海に、生と死の流転は大海から波が起こり、大海に帰っていくことに譬えられます。
 生死流転する自身の生命を、このようにとらえていくのが「無上菩提」、つまり仏の最高の悟りです。
7  すべてを包み、すべてに内在する妙理
 御文では、「衆生本有の妙理を観ずる」ことが「無上菩提を証する」ことであると仰せです。衆生、すなわち生きとし生けるものが本来、具えている妙理を観ずる智慧が、仏の最高の悟りなのです。
 仏教が、それまでの思想・宗教と大きく一線を画す点は、一個の人間の内に、無量の苦悩を根本から解決する「法」、すなわち「無限の力」を発見したことです。これによって苦悩を根本から解決し、ゆるぎない幸福を築く最高の智慧を得た人が「仏」です。
 仏法は、どこまでも人間の無限の可能性を信ずる、最高の人間主義なのです。それゆえに、仏法を内道、内なる道と言います。
 この「衆生本有の妙理を観ずる」ことが、「無上菩提を証すること」であり、「無始の生死」を留める唯一の方途である。
 これが、釈尊の出発点であり、仏教思想の結論です。この内道の思想を高らかに謳い上げた経典が、万人成仏を説く法華経です。法華経こそが、人間尊厳の思想の極理であるとも言えます。
 本抄で大聖人は、「衆生本有の妙理」とは「一心法界の旨」のことであると言われています。「一心法界の旨」とは、万法がわが心に納まり、わが心が万法に広がるという、心と宇宙の不可思議な関係を言います。これは、日寛上人が一念三千について言われた「具遍の義」と同義と拝せます。
 大いなる生命は、すべてを包み、あらゆるものに遍在する。そして、すべてを包むゆえにあらゆるものに内在しているのです。
 このその大いなる生命と心が一致するのが「一心法界の旨」であり、この妙理を悟るのが仏の悟り、つまり「無上菩提」なのです。
8  妙理に名を付ける
 さて、問題は、どうすれば、万人がこの「衆生本有の妙理」を観ずることができるか、その一点にあります。仮に妙理を観ずる道が開かれでも、その道を歩み通すことができるのは、ごく一部の限られた人だけだというのであれば、仏教は民衆に開かれた宗教にはなりえません。
 大聖人以前、この妙理を観ずる方途を確立しようとしたのが、天台大師の観念観法です。しかし、これは末法の民衆に開かれた方途ではありませんでした。
 そこで大聖人が開拓された道の第一歩は、妙理に名前を付けられたということです。
 「衆生本有の妙理」には、もともと名前はありません。しかし、この「衆生本有の妙理」を自身の生命に発見した聖人が、それに最もふさわしい名を付けるのです。このことは「当体義抄」に仰せの通りです。(御書513㌻)
 名前を付けることは創造的行為そのものです。物事の本質を的確にとらえた名前を付けることで、その本質を万人に開放する大きな結果をもたらします。名前が付くことで、万人が価値を共有していくことができるからです。
 本抄に「衆生本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり」と仰せのように、大聖人は、「衆生本有の妙理」という根本法とは「妙法蓮華経」にほかならないことを明確に宣言されています。
 厳密に言えば、「妙法蓮華経」という言葉自体は法華経の経題として存在していました。しかし、この妙法蓮華経こそ、法華経において仏の甚深の智慧として説かれる「諸法実相」の深理の名であることを明かされたのは、大聖人が初めてです。
 また、如来寿量品第十六では釈尊に即して永遠の仏の生命が説かれますが、「寿量品の肝心」こそ妙法蓮華経であると明かされたのも、大聖人が初めてです。
 この永遠の仏は、久遠に成仏して以来、衆生救済のために十界のさまざまな姿を現しながら、仏として生と死の流転を繰り返す存在です。十界の衆生も、また、生も死も、大いなる永遠の生命の現す姿であることを示しているのが寿量品です。その寿量品の肝心が妙法蓮華経であると言われているのですから、妙法蓮華経は寿量品の大いなる生命の名であると拝することができます。
 生と死を繰り返す九界の衆生の生命も、実は、この大いなる生命である妙法蓮華経から現れ、妙法蓮華経に帰っていくという生死のリズムを刻んでいるのであり、妙法蓮華経に包まれ、また妙法蓮華経を内在させているのです。ゆえに、妙法蓮華経が「衆生本有の妙理」の名なのです。
 この妙法蓮華経こそ、末法に唱え弘めるべき題目であると明言したのは、大聖人が最初なのです。
9  妙理を観ずる唱題行の開始――民衆仏法の確立
 大聖人が開拓された大道の次の一歩が、「題目を唱える」という修行の確立です。
 「妙法蓮華経」という普遍的な真理に対して、大聖人は「南無」を付けられ、その真理に対して呼びかける修行を樹立されたのです。
 南無とは「帰命」の意味です。「南無妙法蓮華経」と声を出して唱題することは、自身がその真理の世界に帰していくことを身口意の次元で決意し、誓う宣言にほかなりません。そして、それと同時に日蓮仏法の特徴は、一人一人の人生において、妙法蓮華経の普遍の真理に基づく生き方が実現するということです。
 大聖人の仏法における唱題行の急所は、単に「外なる真理」の名称を唱えることではありません。宇宙と生命を貫く「内なる真理」を呼び覚まし、自身がその真理に基づき生きていくことを現実のものとする実践にほかならないのです。いわば、「衆生本有の妙理」をわが生命の内側から発動させ、発揮させる自分自身を確立していく作業そのものなのです。
 仏教の歴史に鑑みれば、法華経が「衆生本有の妙理」に目覚めることを教えていても、現実のその後の仏教の展開は、この「妙理」が内にあることを忘れてしまった。そのなかで、一念三千・一心法界の義に基づいて観法を立て、胸中の仏界を呼び覚まそうとした天台大師の観心行(観念観法)は、法華経の正道を復活させた正統な実践と言えます。
 さらに、日蓮大聖人は万人に実現可能なものとして、「衆生本有の妙理」に名を付けられ、その名を唱える唱題行を打ち立てられた。そして、妙理への帰命と、妙理に基づく生命の確立とを可能にされた。
 このように、大聖人によって、宇宙と生命を貫く真理が自身の胸中にあると目覚め、それを涌現する道が、万人に開かれたのです。しかも、その真理は、諸仏の悟りの智慧であり、法華経という無上の経典に余すところなく示された真理である。
 そして、その真理に生きることによって、無上の価値を人生の上に実現することができる。その世界に、誰でも、いつでも、いかなる身でも、どこでも参加できるように開かれたのが、日蓮大聖人の仏法です。この日蓮仏法の唱題行によって、民衆仏法が確立されたと言っても過言ではありません。
 まさに、日蓮大聖人の仏法の唱題行は、自身の生命変革をもたらす最高の仏道修行です。
 また、題目を唱えることは、自身の仏の生命を呼び覚ますことです(「法華初心成仏抄」557㌻)。唱題こそが仏界涌現の直道です。
 涌現された仏の智慧と慈悲の生命は、自身の生命境涯を豊かにし、自他ともの幸福を実現していく。さらに、自行化他の唱題が広がっていけば、仏の慈悲の生命に彩られた民衆の連帯が可能になり、人類の宿命をも転換していけるのです。
10  ”我が身即日蓮大聖人”
 私たちが唱える南無妙法蓮華経の本義について、さらに忘れてならないことは、南無妙法蓮華経とは、日蓮大聖人の御本仏の御生命の名前でもあるということです。
 南無妙法蓮華経といっても、日蓮大聖人の御本仏としての御生命を離れて存在するものではありません。宇宙と生命を貫く根源の妙法蓮華経の真理は、日蓮大聖人が実践され、日蓮大聖人の御振る舞いのなかに現れることによって、初めて確立されたと言えます。それまで人々が観じるkおとのできなかった「法」が、現実に示されていったからです。
 日蓮大聖人の御本仏の生命とは、悪と戦い、無明を破る生命にほかなりません。この地上の一切の不幸と悲惨、宿命と四苦から人間を解放する闘争は、その悪をもたらす根源の無明と戦うことに尽きます。
 日蓮大聖人が広宣流布のために唱えられた自行化他の南無妙法蓮華経の題目には、「無明の雲晴れて」と仰せのごとく、無明を払う力があります。
 南無妙法蓮華経と唱えれば、胸中に仏界の太陽が昇ります。厚い雲のように太陽を覆い隠していた無明が晴れていくのです。胸中に仏界の太陽が昇れば、無明の闇は去っていきます。
 日蓮仏法は、大聖人御一人が太陽であるという宗教ではありません。大聖人御自身が胸中に太陽を昇らせたように、私たちの胸中に太陽を昇らせるための宗教です。もったいないことですが、わが身に日蓮大聖人と同じ仏の太陽の生命が昇るのです。
 このことは、日寛上人が「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊蓮祖聖人なり」(「観心本尊抄文段」)と仰せの通りです。まさに、唱題行は、民衆一人一人が太陽になることを教えた最高の成仏への道程なのです。
 プーシキンは歌いました。
 「偽りの知恵は、
 不滅の知性という太陽の
 前に揺らぎ、くすぶる。
 太陽よ、万歳!
 闇よ、消えよ!」(А.С.Пушкин:Собрание сочинений,том2,Художественная*литература)
 日蓮仏法は、生命究極の勝利への道を全人類に開いた太陽の仏法です。我らこそは、「太陽万歳」と高らかに謳いながら、人々の胸中の闇を晴らす戦いに、勇躍、邁進していこうではありませんか。

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